現代文


うちの親は私が幼少の頃、よく本を買い与えてくれた。夢中になって読んだ気がする。漫画も好きなのでそれと平行して文章系も良く読んでいた。
小学生の頃は新学期、国語の教科書を論文系を抜かして全部一通り読んでいた。現代文の点はいつも良かった。何を解答欄に書かせようとしているかがわかったから。
『棒線の部分を読んで作者が何を伝えたいか50文字以下で書きなさい』って問題は得意。とても無意味なテストだと当時でも思っていた。これは本当に作者が伝えたいことなんだろうか?作者に確認をとっているのだろうか?ただ単に一人の、あるいは複数の教師がマニュアルにのっとってこういうことを書けば丸、と決め付けているだけなんじゃないだろうか?私はその文章を読んで感じたこととは程遠いことを解答欄で埋めることに慣れていた。
宮本輝の『彗星物語』の一説に主人公の小学生の男の子が国語のテストで質問と回答を見て「こんなんほんまに作者が思てるんやろか?」と言う。その問題文の作者は『宮本輝』
高校の頃、名前は忘れたが、著名な方が演説に来たときに「自分の書いた文章がテストの問題になっていました。僕もそのテストを解いてみたんですが、全くわからない。棒線の部分は作者は次のうち何を言おうとしてますか?って選択肢のなかに僕が思ってること一つもなかった。作者って僕じゃないんですかねぇ。」と演説をしてすごい反響を受けていた。現代文の先生らは気まずそうにしていたが。
実際、教科書に載るような文章を書く方々の小説は面白いものがすごく多い。しかし、教科書という本に寄せ集められた文章になると突然魅力が大幅に減る。そういう小説には感じるものが多々あるし、それは人それぞれ違うものだと思う。読み書きと大方の熟語の意味さえ判れば、あとは自分が感じるように感じればいいと思う。
現代文の教師というものは一体何を教えるのだろう?
今でも覚えていることが一つ。高校の頃の現代文の女教師のこと。その教師は嫌味が多く、「これくらいもわかんないのぉ?」と言うのが口癖。現代文の教師のくせに、英語の問題をだし、応えないと必ず言われる。もちろん人望はない。そいつが「『〜するきらい』の意味をノートに書いて」と言った。一人一人のノートを見ていく。私は『良くない方向にいくこと』と書いた。その教師はそれを見て「それじゃぁ、好き嫌いの意味になっちゃうじゃん。」と馬鹿にしたように笑った。
そして答えを黒板にでかでかと書く彼女の出した答えは『傾向』それは無いだろ、と思った。良い傾向に使われている文章を見たことは一度もない。逆に『きらい』という言葉を使った時点でそれは暗に良くない方向に行っているという意味を帯びるはずだ。
私は納得がいかなくて辞書をひいた。そこには「良くない傾向」と書いてある。傾向とはすなわち物事の状態・性質などが全体としてある方向に向かうこと。私のノートの回答の後半とほぼ同様の意だ。それから私はその女教師をますます教師として認めなくなった。
「こんなのもわかんないのぉ?」という前に「本当にわからないのか?」を考えるべきだ。実際、当てられてもいないのに、手をあげて答えるなんてことはよっぽど好きな教師以外はしない。ためしに誰か当ててみれば、みんなその程度の問題すらすらと答えたはずだ。あんたの相手がしたくなかっただけ。私はいつも後ろの席の子としゃべっていた。授業を受ける価値がないから。実際、授業中に寝ることの多かった私も、授業を聞いている人たちの邪魔にならないようにはしていたつもりだ。目障りではあっただろうが、うるさくはしていないし、授業を中断させることは殆どなかった。
その女教師の授業以外は。実際各自好き勝手なことをしていて、その授業は常にざわついていた。そいつはあいも変らず「こんなんわかんないのぉ?」を連発していた。あまりのむかつきに教室中がしらける。私は思わず「むかつく!!」とつぶやいた。その言葉は自分が思ったよりもずっと響き、しらけている教室を爆笑の渦にした。みんな思っていたから。そりゃぁ女教師が私に詰め寄ることなんて出来ないぐらいの大盛り上がり。やっぱり「進学校で唯一就職を決めた生徒」はこんなときぐらい役に立たないとね。
こんな授業をしているから活字離れが起きているんだ、などと偉そうなことは言わない。
只、願うなら、小説なんてつまらないと思っている人たちに教科書に載っている作者の小説を一冊だけでも読んでみて欲しい。全く違う感覚を受けると思う。つまらないと言うのならそれから言って欲しい。読んでもつまらないのであればそれは個人の趣味に合わなかった、仕様が無いことだが、国語の教科書レベルでつまらないと判断することは余りにも愚かしいことだと、私は思う。
そんなこんなでじんは只今遠藤周作に夢中♪