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July-December,2004
 敏感の憂鬱  2004/6/27
ほんの少しの口角の上がり具合や、呼吸に重ならずに行われる瞬きの長さや、横顔の角度が作り出す重い陰影や、 動揺の波が伴う指先の震えや、ささくれたような相槌の遅れや、瞳の潤みの割れそうな零れ方。
私は人の心を読みすぎる天才だ。
真実に勝る嘘も、矛盾を覆い隠した繕いも、容易く、楽々と、私に通用すればいいと何度願ったか知れない。
一日中一晩中超えても越しても同じことを考え続けて何も感ずることの無かったかのように振舞うのは何と 労を要することだろう。騙される才能、心をするすると流す術さえ私にあるのなら。
気持ちを無にするには集中に限る。そう、例えば車の運転、お菓子作り、裁縫、バレエ、書道、、、 全てを緊密な無に浸透させられるようなことに凍みるほど身を捧ぐ。
涙が空白になるまで。敏感が私から奪われるまで。
 バスには優しく、タクシーには敬意を  2004/5/21
電車の網羅から外れてしまっている地区が多く存在する京都で市民の重要な移動手段はバスでありタクシーである。
観光客の方にとっても、京都の名所を巡ろうと思えば電車だけでは難しい筈。
バスの時間通りにやってこないのは非常に困るのだけれど、こればバスが悪いのではなくて 狭い道幅に苦しめられたり違法駐車が多かったりするからだ。バス優先、実践している方は気付かれているかもしれないけれど、バスに道を譲った際に お礼の合図をしてくれる運転手さんはとても多い。じんわり温かくなる瞬間。 運転があまり上手でない私は時々 道を譲るタイミングを逃してしまったりするのだけれど、慌てて目を走らせたバックミラーに後続車がきちんと バスの進行に協力している様子が映っていると、ああ、良かった、と嬉しくなる。
そしてタクシーの運転技術には心の底から感服だ。キレのある車線変更、柔らかい停止、滑らかな加速、、、 そんな中でお客さんを素早く見つけるのだから本当に凄い、の一言。「京都駅正面まで急いでください!○分までに!」 と無理な注文をしても瞬時に最短ルートを提案してくれる頼もしさだ。いちドライバーとして一緒に市内を 走っていると、時に教習所では身につかないような、 実際に役立つルールを暗に教えてもらえたりする。
京都の美しい街並みに欠かせないバスとタクシー。いつもバスに優しく、タクシーに敬意を。

 調理器具の魅力  2004/4/23
舞花が気まぐれで買ってきたフィスラーのお鍋。一番大きいものは直径25センチ、深さ20センチ はあろうかという3点セット。
私はこれまで 調理器具なんて単なる自己満足の一部だと思っていた、、、というより思いたいと願っていた。美味しいものを作りたいと いう意欲だけが仕上がりの全て、なんて理想に酔っていたんだ。 けれど残念ながら一流が人に与える充足に気付かずにはいられない。認めたくなくても、圧倒的な力が、名実兼ね備えて 知れ渡った品には必ずある。
まずはその堂々とした重厚の美しさ。キッチンの片隅に登場するだけで他の道具たちが肩身を狭くしてしまう ほどの威風。そして勿論その実力には唸らされる。瞬間的な熱導、その持続性、均一性。一挙一動に見惚れる私がここにいる。 こんな凄い味方が私を助けてくれるんだ、と心強い思いで一杯になったり。
使い終わった後は一目散にピカピカに隅々まで丁寧に磨き上げてそろりそろりと棚の奥へ。軽々使いこなせる実力が私に漲るまでは特別扱い。
そのうち、手下にしてあげるからね、と固く誓って。

 紆余曲折の密かな楽しみ  2004/4/9
ニョッキを作りながら思う。
粉ものの楽しさなんて、忘れていた。
自分でも気付かないうちに粉の代表格である甘いものが得意分野ではなくなっていて、粉が放つ精密の美しさ、楽しさから 離れたところにずっといる。なのに、ほんの少し、サラサラの粉に水分などを馴染ませる過程に触れると、 時の空白は長さを失って、私は覚えず、指先の集中に陶酔してしまう。
生地の魅力っていうのは、仕上がりを想定しての色々の思惑、、、ニョッキなら、モチモチとして プリっとした舌触り、噛んだ時の柔らかさ、しっとり感、なめらかさ、後味のツルっとした印象 、、、突き詰めれば限がない欲求を満たそうとする努力。これに尽きるのかもしれない。
勿論、少しずつ切っては茹でて完成度を確認しながら作り進める方法はある。けれど、家庭の料理って 失敗すら楽しめるドキドキの冒険。プロじゃないからこその余裕の遊びがここにある。 だからこそ、常識を打ち破った定義を作り出したり。
そしてそれは紆余曲折の密かな楽しみ。万人受けするか否かに心を痛ませず、好きな人を思って編み出す過程。 思い切り自由を謳歌しながらお気に入りの配合、探したい。

