2014年正月明け、偶然にネットで「小茶」の名に出会いました。一気に全文読みました(半分ほどは文字バケですが)。ママの写真を見つめ続けました。ホームページを開いてくれた方に感謝。昨年のうちに出会えていたら、美緒さんに挨拶に行けたのにと悔やまれます。
早稲田初日の夜、小茶へ 1955年(昭和30年)4月、早稲田の二文仏文科に入ったボクは、登校した初日、席を隣り合わせたMとウマが合い、初めての夜の新宿へ行きました。2人の文学青年が訳知りに探し訪ねた店は詩人・草野心平夫人がやっていると聞いていた「火の車」です。いうまでもなく未成年で居酒屋は初体験。おどおどしながらおでんとビールを注文しましたが、ほどなく女将に正体を見破られ、「アンタたちが飲むにはウチは高いから、次からよそへお行き」と言われました。「そうしないと、ここいらじゃ長続きしないよ」という教えだし、お客が長続きしないとこっちの商売も長続きしないんだよ、という意味だったことを知ったのは何十年も経ってでした。
火の車の女将が教えてくれたのが、一筋か二筋別の「小茶」でした。その足で向かいました。訳を話すとおばちゃんはあの笑顔で迎え入れてくれました。以来2人は小茶に通いました。スタニスラフスキー・システム熱に罹ったMは演劇青年に転身して離れましたが、ボクは通い続けました。
おばちゃんはいつも着物に割烹着でした。お袋と同じで、体型も顔の造りも同類でしたが、お袋には見たことのない愛嬌のある目つきと歯切れのいい口ぶりががあり、魅せられました。
親父が許さない夜学に進んだため、アルバイトをしなければなりませんでした。幸運にもいいアルバイトに巡り会いました。甲州街道の向こう側にあった文化服装学院の「装苑」という雑誌の発送業務です。全頁アート紙の厚くて重い雑誌で、全国の支部教室に刷り上がるそばから20部、30部と厚紙で包んで紐で十の字に括る仕事でしたが、はんぱではなく、厚紙を叩き畳む右手首が半日で熱を持ち、左手首に代えて凌がなければなりませんでした。倉庫に3日間缶詰め、折りをみて山積みの雑誌に寄りかかって仮眠をとり、小茶のカウンターを夢に見て、日に4回、家畜の餌のように届けられる弁当を食らって息を整え、過酷ではありましたが3日間で下手なアルバイトの1ヶ月分の稼ぎになりました。
明けると家に帰って丸1日死んだように寝て、夕方出かけて行く先は、早稲田ではなくおばちゃんの店でした。
暖簾を外に出す時刻前から行くことがしばしばでした。おばちゃんが店先に椅子を出して辛そうに肩を叩いているときなど、ボクが按摩をしてやりました。時には「背中がかゆいのよ、泉田さん、ちょっと手を入れて掻いて頂戴」といわれ、そうしました。おばちゃんの背中に滑り込ませたボクの手が、触れたことのない柔らかさと温かさを覚えたことをいまでも思い出します。
ボクは仏文科の有志と始めた「早稲田作家」という同人誌の編集委員で、すでに泉田康生なるペンネームを名乗っていました。ある日、おばちゃんが笑っていいました。「この辺のママたちがさ、泉田さんのこと、あたしの若いツバメだよって話してるよ」。そういう言葉が大映映画から流行った時代でした。
飲むといっても、お通しの沢庵か柿のタネを肴に、二級酒をちびちび。何を話すでもなく、聞く一方で、聞くことがいちいち勉強になりましたから、ただひたすらにこにこ聞いていました。それを見て、常連の大人たちがよくお酌してくれました。
馴染み客の1人に早稲田の英文科教授で、第三の新人として芥川賞候補の常連になっていた小沼丹さんがいました。ボクのことを主な作品をほとんど読んでいる愛読者かつ後輩だと信用してくれて、荻窪のご自宅にも呼ばれました。何度か二軒目に二幸の裏の樽平に連れて行ってくれました。石川達三、新庄嘉章、丹羽文雄、正宗白鳥、八木義徳などの大家がいて、小沼さんは「仏文の泉田くんです」と丁寧に紹介してくれました。
「早稲田作家」はかつて石川達三さんたちがやっていた同人誌名でしたので、あるとき電話で「樽平で小沼先生に紹介していただいた泉田と申します、お宅にお伺いしてお許しをいただきたい」と話したところ、「そんな手間は省いて早く創刊号を出しなさい」と励ましてくれました。
