ノンフィクション
 結構壮絶な経歴かもしれませんね。興味があれば・・・・ぜひ。

vol.1

 私は、東北の小さな小さな町に生まれた。何もない小さな町。畑と海と山と田圃と川がある町。
 私がこの世に生を受ける20年ほど前、私の家には3人の子供たちがもらわれてきた。 孝兄ちゃん、智子姉ちゃん、裕哉兄ちゃん。(偽名)3人は血のつながった兄妹。
 3人の父親は体が不自由。3人の母親は癌で亡くなった。私の両親には子供が無く、 施設に預けられたり、親戚中をたらい回しにされていた3人を引き取ることにした。 我が家へやってくるまでの間、母親を亡くした3人はそれぞれバラバラで引き取られた。 再会したのは施設だった。再会するまで、まともな生活はしていなかった。厄介者の3人は卵の白身だけを与えられた。 こっそりその家のおばあさんがつくってあげた着物を取り返され、その家の娘のものにされた。 結局施設に入れられてからも、学校の運動会には施設の人が作ってくれたおにぎりだけ。 応援に来てくれる人もいなければ、おいしそうなお弁当を作ってくれる人もいなかった。そんなとき、私の両親は3人を引き取ることにした。 私が6歳の時に他界した祖母は、
「一人だったらいいけど、3人引き取るのは考えろ。」
と、いったらしい。
 うちに来た3人はそれぞれ口も聞かずに黙って膝を抱えていた。でも、次の日には、”お父さん””お母さん”と、よんでいた。 とても自然に。そう、ごく自然に。
 3人が来てすぐに運動会があった。でも3人とも運動着も、運動靴も持っていない。 今から20年ほど前、当時6万円の借金をして急いでそろえた。その日から、3人の運動会の お弁当はおにぎりではなく、おかずの入ったお重になった。

vol.2

   孝兄ちゃんはそのとき6年生。智子姉ちゃんは4年生。裕哉兄ちゃんは2年生だった。
 まず裕哉兄ちゃんが盗みを働いた。よそのものではなく、家の中でお金を盗みはじめた。こっそり貯金箱から盗んで、アイスクリームを買って食べていた。 私の母はそれを知っていたが、あえてそのときは何もいわなかった。だんだんそれは頻繁になってきたので母はいった。
「裕哉、お母さんから取ったお金で何を買っているの?」
裕哉兄ちゃんはいった。
「アイスクリーム。」
「アイスクリームが食べたかったらそういいなさい。いつも買ってあげられるわけではないけれど、たまには買ってあげられるから。」
裕哉兄ちゃんはうなずいた。
 数日後、母親はアイスクリームマシーンを買ってきた。手作りのアイスクリームを作った。 でも盗みは止まらなかった。何でも”運動会の時にとなりの席の子が、家族でおいしそうにアイスクリームを食べていて、おにぎりしか持っていない自分が惨めで、そのことが忘れられない” とのことだった。それを知った母親は、父親にいった。
「今は、家の中だけの盗みですんでいるけど、そのうちに外にでてそんなことをするようになったら大変だから、施設に戻そうか。」
と。するとすかさず父はいった。
「おまえは、自分の子供が同じことをしてもそうやって放り出すのか!」
母は”はっ”としたそうだ。私は、この父の言葉を忘れられない。このことを聞いたときほど、 父を偉大に思ったことはない。
 ”里親”ということは、県の方から監視されているため、そういう悪いこととかに、母親は敏感になっていたんだと思う。  孝兄ちゃんは中学をでてすぐに仕事を始めた。智子姉ちゃんはぐれた。母は必死になって、なんとか取り戻した。 姉ちゃんは19歳でお嫁にいった。裕哉兄ちゃんも家を出て働いた。養子になりたいという申し出を、両親は断った。 いつか、彼らの家のことを思えば、いつかは長男としてつとめを果たさなくてはならなくなるからだ。 たとえ彼らを捨てた親族だとしても。血縁は絶てない。

vol.3

  そんな中、私は生まれた。写真で見る限りでは抱いてもらっているが、物心ついたときにはもう誰もうちにはいなかった。 でも、3人の兄姉は私のおしめを変えてくれたり世話をしてくれた。本当に感謝している。だから私は、本当の兄姉だと思っている。 そういう風に3人とも私をかわいがってくれる。孝兄ちゃんは年に2回帰ってきてくれる。お姉ちゃんは近所に嫁いでいる。 裕哉兄ちゃんは居所が分からない・・・。それでも、私にはかけがえのない兄姉だと思っている。
 私が生まれたとき、母は40歳、父は50歳だった。だからもう6○歳、7○歳。ひねくれ者の私はいつも両親を困らせていた。 それでも厳しい両親だった。押入や車庫にぶち込まれたり、げんこつも何度も食らった。正座させられたり、お尻もたたかれた。 こういうのは、親として必要なことだと思う。体罰ではないと思う。
 私は両親の愛情を一心にうけて育った。でも、学校は嫌いだった。優等生でいることにつとめた。先生に気に入られるように、親に気に入られるように。 望むように勉強して、望む成績を取った。私は次第に疲れていった。病気がちの母は、何度も救急車で運ばれた。 何度も病院に行った。父親が嫌いだった私は、家で二人になるのも会話をするのもいやだった。それでも家事をして、しっかりしなくちゃ・・・私がしっかりしなくちゃ・・・そう思ってきた。 父は教員だったため、周りは私に大学へ、教員の道へ導いていこうとした。はじめはそれでもいいと思ったが、そういう環境がだんだん重荷になってきた。 ”大学”に受かること、受からなければならないこと、それが次第にプレッシャーになり、何もかもを投げ出して遠くへ逃げたくなった。 そして、本当に逃げ出した。