 さくら、さくら  2004/4/2
観光客で溢れるこの時期の京都は、賑やかに、春、爛漫。
地図片手に練り歩く人々の笑顔、お客さんを次々名所に案内するタクシーの運転手さんの生き生きした動き、 しっぽを振り振り川原を走り回る犬の跳躍、、、そして私は愛車で川端を北上しながら、川に大きく 腕を伸ばしてポーズを決める艶やかな桜に酔いしれる。この時に限っては渋滞、大歓迎。 ここぞとばかり赤信号で停車しては、 さくら、さくら。周りの車たちも、のんびり時間をかけて、華やかな桜の傍らをたおやかに進んでゆく。
運転席の窓から迷い込んできた花びらに一年の経過を見て感慨にふけり再びそれを京都に戻す。
来年の今頃も、きっと私はここにいて、今日の私の気持ちを思い出す。
京都、春、うらら。

 ごめんね  2004/3/13
百パーセント自分が悪いのだと分かっていても謝罪の行為は勇気を要する。
素直になることが恐いわけではない。自らを静観するに抗うんだ。
それでも後悔が私を完膚なきまでに打ちのめして、手繰り戻せない選択肢が私を殴る。ごめんね、ごめんね、って 何度も口にするし、許してね、私を嫌いにならないでね、って祈るような気持ちになるけれど、 今更私には触れることの出来ない巨大な亀裂は 今の私の謝罪で埋められるとでもいうのだろうか。すると私は言葉を失ってしまう。気持ちを詳細にする 術を幾通りも脳裏に描いて、消えてゆくそれらを見過ごすことしか出来ないもどかしさが呆然と私の心に過ぎりを与える。
けれど大切にしたい人、なのに傷つけてしまった人がいるのなら、私は自らを深く深く省みなければ。 私が酷くに当たってしまった人に私の気持ちを察してもらうこと、それは本来なら 贅沢に過ぎることなのだ。
いつも通り鴨川で心を流す。ごめんね、ごめんね、って繰り返しながら。

 「もの」を愛して  2004/2/29
「もの」に対する愛着ってどうやって生まれるんだろうか。
よく高級品の宣伝広告に「いいものを長く使う」とあるけれど、いいもの、というわけではなく、使い込んで 風合いが増すというわけではなく、何処にでもあるもの、最初は格別だと思ってもいなかったもの、時間の 経過に伴い劣化していくもの、なのに いつのまにか他には代わりを許さない必要な絶対になってしまうものがある。
それは私の気持ちが織り成す色んな風景を共有してくれているからかもしれない。単なる馴染みではない、 どちらかと言えば同志。無言のうちに励ましを私に与えたりする。傍にあることが自然で手を伸ばせば 届くことが分かっているから敢えて存在を確かめたりはしないけれどなくてはならない、なければ 不意に不安になってしまう。
ずっとずっと一緒にいることが出来るなら。

 スープの極意  2004/2/22
私は幼少の頃からスープには目がない。それも牛乳と生クリームがたっぷり入ったとろみのあるスープ。家族で 足繁く通ったビストロでは目の前で厳かにスープ皿に白いヴェールがかかった黄金色の魅惑が満たされ、湯気に覆われたそれにスプーンを 差し込む瞬間はまさに至福の時だった。
それほど長い間スープに慣れ親しんだ私であるのに、スープをいただくマナーにはいまひとつ自信を持てないで いる。
スープが大好物だからといって食い意地丸出しでスプーン山盛りにスープを乗せたのでは必ず滴りが生まれ 、醜いばかりか手の動きすら 不自然になる。何食わぬ顔で冷静を装い、誰にも悟られないよう喉を鳴らせながら、スプーンの七分目程度に スープを 浮かせ、さらりと舌を浸す。今でも時間がある時には鏡の前で幾度と無くスープを口に運ぶ姿を点検するの が私の密かな習慣だ。
私は勿論、太宰の「斜陽」の冒頭部分に憧れを抱く一人でもある。礼儀をきちんと踏襲するわけでもないのに 堂々たる気品が溢れるマナーを身につけられたらどんなにいいだろう。
そしてスープは「食べる」。「飲む」のではない。これはコンソメの素を使わずにスープを作るように なってから大きな実感として納得している。ポトフは無論、シチューやカレーを作る時、ルウを加える前に ほんの少し煮汁を取り分け、そこに余り野菜と水を加えて煮崩れも考えず水分が大方飛ぶまで豪快に煮る。 あとはミキサーなどで潰して小分けして冷凍し、いただく時は牛乳と塩と生クリームを足すだけ。
優雅なマナーで食べる、スープの極意が見えてくる。

