新宿三番街の<小茶>
朝倉 俊博懐しのファイブ・ババーズ
……どうしたことか、自然や環境の破壊に対しては悲憤慷慨する人々が、バラックの飲み屋街がつぶされてビルになっちまうことには、ひどく無関心である。……なんてことは、いいがかりもいいところだろうが、こういう状況を嘆き悲しみ、怒りの焼身自殺をするような人が一人くらいいてもいいんじゃないか。
安酒場のカウンターにしがみつきながら、中年のよっぱらいどもが、あてどもなくこんな話をしていた。
しかし、焼身自殺する以上は、酒飲みらしくガソリンを使わないで、ウォッカやラムでやるべきだ、と演説は続く。なんのことやら、話はだんだんと怪し気になってゆき、焼身自殺のオトッツァンは、とうとうヨダレをたらしながら寝こんでしまったようだ。
「ホントネーッ、飲み屋がビルにはいるようじゃ、世の中も終リヨ。ほろ酔いで外に出ればエレベーターの入口、なんていうんじや、やになっちゃうわよネ。皆、どこまでよくばりや気がすむのかしら……」
と、一気に水わりを飲みほしたマダムは、四十をこえていた。
天下の新宿も、副都心とやらのビルブーム。寄りそうように密集していたオンボロ飲み屋街も、次々と消えビルになってしまった。そればかりか、西口広場は通りになり、東口広場にはわけのわからぬ植込みをでっちあげて、デモや集会が開けないようにしてしまった。こんなことは街の自殺行為である。
ギラキラした喧噪と、熱っぼい騒乱がなくなったら、街は終りなのだ。
飲み屋街は、いわば街の心である。それすらなくなっちまうなら、こんな街しともオサラバだ。弾圧されつくし、コンーロールされつくされそうな街を目の前にしては、先ほどの焼身自殺の話も、あながち笑ってすましてもいられなくなっているのかもしれない。ハーモニカ横丁の天使たち
「私しや、死ぬまでこのままガンバルワー、ビルにはいるなんて、ゴメンヨ!!」
と大声出したのは、新宿のお母さんなんて若い連中に慕われている<小茶>のおばちゃんである。
「新宿ファイブ・ババーズ」というのがあるが、けっしてテレビに出てくるようなコーラス・グループではない。もっとも、本人たちに会って聞いても、エッ、そんな話になっているの? とおどろくだけだから、だれかが勝手に流言したことなのだろう。
戦後、新宿駅東口前には何百軒からなる大飲み屋スラム街があった。ハーモニカ横丁なぞと呼ぼれていたらしいが、その一角に店をはり、それ以後ずっと新宿で飲み屋を続けてきたはえぬきのママ連中をさしているのだ。
ハーモニカ横町を出てから、大きな店を何軒も持った人もいれば、十人も入れば満席になってしまう小きな店を、大事そうに続けて来た人々もいる。飲み屋のなじみ客というのは、学生運動の政治セクトみたいなところがあって、あんな飲み屋にかよう野郎はロクなヤツではないとか、裏切者だ、などとののしり合ったりする。全共闘運動が盛んなころは、よく、安酒くらってのゲバルトが一晩に何回もあったし、「主体的に酒をのんでない」とハリたおされた運の悪いヤツもいたのだ。
どちらかといえば、ノンセクトの連中がたむろしていた《小茶》では、あまり激しいゲバルトは展開されなかったようである。もっとも、店の名がそのまま通称になっているおばちゃんの一声で、皆ふるえあがってしまったからなのだが……。
現在の小茶さんからは、あまり考えられないことだが、娘時代は相当なハネ上がりだったらしく、家での常習者でもあったという。何回目かの家出のとき、亭主からかっぱった十万円で始めたのが、ハーモニカ横丁の店だった。昭和二十一年だから、小茶さん女盗りの二十九歳だ。敗戦直後の荒廃のるつぼのような場所だったから、たまったものではない。飲み逃げ、ケンカ、殺しなどというのが日常で、いま考えれば、よくもまああんな無法地帯で生残れたものだ、と笑っている。
昭和二十二年ごろでバクダン三十円、カストリ五十円。それを競うようにして皆飲んだという。バクダンを飲んで、メチルにやられて死んだ人もたくさんいた。ケンカのまきぞえで、屋台に毛のはえたようなバラックは、ひとたまりもなく倒されてしまう。
何度も何度も壊された。和田組、野原組がとりしきっていて、夜になると若い衆がその日のしょば代三十円をきまってとりに来た。だから、だれともなく、和田の小茶へ飲みに行こうとか、野原のノアノアへ飲みに行こう、というふうになっていたらしい。ショウチュウが出まわるころには、その一帯も少しはよくなってきたというけれど、バクダンくらってひっくり返っていると、たちまち暗がりへ持っていかれ、あっという間に丸裸にされる、なんてのは当り前のことだったらしい。ケンカやカッパライがうとやうじやあっても、交番のお巡りさんもこわくて手出しができなかった、というのだから、いまからは想像もできない新宿だったのだ。解禁間近の「二十年禁酒」
「そんなにひどい所だったけれども、なにかワクワクして、からだ中がカーッと熱くなるような毎日だったわネ」
と、小茶さんはしきりになつかしがっている。駅前は当然、不法占拠だったから、三十二年の立退きのときには、一銭もでなかった。なじみの客が奉賀帳を回してくれて、集めてくれた三十万円で、現在の土地を買ったのだ。それから十六年になる。
新宿の《小茶》を知らない酒飲みは、モグリである。なにしろ、歌舞伎町のド真中で、おちょうし一本百円である。それに、小茶名物のサシミやシャケを食ってヘベレケになったって、二千円にもならないのだ。この手の店では、新宿一安いのではないだろうか。
「ビール一本売ったって七十円のモウケよ。当り前だったらこんな仕事やってられないわね。バカなのね。仕事が好きなのね。私は死ぬまでやわないわぁ」
と、何度となくいった。
最近、腰痛がひどくなってきて、買出しは人をたのんでいる。医者にいくたんび、あんたは働き過ぎなんだ、と怒られる。ここ十何年か、一日も休んだことがない。それに毎晩、明け方近くまで客が騒いでいる。
本当におどろいたババーである。楽しみといえば、映画を見ることと花札をやることだ。いやな客はドナリつけ、ふられた女の子にはもらい泣きするすてきなババーでもある。飲み屋の天使というには、あまりにも年をとり過ぎたけれど「おばちゃんは、飲み屋のカガミ、新宿のお母さんですョ」とまでいう熱列なファンもいるのだ。
酒は一滴も飲まない。それも、二十年間は一滴も飲むまいという禁酒中なのだ。
しかし、あと数年で禁酒はとける。そうしたら、思いのたけ酒をくらい旅を楽しもう、と思っているのである。