ひぐらしの声がお店の名前になったのかもしれません。細い路地に中世以来の家々が軒をつらねる奈良町。その一角にたたずむカフェに、ひぐらしは実にふさわしい名前です。
カナカナは築80年の町家を用いたカフェ。午前11時、奈良ホテルのある丘から小さな階段道をおりて、はじめての奈良町に足を踏み入れました。通りには人影がまったくありません。ひっそりとした路地にセミの声ばかりが響いています。
台風がゆっくりと通り過ぎた直後で、空は薄曇り。うつらうつらと眠り込んでいるようなあたり一帯の気配が不思議で、カナカナを探すための地図はひとまずしまいこみ、ぶらぶら歩き回ることにしました。入り組んだ狭い路地は人間が歩いて移動することが基本だった時代の名残り。
誰ともすれ違わないまま、十輪院を見つけて入ってみました。「拝観ご希望のかたは奥の社務所へ」という案内通りに奥へ回りましが、いたって普通の古いお宅のよう。玄関で「ごめんください」と声をかけてみても、家の奥で食事の気配と笑い声が聞こえるばかり。ごめんくださいを「こんにちは」に変えて2回トライしたあと、後戻りして玄関の呼び鈴を鳴らしたら、おばさんが出てきました。
彼女は快く本堂へ招き入れ、灯りをともしてまわり、慣れた様子で石仏龕などを順に説明してくれました。バスガイドの暗誦のようでおかしかったのですが、仄暗い中に鎮座する寺宝は目をみはるものばかり。手のひらにのる小ささ素朴きわまりない誕生釈迦仏像に気持ちが惹きつけられ、長い間その前から動けませんでした。
十輪院全体が重要文化財だらけで、鎌倉前期に建てられた端正な姿の本堂などは国宝に指定されているのだけれど、あくまでもさりげない。美術館で恭しく眺めるような雰囲気とも、人々が観光に押し寄せる雰囲気ともかけ離れて、現役のお寺として町の中にあたりまえに息づいている姿がなんとも魅力的でした。
「庭にも石塔や石像がたくさんありますので見ていってくださいね。ちょうど蓮の花が咲いていますよ」
お礼を言って本堂を後にし、しんとした池の蓮の花の前でデジカメを構えたら、突然すぐ背後で大きな音が。振り向いても、見渡す限り動くものは何ひとつありません。きっと鳥が飛び立ったのだろう…と自分に説明しましたが、なにか不思議な感触が残りました。
再び路地を散歩すること10分、いつの間にかカナカナの前に出ていました。良いカフェの隣には良い古本屋さんがある、のルール通り(例:カフェ・ラクダホテル→ユトレヒト)、すぐお隣は素敵な古本屋。
扉をくぐって天井の高い土間に立つと、すぐに気持ちのいいカフェの気配に包まれました。そう、音楽です。柔らかくあたりを満たす、心をかきたてる音楽。清潔な店内は白壁と深い色の柱や格子のコントラストが美しく、畳やすりガラスの質感が新鮮な懐かしさです。奈良町という場所の力がすみずみまで行き渡っているようで、地に足のついた安心感があります。十輪院が博物館入りにならず、町の生活の中に生き続けているように、カナカナも自然に呼吸をしているのを感じます。
12時を30分ほど回ったところで、お客さまは畳敷きの部屋に二組。ちょうど写真展が行われており、みずみずしい色調の写真に惹かれて店内を見て回り、葉書を買いもとめることにしました。と、背後から「ありがとうございます」の声。座布団でくつろいでいたお客さまの一人が撮影者の畠山さんだったのでした。
畠山さんの他の写真を見せていただくと、見覚えのある顔が二人。敬愛する神戸在住の画家のTさんと、編集者&作家のMさんでした。驚いて尋ねると、お二人の作った本『天使のカレンダー』の著者近影を撮影なさったのは畠山さんだとおっしゃるではありませんか。私の愛読書なのです。 |
 

↑とっても親切な植嶋さんご夫妻

↑「たまたま指数の高い人」
畠山さん
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