梅雨間近

   肌寒い季節はとうの昔に去っているはずなのに、日中の夏の気配と、夜の
  秋のような肌寒さに対応しきれず、いく子は貴重な休日を半分無駄に過ごし
  ていた。
   久しぶりの、全くなんの予定もない休みに緊張したのだろうか、目覚めた
  のは普段の時間よりも早かった。まだ、昨夜の雲が空に残り爽快な朝とは 
言えなかった天気だったが、シャワーを浴び、簡単な食事を済ませ、気の向く
  ままに机に向かったり、珈琲や紅茶の複雑な香りを楽しんでいる内に、昼前
  には空の雲はすっかり消え去り、太陽の光が強く快適な夏という雰囲気にな
  っていた。
   窓を開け放ち空気を取り入れると、目に見えない湿度がいく子の体を包み
  込んだ。
   この空気の違和感に押しも出されるように、いく子は部屋の中で気ままに
  過ごしてきた。
   午後の、昼を過ぎ、夕方には早すぎる言葉にしがたい時間は、いく子に重
  くのしかかった。TVは、ゴルフ、バラエティー番組の再放送、好きな音楽
  でも気持は晴れない。
   この、昼間としか言い様のない空気で満たされた部屋から、いく子は脱出
  する事にした。
   簡単に外出用の服を選び、ブラシを片手に鏡に向かった。髪は、湿度によ
  って少し癖をだしていたが、適度なウエーブがかかって、思いの外簡単に満
  足のいく形に整った。
   外の空気は、想像以上に心地の良い物だった。大気が熱を持ってまとわり
  つく夏とは違い快適だし、日の光は路上に木の影を作り、見上げれば、まだ
  街の空気に汚されていない緑の隙間から光が見える。
   いく子は、自分の選択の正しさに満足しながら、意志を感じさせる軽快な
  テンポで、歩幅で、坂道を上がって行った。
   長い、しかし勾配のきつくない坂を上りきる頃に、いく子は部屋で窓を開
  けたときに感じた不快な湿度が自分にまとわりついている様な感覚を覚えた。   
この目に見えない不快な物から逃げるように足早に坂を上がれば、余計に
  大気の暑さと、湿度で汗ばみ、不快さを増した。
   坂を上がりきった頃には、いく子はこの不快さから逃げる方法で頭がいっ
  ぱいになっていた。軽快だった服も、適度なウエーブだった髪も、何もかも
  が、湿度という小さな目に見えない重りを下げている様で、苛立ちすら覚え
  ていた。
   坂を上がりきってすぐ目に付く喫茶店、何の装飾も無い鉄の枠で出来た窓、 
 ドア、蝋で出来た食品の見本を陳列したケース。
   何もかもが、いく子の好みでなく、家から近いこの喫茶店に足を踏みを入
  れることは無いだろうと思っていた喫茶店。
   今日のいく子には、この喫茶店がオアシスに見えた。一秒でも早く、この
  不快な空気を遮断した空間に入り込みたかった。
   味気ない自動ドアの前に立ち、僅かに躊躇したが、いく子は喫茶店に足を
  踏み入れた。
   白い前掛けをした中年の男がTVから目を離し、客であるいく子に「いら
  っしゃい」と気のない言葉をかけた。
   普段のいく子なら、この対応だけで店を出るのだが、自動ドアを抜けた空
  間は空調によって冷やされ、あの嫌な湿度の影もなかった。
   いく子は、窓から離れた席に座りメニューを見ることもなく、珈琲と男に
  注文した。
   男は、機敏な動作でなくのんびりとTVを離れ、ガス台の火を付けた。ガ
  ス台の上には、鉄製のポットが有り、いく子は暖め直しを出される事に失望
  した。
   しかし、今のいく子には暖め直しの珈琲の不快さよりも、あの自動ドアの
  外の空気の不快さが勝っていた。暖め直しの珈琲がつまらないCUPで出さ
  れ、縁の厚い重たいCUPで珈琲を礼儀として飲んだ。
   珈琲CUPの底が見え隠れする頃には、いく子体から嫌な熱や湿度は無く
  なっていた。
   いく子は不快さが無くなり、冷静な頭で考えた。
   「あたし、やっぱりクーラー嫌いだ」
   そう呟くと、釣りのいらない金額の小銭を机に置き、店を出た。
   明るい日差しの中、微かな風に髪を揺らしながら笑顔で、確実なテンポと
  歩幅で坂を下った。

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