雑文No.41〜45

No.41 有名料理店考

最近、書店に行くと美味しい料理店紹介のガイド本がやたらと目に付く。グルメブックコーナーなるものを常設している本屋まである。

グルメブームである。「料理の鉄人」が多くの有名シェフを産み出したことも関係あるだろう。ザガットサーベイ「東京のレストラン」という本も売れているらしい。この本は一般市民が味、サービス、内装を30店満点で評価したものを集大成したものである。インターネットにも同様のサイトは存在する。東京レストランガイド。ここに入ると意外なことに気付く。

有名レストランの評価が低いのである。特にいわゆるマスコミシェフの在籍する有名イタリアンレストランに於いてそれが著しい。このHPではそれぞれのレストランに対して個人の感想が載っていて非常に興味深い。時代を追って見ていくと、ある共通点があることに気付く。まず、初期の大絶賛の時代を経て、「味落ちたんじゃないの?」という味について疑問を抱かせる時代が過ぎ、最終的には「美味しいと評判なので初めて行ってみましたが、サービスも味も期待はずれでした」という段階に向かっていくような気がする。

わたしは初め「有名になったからって手を抜くなんて最低だ。そんな店、今に潰れるさ」という義憤を感じていた。しかし最近はそう単純な問題ではないような気がしてきている。

確かに毎日次から次へと物見遊山の人たちが観光気分で訪れれば物理的に追いつかなくなり味もサービスも落ちてくるだろう。ある有名な和食の調理人はこう言っている。「いつも客がたくさん来て忙しいと、客が馬鹿に見えてくる」と。至言である。マスコミに踊らされて集まってきた馬鹿な客に旨いものなんて食べさせる義理はない、マスコミシェフはそう思っているのかもしれない。味やサービスが落ちているというよりも落としているのである、意図的か無意識にかは分からないが。

そんな状態が続けば、そのうち「あの店はうまくない」と言う評判が立ち廃れていくだろう、と思うのであるがそう単純に話は進まない。注意深くレストラン・レビューを読んでいくと気付くのであるが、有名になりたくさん人が訪れるようになっても、「美味しかった、サービスも良い」と評価する人もいるのである。どんな種類の人か。

それは常連である。

そう、無名時代から通い詰めた常連である。彼らの存在がその店を有名店にしたのである。逆に言うと、有名料理店にとって一見の客はどうでもいい存在なのである。無名店の段階では全ての客が常連になる可能性があるのでそれこそ一球入魂、一期一会で全ての皿に気合いを入れる。しかしひとたび常連が出来てしまいそれだけで商売が出来るようになれば、常連以外には手を抜くのは相当の信念でもない限り当然のことといえる。本当に常連には旨いものを出しているらしい、悔しいけれど。

それ故、そんな商売をしていても常連は通い詰めるので潰れないのである。よく「マスコミに出て味が落ちて云々」という話を聞くがそれはその人が常連ではないからその程度の扱いしか受けなかったということなのである。客に店を選ぶ権利があるように、店側にもこうしたやり方で客を選ぶことが出来るのである。某有名ホテルはVIPクラスの人物の宿泊も多いようなホテルなのであるが、この様な場所では泊まって欲しくない客というものも存在するらしく、そういった人に対してはサービスも素っ気なく冷たいものとなるという。旨い筈の店で「?」という経験をしたあなたは選ばれなかった人なのである。

それではわれわれ常連ではない者は永遠に旨いものにありつけないのであろうか。いや、物事に例外は存在する。方法はいくつか考えられる。

  1. 常連に連れていってもらう。
  2.  当たり前の手だが、一見さんお断りの店だったりするとこの方法しか入り込む手段はないことになる。

  3. ブレイクする前の店に通い詰めてそこの常連になる。
  4.  これはなかなか難しいけれど、例えば前に紹介した東京レストランガイドのサイトでは無名だけれど評価が高い店をたくさん見かける。

