「心の時間」(作 テヌート)
日本列島の各地に激しい雨を降らせてきた雨雲が通り過ぎた後の山は、太
陽の光が雨を空に戻すときに、一緒に山の色々な匂いを大気中に解き放って
いく。
あの豪雨から2日目の今日、すでに深いくぼみ以外には雨の名残は感じな
いのだが、空気の中には空に戻る雨達が残した匂いが充満している。
土の匂い、草木の匂い、様々な匂いが、古い記憶を強く刺激した。
私が、この林道を登るのは20年ぶりくらいの事である。父の思いつきで、
実家の建て直しが終わるまでの数ヶ月間を、家族揃って田舎で暮らす事にな
り、小学4年生の夏から2ヶ月間、この山の麓の村で暮らしたのだ。
ほんの2ヶ月間の事とは言っても、子供は子供なりに自分の社会があり、
その自分の世界から切り離されて暮らすのは容易なことではなかった。大人
の目から見れば、ほんの些細な事だっのだろう。
しかし、私はこの山の麓の村で暮らした2ヶ月間にあまり良い思い出は無
かった。
実家の建て直しが終わって元の街に戻っても、自分の社会に違和感を感じ
無くなるまでに数ヶ月かかったものだ。
私が、その2ヶ月間で見付けた不思議な湖その湖に、大人の自分が来ると
は考えてもいなかった事なのだけど・・・
この林道の入り口まで車で来る間に見た麓の村は、自動販売機や広告を除
けば大きな変化も無く、目にする人工物、家や車等から、その家の暮らしと
いう物を値踏みできる自分の大きな変化に打ちのめされた。
林道を軽装で登りだして約1時間経つが、麓の村と違い人工物のほとんど
無い林道は、私の汚い憶測の入り込む余地など無く、気持が楽になる。
「そろそろ、なんだけど・・・」
私は、自分の記憶に言い聞かせるように口にした。
あの不思議な湖へ向かう為の方角・・・ なんの目印もなく林道を離れる
ポイントを、私は必死に思い出そうとしていた。
考えれば考えるほど、目を凝らせば懲らすほどに、物事が複雑化していく
様で、困り果てた。ふと、その時に低木の隙間から見覚えのある先の尖った
石を見付けた。
私は林道から外れて山に踏み込み、その尖った石の先に足をかけて踏み出
した。人間の記憶とは不思議な物で有る。尖った石の感触を足の裏に強く感
じたときに全ての道筋が蘇った。
後の道は、自分の記憶と体の成長の誤差を楽しみながら、山を進んだ。
道は記憶の中のままに、20年以上も変化が無く、まるでタイムスリップ
の様な感覚に捕らわれた。
私は、記憶のままに山を進み、不思議な湖にたどり着いたのだが・・・
その湖は、湖なんて大きさでは無く、ちょっとした湧き水か水たまりの様
な大きさであったのだ。
少なからぬショックを受けた私はしばらく、記憶の中の湖を前にたたずん
でいたが、気を取り直して、この湖の不思議な力が今でも健在かどうかを確
かめてみた。
私は、小さめの石を拾い上げて、思い切り湖面に投げつけた。
その小石は、常識的な力学を無視して、私の記憶のままの動きを見せた。
小石は湖面の2Cm程度の高さで、ピタリと動きを止める。私は、その光
景を見て複雑な微笑を浮かべた。
この湖の不思議な力が昔のままなら、今投げて湖面の上で静止している石
が湖面に届くのは、私が石のことを忘れた時のはず。
私は、背中のDAYパックから小さなアルバムを取りだし、アルバムをラ
ンダムに開いて、何事かを確認するように順番を追って写真を眺めた。
アルバムの中には、楽しそうな私と、様々な季節の服で、髪の長い女性の
色々な表情が収められていた。今の私には、彼女について様々なことが明確
に思い出せる。
彼女の、おそらく全てが・・・
私は、アルバムと同じ程度の重さの石を探して、何度と無く地面に投げる
練習をしてみた。湖面の丁度真ん中にアルバムが届くように投げる自信がつ
いて、景色を見回した。
景色の中には、特に私の決意に影響する物も無く、私は、照れ笑いを浮か
べながらアルバムを湖面に投げ入れた。
アルバムは、ほぼ小さな湖面の真ん中に浮かび、ピタリと止まった。
私は、このアルバムが水の中に沈む日が想像も付かずに、照れ笑いを浮か
べながらその場を後にした。
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・・・
半月の明かり、予想できないタイミングで吹く強い風が木々を抜ける
ときに立てる音しか無い山の中。
野生の動物達が水を求めて、ポツリポツリと湖に集まっていた。大型
の動物の活動時間を過ぎているのだろう、小型の動物が互いを気にする
こともなく水場でくつろいでいる。
無風状態で微かな音の無い水場に、不意に大きな水音がして動物達が
一気に走り去って行った。