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私が生まれた時、おじいちゃん、おばあちゃん
と呼ぶ人が何人いたと思います?!
曾祖父が2人
曾祖母が3人
祖父が2人
祖母が2人
何と9人ですよ。
母方の曾祖母が一番長生きで、
息子が生まれた時にもいました。
今はもう他界しましたが、一番大好きなひーばーちゃんでした。
このひーばーちゃんは、「フジさん」と言います。
ひーばーちゃんはあと2人。
「ツジさん」と「トメさん」
フジさんは、本当に大好きでした。
ツジさんは、普通に好きでした。
トメさん・・・トメさんは怖かった!!!
このトメさん。
いつも縁側に座って、外を通る私に話しかけてくる。
(祖母の方の曾祖母の為、近所ではあるが一緒に住んではいない。)
「ちょっと、けー(来い)!」
行くと、必ず、何かくれる。
人形だったり、おこづかいだったり・・・
でも、怖い!
何故なら・・・
いっつもキセルを片手に煙草をふかしていたから。
いつか、あれで殴られるのではないかとビクビクしていた。
どうして、そんな風に思ったか・・・
このトメさん。ものすごい無愛想。
笑った顔を見たことない。
小学校3〜4年ぐらいの時に、このトメさんは亡くなった。
最後に、トメさんの住んでいた家が改築するので、暫く一緒にすんでいたが、
時すでに遅し。
トメさんは、寝たきりだった。
結局トメさんの笑った顔は知らないままだ。
曾祖父にいたっては、全然記憶がない。それはそうだ。
1歳になる前に亡くなったから。
祖父も同じ。(曾祖父、この祖父共に母方)
私が2歳になる前に亡くなった。
でも、この祖父のことは憶えている。
不思議だけど憶えている。
多分、この祖父が私が生まれたことも私の存在自体も
一番大事にしてくれたのではないかと、今思う。
祖父は真面目で勤勉な人だった。
当時の人には珍しく、学歴はないのに、
独学で英語なども話せたという。
今、教師をしている叔父はきっと
この祖父に似たのであろう。
叔父は、4歳でこの父を亡くしてしまったのだ。
そして、私が一緒に住んでいた、育ててくれた祖父母は
今もなお健在だ。(父方)
歳は・・・80ぐらい?よく知らない・・・
自慢じゃないが、私は横浜にくるまで、ずーっと祖母と一緒に寝ていた。
同じ布団で。この祖母には感謝している。勿論祖父にも。
小学校の部活で遠征に行った時も、臨海学校で親が付き添わなければいけないときも
いつも、祖母がきてくれた。
お弁当も祖母が作ってくれた。中学の朝連の時も
お弁当を持たせてくれた。試合も見に来てくれた。
中学ではハンドではなく、ソフトボール部に所属した。
ジャージとグローブは無理して買ってくれた。
感謝している。
お弁当のおかずにも、事欠いていたはずなのに
いつでも、豪華なお弁当。でも、買えない物もあった。
それは、アルミホイルやバラン。
何度も洗って使っていた。そんな時、暑い夏場
蛆が湧いていた。
私はわかっていたので、黙って、ついていない所を選んで食べた。
食べたあと、すぐに隠した。悲しかった・・・
「ばーちゃん、ごめんね」
何故か、この言葉しかその時は出なかった。
祖父・・・怖かった。でも、祖母が入院していなかった時も
私のお弁当はこのじーちゃんが作ってくれていた。
朝食も、毎日作ってくれた。「玉子焼きおいしい〜☆」
と、弟と2人で言ったら調子に乗っていたが・・・
この時・・・「これがすき焼きだ!」
と、言われて出されたものは、お肉が入っていなかった。
ビックリした。そーかー家のすき焼きは肉なしか〜
前に、ダウンタウンのまっちゃんが、「肉の代わりにソーセージが入っていた」
と、言っていたが、家は肉無しだ。従って家の勝ちだ!
祖母は、よく内職をしていた。栗の皮を剥く内職があって
よく一緒に話しながら手伝った。手が真っ黒になる。
冬場は、作業小屋で、熊本の名産物の一つになる井草。
この井草を割って束にするという仕事がある。
冬の寒い中、しかも夜。
作業小屋と言っても、下は地べたで腰も冷える。
今、祖母は足が悪い。当然だ。
祖父は目が見えない。緑内障で段々と見えなくなった。
娘を連れて帰った時は、まだ、かろうじて片目が見えていた。
見えなくなる前に、娘を、曾孫を見せられてよかったと思っている。
一時期、この祖父母を恨んだこともあった。
でも、育ててもらった恩や、こうして振り返ってみると
やっぱり感謝せずにはいられない。
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