エッグ・ショート (作 テヌート)
ここ数日、秋の気配が色濃く感じられていたのだが、夏が自らの存在を主張す
るように日中の気温は30度を数度越える真夏日になり、日が暮れて僅かなこの
時間にも日中の熱気が色濃く残っていた。
アスファルトの上に単純に数学的で無機質な高層建築が立ち並び、街路樹が異
質に見える幾何学模様で切り取れる風景の中を人々は歩いていた。
夏らしく大気中の湿度は高く、車道を往来する車の排気ガスを取り込み空に戻
れなくなった湿度が高く不快な空気は、昼の暑さを抱えたままビルの谷間に蜷局
を巻いている。
夜の始まり、そんな往来の多い時間帯を奇妙に白味の強い日本人好みの緑でな
く、ヨーロッパの絵画の様な彩度を損なわない黒みのある緑のスーツを着た女性
が、肩を落として、疲れや意志の弱さを感じる歩き方の群衆の中を、リズミカル
では無いが確実な意志を感じる歩き方で歩いてくる。
彼女の歩く姿は、正に群衆の中で異質であり特別美しい物だった。彼女の歩き
方の美しさは、優しい顔立ちと同じ身長の女性よりも僅かに狭い肩幅とのギャッ
プで更に際だち、多くの人の印象に残るものだろう。
歩き方の美しさの中で特筆すべきは、彼女の肘。単純にバックを持っていると
いうのでなく、下げているのでもなく、まるでバックの重さが消えたような自然
な肘の角度はそれだけで充分に鑑賞に値する。
俺は、彼女の後を追って歩いた。
不思議と彼女に声を掛けようとか不謹慎な気持でなく、映画の続きを見るよう
な心境で彼女の後を追った。
彼女は、木製の扉を体重を大きく使うわけでなく、かといって腕の力だけで開
けるというでもなく、まるで目に見えない階段を一段だけ上る様な自然な動きで
通り抜けた。
直後に入るのも不自然に感じた俺は、扉の前で煙草を1本ふかして扉を開けた。
扉の中は適切いう表現でしか言い表せない照明の施されたbarだった。俺は、
この光景を見るまで彼女の後を追うという目的に捕らわれていて、扉の向こうが
何であるか考えてもいなかった事を思い出した。
オフィスでなく、barで良かったと安堵しながらも店を見回して彼女を捜し
た。彼女は、カウンター席に座り、親しげにバーテンダーと話をしていた。
俺もカウンター席の彼女から少し離れた席に座り、バーテンダーに声を掛ける
タイミングで彼女を見た。
その時に、奥のビリヤードテーブルから店の雰囲気とは合わない若い声が響い
た。
「おばさん、いかしてんじゃん! 一杯おごってくれよ。一晩遊んでやるぜ」
俺は、その声が掛かった時に彼女を見ていたが、彼女は表情一つ変えずに奥の
ビリヤードテーブルに向かってゆっくりと振り返り、言った。
「いいわよ、私に勝てたらおごってあげる」
彼女の落ち着いた台詞を聞いた若者は、下品な笑声を上げてから彼女に言った。
「俺が勝ったらどうするんだ? オバサン? タダじゃ抱いてやらないぜ」
歩み出そうとするバーテンダーを彼女は視線で押さえて、まるで視線に気付い
ていた様に自然な台詞で俺に言った。
「ごめんなさい。本当は静かな店なのよ。ちょっと、バックお願いしますね」
そう言うと席を立ち、奥のビリヤードテーブルに向かって、あの魅力的な歩き
方で歩いた。
不安そうに見ている俺に、バーテンダーは声を掛けてきた。
「大丈夫ですよ。直ぐに終わります。それより、何を作りましょうか?」
俺は、奥のビリヤードテーブルから微かに目を離してバーテンダーに言った。
「じゃあ、ギムレットを・・・」
俺が、ビリヤードテーブルに目を移すとシェーカーの音が聞こえた。
奥のビリヤードテーブルでのやり取りは聞こえないが、どうやら彼女はブレー
クショットを若者に譲ったようだ。若者はキュー尻に近い場所にグリップを移し、
手玉からブリッジを離して構えた。
どうやら、あの若者はビリヤードの腕は言うだけのことが有るかもしれない。
微かに不安になっていると、シェーカーの音は止みテーブルにカクテルグラスが
置かれた気配がした。
若者のブレークショットは見事な物だった。充分に体重が乗った手玉は見事に
ナインボールのダイヤモンドを崩した。
豪快な音と共に玉はテーブルの上を走り、いくつかのカラーボールをポケット
に落としたようだ。若者は躊躇無く的玉を狙って打ち、キューを置いた。俺は立
ち上がってテーブルの上の様子を覗き込んだ。
正に、見事なセーフティーが出来上がっている。手玉は見事にフローズンし、
的玉との間にはカラーボールが有る。
しかし、彼女は手早くタップにチョークを塗ると、手玉に向かい、キューを立
てた。俺が「マッセだ」と思うと同時に彼女のキューが動いた。手玉は見事にカ
ラーボール避けて曲がり、的玉を捕らえた。的玉とキスした手玉はサイドポケッ
トに向かって走り、サイドポケットの前に有った9ボールを落とした。
一瞬の出来事だが、彼女の勝ちである。
何事かを若者に告げる彼女の言葉は聞き取れないが、若者の言葉は俺の耳に届
いた。
「まぐれだ!」
いや、まぐれでは無い。彼女が手玉をクッションに入れて的玉に当てた後に、
若者が容易に9ボールを狙える状態に配置された罠を逆手に取り、マッセで9ボ
ールを落として見せたのだ。
完璧に、彼女の勝ちだ。
若者はキューをビリヤードテーブルに置き、荷物を纏めて足早に店を出た。優
雅な身のこなしでビリヤードテーブルの上のボールとキューを片付け彼女はカウ
ンター席に戻ってきた。
彼女は席に座り微笑みを浮かべながらバーテンダーに言った。
「おごってくれないみたいだから、自分で飲むわ。エッグ・ノッグをステアで
お願い」
不思議そうな顔をしてる俺に振り向き、バーテンダーへ向けたのと同じ微笑み
で話しかけてくれた。
「バックありがとうございます」
そして、テーブルの上に口も着けずに汗をかいてるグラスを見て、美しい笑顔
でこう言った。
「ギムレットにはまだ早すぎたのかしら?」
俺は、照れ笑いを浮かべながら答えた。
「早すぎでしたね。あのセーフティの後の貴女のショットは推理できませんで
したよ。エッグ・ノッグのステアですか? 珍しいですね」
彼女は、満面の笑みを浮かべて俺に言った。
「ギムレットにはまだ早いのかしら? 貴方の為にシェーカーを空けたのです」
俺が、照れくさそうに言葉を探していると、バーテンダーがグラスをテーブル
に置きながら言った。
「甘いお酒がお好きの割には、ご本人は辛口ですね。夏でもステアじゃないで
すか。この方は、いつでもエッグ・ノックのステアを頼まれるので、常連の間で
はたまごさんと呼ばれてるのですよ」
バーテンダーは穏やかな口調でそういい、笑った。
彼女は、照れたように微笑みながら私に言った。
「本当にギムレットにはまだ早すぎたのはさっきの坊やね」
俺は、素晴らしい映画のスタッフロールまで見たような充実感を感じながら、
バーテンダーに向かって言った。
「じゃあ、たまごさんのお言葉に甘えて、充分にシェークしたギムレットをお
願いします」
俺の台詞で、二人がビリヤードテーブルに集中していた事を理解した彼女は軽
やかに笑った。
−−−− 終わり −−−−