  5. 数は少ないが良心的に仕事をしている有名店に通う。
  6. 以前一度、天ぷらで有名な某店に出かけたことがある。天ぷら屋では揚げ手がスターで、揚げること自体がショーなのでそこのトップ以外の人物が揚げるということはまずあり得ない。この辺がイタリアンや他のレストランとは違う点である。弟子が作った物を黙って食べさせられるということがないのである。主人の技は冴え渡っており、十分に満足して帰ってきた。

    また、完全予約制の店は客数を絞っているわけだから、良心的な仕事をしている可能性が高いと思われる。

  7. どうしてもマスコミで有名な店に行きたければ、日時を選ぶ。

 わざわざ混雑する時間に行ってサービスがどうのこうのというのはあなたが悪い。特に一見なのであれば空いている時間を見計らって行くべきであろう。例えば土曜日の早めの昼食の時間に行くなどの一工夫でかなり違ってくるのではないかと思われる。間違えてもここぞとばかりにクリスマスディナーの予約をするなんて愚を冒さないように。

マスコミの情報に踊らされずに、自分だけの美味しい店を誰にも教えずに黙っているのが一番なのだと思う。

追記

最近私たちは家の割と近くにとても美味しくて、それでいてリーズナブルな料理店を見つけた。見つけたと行っても例の「ザガットザーベイ」に載っていた店なのであるが、投票数が少なくて点数の評価の対象外になっている店である。はっきり言ってこの店が有名になってしまうと我々は二度と入れなくなってしまうであろうと思われるくらい小さな店なので絶対に有名にはなってもらいたくない。だからここの素晴らしさを誰にも教える気はないし、もしそこの店の評価を求められるような機会があったら、嘘八百を並べてでも最低の評価を教えるであろう。それだけ、そっとしておいて欲しいほど私たちは気に入ってしまったのであった。宝物を見つけた。ああ幸せ。

 

No.42 おいしさの分かるひと

引き続いて、グルメブームの話である。

前の雑文で「有名料理店では全ての人に対して同じ味(レベル)の料理を出してはいないだろう」という趣旨のことを書いた。しかし、仮にシェフが客全員に同じ全力投球の料理を出したとして、このうちの何人がそのシェフの意図する「おいしさ」を感じることが出来るのだろうか。

ある有名なフレンチ・シェフは「基本的なおいしさはほんの一部の人にしか分からないだろう」と述べている。自分の才能、努力によって今までにない複雑な旨みを構築し、それによって現在の名声を得ることができた彼は、その評判を聞いて集まってきた大衆に出会う。そして、以下のように思ったという「わたしの作ったものを食べるためにこんなに集まってくれるのは嬉しいが、果たしてこの中のどれくらいの人がこの味を分かってくれるのだろうか」

わたしの話になるが、数年前にイタリア料理を初めて知って以来、自分で作ったり、料理店に行ったり、家で食べたりと様々なイタリア料理、特にパスタ料理を食べてきた。そのためイタリアンパスタに関してはこれがうまいかどうか、どこがどう旨くて、何がどうして美味しくないのか、ということに関して普段パスタなんて殆ど食べない人よりも語ることができると思っている。味が分かるということはこの様に相対的なものだと思う。昨年のわたしよりも今年のわたしの方が経験を積んだだけレベルがアップしていると思う。

ここで述べている「おいしさが分かる」ということと「美味しいと感じる」は違う。「おいしさが分かる」というのは味に関しての分析的な評価であり、「美味しいと感じる」のは料理を食べたうえでの心の動き方である。先日私たちはお気に入りの料理店を見つけたのであるが、ここで食べたものはどれも今まで全く食べたことのないうまさを持っており、食べながらも「なんだか分からないけれど、とにかく美味しいよ」と二人で興奮気味に語り合っていた。そういう意味では、私たちはここの料理に対して「おいしさは分かっていな」かったが、「美味しいと感じること」はできたのであった。言い換えると、「美味しいと感じる」ことは誰にでも開かれている喜びであるが「おいしさを分かる」ことは経験、訓練を積んだ者にしか得られるものではないということである。うまいものを食べる努力を重ねることによって得ることのできるうまさに関する物差しみたいなものなのだと思う。

