『風景の中に』

  11月第三週の日曜日、大陸からの移動性高気圧に覆われ晴天ではあるが、
 上空の寒気の影響で平年よりも肌寒い日曜日だった。
  律子は、平日の出社時間よりも1時間以上も朝寝を楽しみ、気温に適した装 
いで、バイオリンを抱えて家を出た。
  義務教育の始まる以前から、両親の薦めで習いだしたバイオリン。少女時代
 は毎週、母親に付き添われ通った道のりも、律子が高校受験前に演奏家として
 の成功に疑問符が付き、普通科の高校に進学を決めた頃から月に一度の道のり
 になった。
  律子は、演奏家としてバイオリンを弾くことに執着はなく、社会人になった
 現在も、月に一度はバイオリンを抱えレッスンに通っていた。
  町並みに変化のない自宅付近の住宅街を抜け、会社とは別方向のバスに乗り
 込むと、一月という短時間とは思えないほどの変化を発見することがあり、律
 子は風景を楽しみながら駅へ向かった。
  バスがたどり着く駅は、2社の私鉄が乗り入れている駅で、律子の自宅から
 一番近い都会という印象だが、大きな建物が規則的に増えた印象を与える駅の
 風景は、律子には好ましくない物だった。
  以前は階段を使って上下に移動することなく駅のホームに入れた駅を懐かし
 みながら、横幅の広い階段を登り、小さなモニターに映し出される数字を触れ
 るタイプの味気ない券売機で乗車券を買い、自動改札を使い駅構内に入った。
  機能的に配置された階段を降り、駅のホームに立つと、今となっては不釣り
 合いな、増築の際に残された鉄骨向きだしの柱にもたれて目的の電車の到着を
 待った。
  目的の電車は、鉄骨の柱が暖まる間もなくやって来た。
  電車に乗り込み、律子はいつもと同じに、進行方向左手のドア付近の場所に
 立ち、外の風景を眺めていた。バスや歩きでなら、充分に変化を感じているだ
 ろう風景も、線路からの距離と電車の速度で、あまり変化のない物に感じられ
 て、律子はこの風景を見ると電車がタイムマシーンになったような不思議な感
 覚になる。
  律子は、この電車の車窓からの風景に何カ所かのランドマークを持っていて、
 電車の進み具合を把握していた。このランドマークも、時代と共に消えていく
 物が多く、有るはずの、有ったはずの建物が消えると無性に哀しかった。
  律子が幼少時代から見てきた風景の中で、今日まで変化しなかったのは、橋
 の位置と、路地から浮かび上がるように見える黄色い喫茶店の看板だけだった。
  その喫茶店の看板があるのは、目的の駅の3つ手前に有る駅を出て、ほんの
 少し時間が経った場所。律子は、その喫茶店の看板を見落とさないように注意
 しながら、窓の外に意識を集中した。
  ところが、今日は、その喫茶店の黄色い看板を見付けることが出来なかった。
 喫茶店の看板なのだから、店が潰れたのかもしれない。
  そう考えると、律子は落ち着いてはいられなかった
  律子は、目的の駅でなく、次の駅で電車を降りて改札に向かって歩き出した
 時には、あの喫茶店を探す決意が固まっていた。律子は改札を出て、公衆電話
 を探し、今日のバイオリンのレッスンを休むと連絡を入れ、タクシー乗り場に
 足を止めたときに気が付いた。
  電車から見える黄色い看板の喫茶店。
  冷静に考えてみれば、本当に喫茶店なのだろうか。線路からの距離が有って、
 正確に看板の文字を読みとった訳ではない。
  思い返してみれば、いったい何故、あの看板が喫茶店だと思ったのかすら覚
 えていない。そんな店を、いったいどうやって探すのだろう。
  意を決して、タクシーの運転手に説明をしてみたが、タクシーで移動してる
 運転手が車窓から見える風景を覚えているわけもなく、電車を利用してる人で
 も、同じ物を必ず見ているわけでない事を思い知らされた。
  律子にとって、こんなにも重要なことは、所詮は何気ない町の風景に過ぎな
 いことを実感させられた。
  この事が、余計に律子を黄色い看板の喫茶店に行こうという気持を決定付け
 た。あの店を、私が探さなければ。という、奇妙な使命感に突き動かされて律
 子は方角と距離だけを指示してタクシーを走らせた。
  あんなに目立つ看板を出している店が、住宅街に有るのだから、容易に見付
 けられると思っていた。
  おおよその場所でタクシーを降り、律子は現実を突きつけられた。
  現実は甘くない。
  刑事ドラマの聞き込みのようにすれば、確かに容易に見付かるだろう。律子
 に、そんな真似が出来るわけもなく、せいぜい子供達に声を掛けるのが精一杯
 だった。
  子供達から有益な情報が得られる訳もなく、律子は線路の上を走る電線から
 場所を推理しながら、見知らぬ町を歩いた。
  思えば、車窓から見続けた風景ではあるが、その町を訪れたのは初めてだっ
 た。あんなにも見続けた風景なのに。
  律子は、この事実を受け止めるのに苦労した。
  自分の足で歩く町の風景は、律子の家が有る住宅街と大差なく、車窓から見
 た時の半分も好きになれなかった。
  予想もしなかった後悔に動揺していると、突然に、あの黄色い看板が目に入
 った。建て売り住宅の切れ目から、巨大な黄色い看板が見える。
  足早に看板に向かって歩くと、薄汚いコンクリートの壁に、巨大な看板が外
 されて立てかけてある。まだ少し距離はあるが、もう、はっきりと看板文字が
 読み取れた。
  「川村手芸店」
  律子は、看板を読んで愕然とし、次に笑顔になった。
  あれほど見続けた黄色い看板。喫茶店と、子供の頃から信じて疑っていなか
 った看板は、実は手芸店の看板で、そこには喫茶店は無かったのだ。
  看板を立てかけた薄汚いコンクリートの壁を過ぎ、車がすれ違うのに苦労す
 る太さの道に出ると、”閉店セール”の赤い登りが3本店の前に立っていた。
  律子は、その店に入り、意味もなく黄色い毛糸を一玉買った。
  店内に居たのは、想像もしていなかった若い女性で、丁寧な応対で毛糸を袋
 に詰め、毛糸の料金を受け取りお釣りをくれた。
  「長い間、ありがとうございました」
  その、若い女性は律子にそう言い、深く頭を下げた。
  律子は、その台詞を苦い薬を飲み干すような感覚で受け止めた。
  「いいえ、こちらこそ」
  律子は、店員の若い女性にそう言い、店を出た。
  紙袋の中の毛糸の感触を確かめながら、最寄り駅へ行く方法を考えていた。
 少しだけ、無理矢理に子供の自分を奪われたような不思議な感覚を覚え、一人
 顔を赤らめた。
  上気した頬に、晴天の光の暖かさと、大気の冷たさが混じり合い不思議な感
 覚だった。律子は照れ隠しに、小首を傾げて微笑した。

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