つまづく石でもあれば私はそこでころびたい

尾形亀之助は、昭和初期の詩人だが、彼の詩にはしっとりと重たい濁ったような感触と、希望や生へのエネルギーのようなものとまったく逆の地点から発生している明るさのようなものを感じる。「カステーラのように明るい夜だ(『明るい夜』)」と、彼は、淡々と(表面上は実に淡々と)、絶望すら茶化してしまう。そのほの暗いエネルギーがどうやって生まれ得たのかとゆうことに、私は興味はないけれど、その突き抜けてしまっている感じの言葉の群れに、私は自分自身が、ただ、なんか、生きる。というようなどうしようもなさを見ることができるような気がする。

あまりよく晴れていない
七月の 朝の
ぼんやりとした負け惜しみが
ひとしきり私の書斎を通って行きました


先の尖った鉛筆のシンが
私をつかまえて離さなかった
 (電話)
「モシモシ あなたは尾形亀之助さんですか」
「いいえ ちがいます」


                   尾形亀之助「七月の 朝の」


 語ってしまうと、言語化してしまうと、どうしても陳腐化してしまう種類のものがある。そうゆうことを思うとき、やはり言葉というものの不完全さ、あるいは自分自身の不完全さに思いが行き着く。もちろん、すべてが伝わってしまう事を想像するほうがよっぽど恐ろしく、その弊害は限りない。ただ、それでもなお、自らの感情を、気持ちの雰囲気を誰か他人に伝えたい欲求は抑えがたい。詩という形式は、その欲求を完全にかなえるとは言わないまでも普段の会話の中で使う言葉よりも、言葉自体に瞬発力があるように感じる。尾形さんの場合には、表現の中に、例えば上の「七月の 朝の」の中であれば、最後の『いいえ ちがいます』という中に途方もなくネガティブな、それでいてほんの少し可愛らしいような瞬発力を感じるのだ。そしてそのパワーは受け手に(たとえ意図されたものではなくても)、直接身体を触るかのように、放り投げられる。
 私がこの人の詩を好きな理由の一つは(漠然とした感情で、こういうことを述べると説明し誤りそうだけれども、敢えて言うなれば)、おそらくその生(なま)っぽさにあるのではなかろうか。人より少し感じやすく、人より少し表現の手段に才能と呼ばれるようなものがあった、ふつうの男が、ふつうに、ただ、生きた。その痕跡としてかれの詩を感じる。そういった、生っぽさ。危うくなったりしつつも、なんとか淡々と続くような生活を、生きた。意味もなく、ドラマもなく、ただ生きる、ということが、剥き出しになってそこにある。そんな感じに、彼の詩を読んだ瞬間、とらわれる、そこに魅力を感じてはいまいか、と思う。

松林の中には魚の骨が落ちている
(私はそれを三度も見たことがある)

                      「白に就て」

意識的な悪趣味(「私ってよく変わってるって言われるんだよね人間」的な)ほどくだらないものはないけれど、この尾形亀之助という人の悪趣味というかニヒリズムには、圧倒的な切実さを感じさせる。思わず「三度も」と言ってしまった的な、センスや、苦しみや、そんなものの苦い爆発。苦い。そしてべたっとしている。しかしパワーがある。そんな彼の絶望の仕方が、もう絶望ごっこのような絶望の仕方が、「おもしろかったらええやん」と突き抜けてしまえない、煮え切らない私に、「でも幸せだけがすべてじゃないかも」と思わせてくれるのである。おわり。

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