 旅が作り出すあいだ  2004/2/15
旅をしていると秒針が動いた後の響きが長く続いて、その時の気持ちを明確にするのに充分な間隔が生まれる。
すると体の中に余裕という名の心地よい透明な隙間が沢山出来て色んなものが見えるようになる。
繋ぎ合う手を差し出すタイミングが全く同じな老夫婦に年月が 紡ぎ出す関係の美しさを感じたり、集団から一人ポツンと外れて歩く栗色の髪の小学生に過去の私を見て 今なら勇気は出るだろうかと想像したり、日頃出会っていても何となく流してしまっている光景の一つ一つに 思い入れがこもる。
旅は日常から私を逃がしてくれるだけではない。日常への視点を変える機会を与えてくれるのだ。日本へ戻れば また時の流れの早さを理由に心を見失ってしまうかもしれない。けれどそんなとき、思い出したくなるふとした 場面があれば私の中のあいだは保たれるのではないだろうか。

 言葉を探して  2004/1/18
誰かに自分のほんの一部分を共有して欲しい時に言葉は有効なのだけれど、言葉と気持ちは時に表裏を成していて 塞き止めることのできないそれらは自分にとっての絶対でしかない事実に愕然とする。
表情やしぐさや声音は表現を助ける。漢字や平仮名やカタカナの違いすら意味を複数にする。
それらを駆使しても、伝わらないこと、伝わりすぎることがあって、 私の一言が本意ではない理解で 誰かの一生の留意になるかもしれない重圧感が押し寄せてきて、 流れ出してしまった後の言葉を取り戻したくなる。
人は、どうやって人と分かり合うんだろうか。どうやって信頼を築くんだろうか。


 無性にパスタ狂?  2004/1/13
もうすぐイタリア旅行だというのに無性にパスタが食べたくなる此の頃。それもどうせなら大好物のゴルゴンゾーラ で和えたパスタ、と限定した欲求だ。ゴルゴンゾーラくらい買ってくればいいのは分かっている。少々値は張るが 手に入らないという程ではない。問題はゴルゴンゾーラを買った後なのだ。
一度パスタを作ったくらいではゴルゴンゾーラは余ってしまい、冷蔵庫の中で一番高貴な表情を浮かべて鎮座する。 しかも隙あらば私をまっすぐ見つめることを忘れない。一日に一体何度冷蔵庫の扉を開けるというのだろう。その度につまみ食いの誘惑に駆られ、 抗い、そして結局私に勝ち目は無いのだ。顛末は想像に難くない。
パスタ作りが上手くなりたい、と尤もな理由を隠れ蓑に、 続けざまにゴルゴンゾーラのパスタを作り、今回の出来は今ひとつだったけれど頑張った自分への御褒美にと 青が散った乳白色の塊を小さく削り、もう一口だけと少し大きめの欠片を口に放り込む。すると三日も経たないうちに ゴルゴンゾーラは私の胃の中で誇らしげに自らの魅力に耽溺しながら溶けゆくのだ。
そんな敗北を覚悟でパスタを食べたいのか自問する。いや、パスタ、ではなくて、チーズ、なのでは、と 首を傾げて。

 長い道のりを思う  2004/1/11
しんと静かな部屋で一人、高くて白い天井を見上げて微笑みの溜息をつく。
何のことは無い、ホームページの形がほぼ完成したという、それだけのことが私の気持ちに大きく達成感を 齎したんだ。ただ、それだけのこと、でも、ほんの小さなこの満足が私を変えるきっかけになる。
心がびりびりに破れていたのは丁度一年前。生きること、自分自身の生を認めることが恐くてたまらなくて ポルトガルへ旅に出た。私はあの時からずっと気持ちの中ではリスボンの路地裏を彷徨っていたのだ。旅を 終えても旅から抜け出せずに。
レシピと気持ちの両方の整理をつける為に軽い気持ちで始めたホームページ作りだったけれど、 試行錯誤しながら、ふと、「あ、夢中になることの意味なんて長い間忘れていた。」と呟いていた。 私の気持ちは、日本へ戻れるかもしれない。
とりあえずは、私に乾杯。