商売という点を抜いて考えると作り手としては味の分かる人、つまり自分の努力、大げさにいえば自分の存在意義を認めてくれる人に食べてほしいのはやまやまであろう。だからといって値段を上げて一般人には手の届かない設定にしても、より味には無頓着であると思われる接待としての客が増えるだけで解決にはならないであろう。では、評判の料理店として無尽蔵に押し寄せてくるゾンビのような味音痴の客をブロックして、味やサービスを落とさないようにするにはどうすればいいのか。

許可制にすればよい。うまさというものが、ある程度客観的に評価できるものであれば、それに対して試験を行うことができるはずである。うまみを適切に評価できる人物かどうかを逆に評価するのである。「当店では和食うま味3級以下の方の入店をお断りしています」

新たなるステータスの登場である。

完全合格講座「和伊仏中うま味1級」なんて専門学校もでき、仕事帰りのOLやサラリーマンでごった返す。親は親で「味覚は三歳までに作られる」などというコピーに騙されて「うちの子供にだけは食べ物に関して惨めな思いをさせたくない」なんて思いこんでしまい「三歳までにはじめる遊んで覚える味覚講座」などという胡散臭い高価な教室に通わせたりしてしまうのである。

こんな風にこれはこれで十分に商売になると思うのですがどなたかどうでしょう。

No.43 おいしいサービス

今年の冬は我々にしてはかなりの多くの料理店に足を運んだ。行く前にインターネットや書物などで情報を収集し、研究を積んで、おいしそうな店を厳選したためか、どの店でもかなりおいしいものに出会うことはできた。しかし、サービスという点からは満足できない店もあった。

エスニック音楽が大きな音でガンガン流れているイタリアンレストラン。選曲は中で働いている人の好みで仕方がないのだろうけれど、あのうるささは食事をする場所の騒音としては限度を超えていると思った。

メニューを見て注文をどうしようかって考えているときに、テーブルのすぐ真横に立ちはだかり「早く、はやく」と言わんばかりの暗黙の圧力をかけてくる店員。私たちはうんとうまいものを食べたいと思ってここに来ているのである。何を食べるかを決めることは私たちにとって真剣勝負の場なのだ。それなのに近くに立って急かされると思う存分迷えないではないか。あれを食おうか、いやいや、あちらの方がうまそうだとかって考えるのは食べている次に幸せな時間なのに。

「ここに書いてある本日のシェフのお薦めメニューは何ですか」って聞いたら「うっ」っと言葉に詰まり、泣きそうな顔になって「シェフー」って言いながら厨房に駆け込んでいった若い店員。厨房から戻ってきた彼は左手に持ったメモ帳を誇らしげに読み上げてたけれど、本日のお薦めのメニューくらいはまず調べておけよ、そしてそれくらい暗記してもいいんじゃない。

メニューにcotoletta alla Milaneze(ミラノ風カツレツ)って書いてあったので、じゃあコトレッタって注文したら暫く戸惑った末、奥に引っ込み、ボーイ長と一緒に再び現れ「恐れ入りますが、メインのご注文は何でしたでしょうか?」と聞き直された。ちょっと驚きながらこちらがもう一度コトレッタアッラミラネーゼであることを告げると「ああ、ミラノ風カツレツですね」とわざわざ言い直す始末。イタリア語が通じないのならイタリア語でメニュー書くなよ。しかもこの店はメニューの品に乏しくて、メイン(セコンド・ピアット)は6品しかなかった。それくらい、お願いだから暗記してちょうだい。

