〜カリブソングに捧げる〜
それはとある夕方のことでした・・・
「うん・・・うん、わざわざありがとう」
私は簡単な礼を述べると受話器を静かに置いた。
誰もいない店に電話の切れる音が響く。
私はオーディオセットの前に立つと、
パキュート・デ・リヴェラのアルトサックスソロを載せた。
電話は彼の恋人からだった。
この店にも何回もいっしょに来てくれていた。
彼とは前の店で修行していた頃からの顔馴染みである。
独立しようと思っていると最初に打ち明けたのは彼だったし、
一番強く応援してくれたのも彼だった。
カウンターという
バーテンと客の間を流れる川を越えた付き合いだった。
彼はその大柄な体格に似合わず、
海とラテンミュージックとラムをこよなく愛する男だった。
「本場の男が踊るルンバ・コロンビアはすごいんだぜ」
などと言いながら大きな体を揺さぶっていた。
マイヤーズのロックを片手に。
そして、カリブの海に船を浮かべることを夢見ていた。
外見はとても若々しく、
誰が見ても40代に突入しているとは思えなかった彼。
しかし、
たまにひとりの時に見せる
スツールに腰掛けてうつむく姿には確実に疲れが表われていた。
そんな時、
私には彼のグラスにそっと氷をひとつ加え、
琥珀色の液体を注ぐことしかできなかった。
一介の営業マンだった彼は
安定した成績を出しながらも
順調に出世街道を歩んだとは言えなかった。
30代で課長となかなかのキャリアだったが
そこからが困難を極めた。
大手を相手にしたコンペで惜しくも敗れてから苦労が始まった。
商談がうまくまとまらない・・・
まずまずの実績はあげるが目を惹くほどのものではない・・・
それでも彼は働いた。
何度も挫折しそうになりながら、
東へ西へ走った。
ちょっとでも可能性があれば
どこへでも飛んでいった。
彼のトレードマークとも言える
派手目なブルーのスーツをきれいに着こなし、
彼女を連れて満面の笑みでこの店にやって来たのは
ついこの前のことだ。
彼のあんなにうれしそうな顔を見たのは
本当に久しぶりのことだった。
「いやぁ〜まさか札幌まで行くとは
自分でも思っていなかったよ」
安堵と喜びに満ちた顔でそう言っていたのを
はっきりと思い出すことができる。
急性心不全
彼は今朝、出勤途中に崩れるように倒れたという。
彼女が病院に駆けつけた時には
すでに息を引き取った後だったらしい。
ラテンジャズのリズムに浸っていると、
ドアが開く気配がした。
「・・・さっきはどうも」
いつも彼といっしょだった彼女が初めてひとりでやってきた。
「いらっしゃい。何か飲む?」
目の前に座った彼女に言うと、
スッと一枚の紙をこちらに差し出した。
そこには
『カリブの海と空、そして愛する君にささげる』
という文とともにカクテルのレシピと思われるものが記されていた。
そして、右下に署名のように
『Caribbean song』
と書かれていた。
「カリブソングか・・・」
「はい。彼のカバンの中に入っていた包みに
これといっしょに入っていたんです」
彼女は左手を見せてそう言った。
その薬指にはきれいなブルーのターコイズがあった。
さらにその隣の彼女の頬には
もっときれいな
透明な
涙と呼ばれる宝石がひとつだけ輝いていた。
「カリブソング、かしこまりました」
彼のスーツの色を思い出させるブルーの液体を
彼女の目の前に置く。
一口、グラスに口をつけると彼女はうつむいた。
泣くのか?
と思っていると彼女はこちらを向きニコリと笑って
「おいしいです」
と言った。
「私、本当はラムが苦手で・・・
でも、彼といっしょに飲みたくて
いつだか『おいしくラムが飲めたらいいのになぁ』って
言ったことがあるんです。
彼、それを覚えててくれたみたい・・・」
虎は死して皮を留め
人は死して名を残す
とはよくいったものだ。
まったくもってニクイことをしやがる・・・
私は一生忘れられないであろう
友のことをあらためて思い出し、
メニューを書き換える手間を思って
ひとつ、ため息をついた。