小茶と小沼さんのおかげです。
旧和田組の小茶にはたまに娘さんが出ていた記憶があります。背のすらっとした美人で、みさおさんというお名前だった記憶があったのですが、ホームページで美緒さんだったのだと知りました。
ボクはプライベートなことに立ち入る分際ではなく、詳しくは知りませんが、聞くともなしに聞いたことをつなぎ合わせると、おばちゃんの姓は栗間さんで、旦那さんだった(亡くなったとは聞きませんでした)人の姓、旦那さんは出版社の老舗、春陽堂書店の専務だった人。と、そのぐらいでした。ホームページを見て、かなり違っていたことが分かりました。ボクの実家のガラス戸付きの大きな書架に全30巻ほどの「明治大正昭和文学全集」が揃っていて、それの版元が春陽堂か春陽堂書店だったと記憶していました。
当時のボクが立ち寄る本屋の棚では馴染みのない出版社名だったこともあり、出版は浮き沈みの激しい業界とも承知していましたから、そこの専務だった人の未亡人か元夫人がいま目の前の人だと思うと、不思議ではなく、話として腑に落ちないものではありませんでした。>BR>
常連客の1人に斎藤さんという、いつも新調のスーツを着て1人でくる映画俳優のような紳士がいました。4、5回目かに隣り合わせたとき、鮨屋に連れて行ってくれました。そこで、斎藤さんから「君はもう男か」と囁かれました。「まだ童貞です」と応えると、「二丁目へ行きたくなったら私にいいなさい、紹介してあげる」と言うのです。しかし、名刺をくれるわけでもなく、電話番号を教えてくれるわけでもありませんでした。
次のとき、おばちゃんに「斎藤さんてどういう人なの」と尋ねると、「泉田さん、なんか言われたの」と聞き返してきましたが、恥ずかしいので「いや、べつに」とごまかしました。おばちゃんにはお見通しだったのではないかと思います。そして「あの人ねぇ、和田組の顧問みたいな人なのよ、なんでも東大の法学部を出たとかってインテリさんよ」と囁いてくれました。
斎藤さんはそれきりでした。サツの裏担当の弁護士かなんかだったのでしょう。
そういえば当時、教育三法が強行可決されるとかで、都内三カ所から国会へデモをかけていました。国会周辺でアジとシュプレヒコールを繰り返してからは、来た道を練り歩くのです。ボクたち早稲田の学生は新宿コース組でした。
同時期に社会党の代議士、戸叶里子が先頭に立って赤線防止法案が進行していました。昭和31年に可決、猶予期間をおいて33年から実施されました。教育三法反対のデモの時期はその猶予期間でした。ボクたちは四谷方面から新宿通りを「教育三法ハンターイ」とアジりながら行進して帰るのですが、ちょうど新宿二丁目の前を通ります。ここでは「赤線防止法ハンターイ」と変わります。すると店々から赤い着物を振り振り
して、彼女たちが「あとで待ってるわよ〜」と応えてくる。
新宿駅で解散してもボクら文なしは二丁目に戻って落語のひやかしの真似ができる器量もなく、小茶で二級酒をなめるのでした。
曲がりなりにも卒業して、就職したのが銀座の会社でしたので、新宿で飲む頻度は少なくなりましたが、区役所通りに引っ越して小茶にも当時の仲間と何回か行きました。
おばちゃんの頭の上の棚に計りがあって、針が真上を向いています。当時は山手線の終電は零時ごろでしたので、それを見上げて、「おい、もう12時だ、帰ろう」とシャレを飛ばした記憶があります。
椅子の数が1つか2つ増えたようでしたが、旧和田組時代より賑わっていた印象があります。
5年ほど間が空きましたが、ボクは結婚してすぐに妻を連れて報告に行きました。お新香が大きな器にびっくりするほど山盛りで出てきたのをよく覚えています。それがおばちゃんのお祝いだったのかもしれません。
早稲田の初日、小茶の初日から、はや60年が経ちました。思い出はもう朧でしたが、ホームページのおかげで、雲に隠れていた月がくっきり顔を出したように、おばちゃんに再会出来ました。といっても「写真館」の1段目と2段目の間のじだいです。いま計算してみると、おばちゃんは40代でした。やっぱり相当な美人だったのですね。