途中で注文の追加をしたくなって壁際に暇そうに立っている店員のニイチャンを呼ぼうと思い、一生懸命目を合わせようと何度もそちらを向くのだけれども、ボーっとしていてちっとも気付いてくれない。声を掛けてやっとハッと我に返ったようだった。暇だからボーっとしてしまうのか。しかし、たとえ忙しいからといって、きびきび動く感じではないなあ、あれではねえ。

テーブルワインのお代わりを頼もうとしたときも、メニューを持ってきてくれたのは良いのだけれどもやはり脇にべったり、わたし待つわ攻撃。せっかくテーブルワインが10種類以上も置いてあって、しかもその一つひとつのワインに対してコメントが書いてあるワインリストなんだから、じっくり読んでから決めさせてくれてもいいんじゃないかなあ。

それに比べると、先日訪れた中華料理屋で受けたサービスは非常に気持ちの良いものであった。

クリスマスで予約もなく飛び込んだ我々をまず温かく迎えてくれた。開いていたテーブルは店の隅っこの丸い大テーブルだけだったが、座って待っている間に4人掛けの席が空いた。「こちらに移られますか」と聞かれて「はい」と答えると、きびきびとテーブルクロスを交換し、その席に案内してくれた。

メニューを出されて、何を食べようかと相談している間、約5分から10分間、店員さんは全く存在を感じさせないように我々の視界に入らない場所で待機。そして、いざ、注文と思い顔を上げたときには、すっと視線が合い、「注文は?」っていいながら素早く寄ってくる。

店員さんは周囲の客に常に気を配っているけれど、それが神経質な感じの気の配り方ではない。極端な店だとこちらが監視されているような思いをすることもあるくらいだけれど、ここの店はさりげない感じでこちらも肩肘凝らないで済む。

お茶を頼むとスッと熱いお茶が提供される。このお茶は何ですか、って聞こうと思いふと顔を上げ、視線を合わせると、「ジャスミンティーです」って聞く前に答えが返ってくる。

最後の方でお腹がいっぱいになり、残して帰るのは勿体ないので一部の料理を持ち帰りにしてもらった。それを頼む際、残りのメニューではあと何が出るんでしたっけ、と聞いたときも、注文シートを確認したりせず、あとはこれとこれとこれが出ます、と直ぐさまに返事が戻ってきた。我々のオーダーを完全に覚えていたということである。無論、持ち帰りに関してもいやな顔ひとつせずに丁寧に包んでくれた。

当たり前と言えばどれも当たり前の対応かもしれないけれど、今まで訪れた店でこの店のような真っ当なサービスを受けた経験はあまりない。

何が違うんだろうか。

このさり気なさは相当の訓練のたまものだと思う。ヘタにやろうとすると、やる気は満々だけれど内容がついてこないってことになりがちである。気持ちは分かるんだけれどねえ、と言う場合がそれである。気持ちと内容が揃っていて、それでいて、そのサービス心を出過ぎない感じでしかも十分に発揮するというのは相当難しいことだと思う。

この店でなお驚きなのは、サーブしてくれるのは皆、20代前半のバイトらしき若い兄ちゃんたちだという点である。40歳代の酸いも甘いも嗅ぎ分けたプロ意識の塊みたいなおっちゃんたちがこの様なさりげなくてそれでいて十分なサービスを見せてくれるならそれはそれで解る。でも、自分よりも一回りくらい若い連中にこんな素晴らしいプロの仕事を見せられると、嬉しい気持ちの反面、自分は仕事をしているときにこれほど見事なプロの仕事ぶりを見せているのだろうかという密かなる内省の念に駆られてしまい、複雑な気持ちになってしまう。

この店が他の人が行って気持ちのいいサービスと思うかどうかは保証の限りではない。たまたま、私たちと息が合う店なのかもしれない。でも、いいんだ、それでも。少なくとも私たちにとって、おいしいものを気持ちよいサービスで提供してくれる貴重なお店なのだから。

 

