あれはとある夜のことでした・・・
「いらっしゃいませ・・・あ、ちょっとお待ちください・・・」
私は思わず電球を取り替えるために上がった椅子の上から、
ちょっと情けない声を出してしまった。
最近は明るさばかりが強調され、
なかなか良い照明が見つからない・・・と
恥ずかしさを隠すようにぼやいてみても始まらない。
とにかく急いで降り、
カウンターへ戻る。
「失礼いたしました」
と苦笑いし、あらためてお客様の前に立つ。
「一見でもよろしいですか?」
「ええ、むしろ歓迎です。何せ開店したばかりなものでして」
「では、チェリーブロッサムを」
「かしこまりました」
目鼻立ちがすっきりしていて、
キリッとした細い眉が印象的・・・
シェイカーを振りながら目の前の女性を横目で観察してみる。
連れでも来るのだろうか?
「お待たせいたしました」
彼女はグラスの脚を3本の指で摘むと、
ゆっくりと、まるで桜の花びらを愛しむように、
目を細めて液体を口に含んだ。
グラスをカウンターに戻すと、
彼女は静かに頷いた。
私はホッとし、
自然と入っていた肩の力を抜く。
「そういえば、今日、開花したそうですね」
2人きりの店内での沈黙を嫌った私が口を開ける。
「そうみたいですね。通りのはまだのようでしたけど」
「この時期にそのカクテルが出ると、風流だなぁと感じるんですよ」
そこでフッと、一瞬だけ会話が止まった。
目を上げると、
彼女はグラスを所在なげに揺らしていた。
「実は、このカクテル、前に付き合っていた人に教えてもらったんです。
去年、お花見に行った帰りに。
私の名前にもピッタリだって・・・あ、
私の名前、サクラっていうんです」
私は、瞬きをひとつすることでその続きを促した。
「でも、その人ともひと月前に別れたんです・・・
いえ、逃げられちゃったんです。
お金を貸してたんですけどね。
忘れたくって引っ越しまでしたんですけど、
桜が咲いたというニュースを聞いたら、
このカクテルが頭から離れなくなってしまって」
「もう一杯、お作りしましょう」
私は、相槌を打つ代わりに、
空になったグラスに手をかけた。
「あ、はい」
グラスが空いたことに今、気づいたかのように彼女は頷いた。
彼女の前に新たに桜色の液体で満たされたグラスを置く。
と同時に店のドアが開いた。
「さすがにまだ咲いていなかったね」
という声とともに一組の男女が入ってきた。
その声を聞いた瞬間、彼女の目がカッと開いた。
まさかと思いつつ、偶然なんてざらにあると思い直す。
彼等は彼女とひとつ席を空けて、彼女側の席に男が座った。
「いらっしゃいませ」
私は動揺を抑えつつ彼等の前に立つ。
「チェリーブロッサムを2つ」
男の注文を聞き、手際よくシェイカーを振る。
横目で見ると、彼女はピクリとも動かない。
「お待たせいたしました」
彼等の前に2つのグラスを差し出す。
「チェリーブロッサム、君の名前にもピッタリだろ?」
2人のグラスがキスをし、音を奏でる。
男は、液体を口に含むと、
満足そうな顔でグラスを置いた。
と、そこにもうひとつ、
チェリーブロッサムのグラスがあるのに気づいたらしい。
そのグラスの主を見ると同時に、
男は店から飛び出さんばかりの勢いで立ち上がり、声を上げた。
「サクラ!!」
シェイカーを流しに置く私の背中で
「はい?」
と静かに答える2人の女性の声がした。
グラス揺れ
春の嵐が
吹きにけり
日本人はつくづくサクラが好きな民族である・・・