2000.11.28

『不立文字 (ふりゅうもんじ)』という言葉を座右の銘に決めてから
もう何年になったでしょうか…。
たしか…、一休和尚の言葉だったと思いますが、
(それとも、一休和尚をとりあげた小説の中の言葉だったか…)
「教えを文字に記すまいぞ」という意味だったと思います。

「心は常にうつろうもので、言葉や文字に表せるのはホンの一部分」であり
「軽はずみに表現した言葉や文字が誤解を生み、争いを生む」し
「言葉や文字はいつも少しずつ 本当のことと食い違っている」から
「言葉や文字では、真実は何一つ伝わらない」
と思ったのです。

「うそじゃない」「信じて」。
これらの言葉にはなんの意味もない…
そう思ってきたからです。

 でも、ここにきて、やっぱり自分の表現方法として
「言葉」と「文字」が必要だと感じるようになりました。
なぜでしょう?
伝達手段としての精度でしょうか?
「しぐさ」や「視線」、そんなものよりずっと確かに
具体的な伝達が可能だから?

 うー…ん、そうとも限らないでしょう?
態度のほうが正直なことってたくさんある。
 では、自分の気持ちの整理に?
書いてても なんにも解決しないけど。
 自分を何らかのカタチで表現したくなった?
なんのために?
完全な表現は不可能と思いこんでいるくせに?
矛盾ですね。
では、なぜ?

「理屈ではない」
言葉での説明に つまった時の常套句です。

2重にも3重にも らせんを描いている、複雑な心は
たくさん、たくさん文字にすることで
少しずつ真実に近づいてくるのでしょう。
 昔 数学の時間に習った微分曲線が
限りなくゼロに近づいて…
それでも永遠に、ゼロになることは「無い」と教わったとき、
すこし悲しくならなかったですか?

精神論が「好きじゃない」といったあなたには
お見せしたくない文章ですが、
けしてマイナス思考の迷路におちいったわけじゃないです。
「まーた、小難しいことを…」と
言われると やっぱり返事に困るけれど…。

結局、
どこかで頑張っている人がいて
自分もがんばんなきゃって思ったら
仕事が はかどらなくって つまづいてばかりいて
もどかしくって、仕方なくここでおしゃべりしてるってカンジ。
逃げてる?