No.44 おいしいレシピ

先日新聞で興味深い広告を見つけた。ある、地方の観光ホテルなのであるが、新館のOPEN記念キャンペーンとして「二人の巨匠がプロデュースした究極のイタリア料理」を出すとのこと。二人の巨匠とはその広告によると、「銀座 ベットラ シェフ 落合務、南青山 リストランテ・ヒロ シェフ ヒロ山田」とある。確かにビックネームである。しかし、わたしの心は動かされない。

この二人の巨匠の作った料理は食べたことがないけれども、おいしいのだろうと思う。もし機会があれば、食べてみたいと思う。しかし、そのホテルで出てくるのは二人の巨匠が「プロデュース」したイタリア料理である。決して二人がそこに出かけて行って作る訳ではない。

プロデュースというのだからメニューを決めるだけではなく、レシピ作成にも携わるのだろう。だから二人の巨匠の味と言っても良いのではないか、という意見もあるだろう。けれども、レシピで味は伝わらない。緻密かつ詳細なレシピを作れば、味の輪郭についてはまあ何とかなると思うが、微妙な色彩の部分はそれだけでは伝わらないと思うのだ。

レシピは楽譜である。曲を演奏する際に、楽譜が必要になる。同じ楽譜を用いた同一の曲でも演奏者の解釈で、全く違う雰囲気の曲になる。演奏者のレベルの問題もあるだろう。料理も同じである。同じレシピを使っても作り手によって全く別の料理になってしまうのである。トマトソースを何度もなんども作ってつくづくそう思う。何しろ同じ人間が同じように作っている筈なのに毎回味が異なるのであるから。まあ、これについては同じ味を常に作ることが出来ないという作り手のレベルという別の問題も含んでいるのであるが。

というわけで、巨匠がプロデュースしただけの料理なんて別に食べたくないのである。レシピで味は伝わらないのだから。二人が実際に作った味とは絶対に違うと思うから。もし、そのホテルの担当の料理人が二人の巨匠の元でそのレシピの料理の修行をしばらくしてきて、巨匠から免許皆伝をもらえるくらいの状況なのであれば、食べてみたいと思うけれど、多分そこまでのことはしてないんだろうな。

それにしても、「ヒロ山田」って誰?。リストランテ・ヒロのシェフと書いてあるから山田宏巳氏のことではないかと思うのであるが、いつの間に改名したのであろうか?

No.45 我が家の法則 その1

 その1 テレビを押し入れの中に押し込め。

うちにはテレビがない。正確に言うと押し入れの中にしまってある。昨年の秋に某国営放送局の集金人のおじさんと喧嘩してから、見るのをやめたのである。

テレビをやめて良いことはたくさんあった。テレビを見ながらご飯を食べることがなくなったので、味についてより鋭敏になった。おいしいものがよりおいしく感じられるようになった。人生の中で食事の時間が一番大事であると考えている我が家にとっては非常に大事な発見であった。

そして、次に自由に使える時間が増えた。夕食の後、今まではボーっとテレビを眺めていた時間が空いたのだ。本を読んだり、マンガを読んだり、近所まで散歩に出かけたり、このHPを更新したり、二人でバカ話に興じたり、と豊かに時間を使えるようになった。

意志の弱い私たち故、テレビのスウィッチをこまめに消すとか、出来るだけつけないようにするといった穏健な方法ではテレビ離れが出来なかった筈だ。押し入れにしまうという、物理的な別離が必要だったのである。まあ、もともとのきっかけが、態度の悪かった某国営放送局のおじさんに視聴料を払いたくないために始めたことだったのだけれども。意地で始めてみたら、思いの外に効用が多かったというところである。

ただ一つだけ残念なこともある。妻はポケモン、わたしは大食い番組大好き人間なので、これが映るTV東京を見ることが出来ないことだけが今でも心残りなのである。どこかにTV東京だけ見られるテレビはないものか。それならば視聴料も喜んで払うのだが。