夜の町の喧騒も静まり始めた頃、白の僧衣を纏った牧師が足を進めていた。
 そこは町外れに続く細道。決して彼が帰路につく方角ではない。
 珍しく雲もなく、月明かりのおかげで足元に注意を払う必要はなかった。





「この分なら間に合いそうですね」





 欠けた月を立ち止まって見上げ、何気なくそう呟く。
 午前の熱気を未だに含んだ生温い風が頬をなで、うっすらとかいた汗をさらに不快にさせた。
 しかし、汗を拭うこともせずに再び歩き始める。

 牧師――ニヒト・ダーザインは言葉とは裏腹に焦っていた。

 右手に握った一枚の手紙。先日家に届いたそれは、これから会う男が記したものである。





「急がなければ…」





 手紙の内容を思い出し、さらに歩を早める。約束の場所まで後少し―――――――




















 同居している少女の姿が、ここ数日見ていないのは気付いていた。
 しかし激務である役職を担う身。数日家を空けることは特に珍しいことではない。
「無理をされていなければ良いが…」とは思ったものの、それを止める術を知らなかった。
 仮に術を知っていても、それを実行する権利がないということを知っていた。
 彼女が好意を抱いているのは私ではなく、私の中に眠る魔族の青年に対して。
 故にあくまで友人として接する…と言い聞かせてきた。
 けれど、最近は本当にそうしてきたかと疑問に思えるようになった。
 今までにも青年の記憶や感情が出てくることがあったが、私の意思にまで働きかけることはなかった。

 それなのにこうして歩き、焦り、怒り、震えている。

 そしてそれは、彼が私を凌駕し、支配しつつある証拠である。

 まだ消えるわけにはいかない。牧師たる私が神に背いてまで、求めたものを手にするまでは。





『お前に、彼女の悲鳴が聞こえるか』





 手紙の最後の一文が、疼く右目から私のものではない涙を流れさせる。












 とある国のコロシアムが指定された場所だった。そこは沈黙が支配していて、誰かが居る気配はない。
 近くの席に腰を下ろしてコロシアムを見渡した。





「まだ来ていないのでしょうか」





 物陰の暗がりに彼が目を凝らそうとした時、右目の疼きが瞬間鋭い痛みに変わる。





「!?……痛ぅ」





 ぽたぽたと、引いた涙の代わりに赤い雫が零れ落ちる。
 一瞬だけ見えたのは決闘の場面。ここではないコロシアムに、二人の男が向かい合っていた。
 その内の一人、軍服を着た青年のことはニヒトもよく知っていた。
 月の光のせいなのか、白銀の髪が複雑な色合いをもって輝いていたのが印象的だった。

 そしてもう一人…あれは―――――





「早かったな、ニヒト」





―――――今目の前に現れた、赤毛の堕天使。





「あの時もいい月だったな。もっともあれは冬だったが」





 男が何を言いたいのかはすぐに解かった。先刻見た一瞬の遠い記憶。





「随分と男前になりましたね…聖神邪殿」





 棘を吐き出したニヒトに対して聖神邪は笑いかけた。左目を覆う眼帯に手を当てる。





「右目が使えれば十分だってのは知ってるだろう? お前と同じように――」
「私は彼ではありません。そして、彼は私ではない」





 台詞を遮られても、聖神邪は笑みを崩さない。





「お前の気持ちはよく解かる。形は違えっても、俺も契約した一人だからな…だけどよ」





 漆黒の翼を広げ後方へと飛ぶ。





「ここに来たことが、お前が出した答えじゃねえのか?」





 月光の下、笑う堕天使の残った右目が怪しく輝く。
 追ってコロシアムの舞台に移動した牧師は、足場を確認しながら堕天使に向き直る。





「私と彼は違います。ですが…今はこう言いましょう」





ニヒトは上着を脱ぎ捨て、拳を突き出してこう続けた。





「あの方を傷つけたこと…許しません」
「…それでいい。お前はごちゃごちゃと考え過ぎなのさ」





心から嬉しそうに笑った後、聖神邪も構えを取る。





「騒ぐ片闇の血…これで全てに終止符を」





幻想的に照らされた舞台の上で、開演の幕が上がった。










 私のものではない記憶との、奇妙なまでに一致する今この時。
 勝つにせよ負けるにせよ一瞬で決まる。…あの時がそうだったように。
 あの時は―――いや、先刻に彼とは違うと言ったばかり。





 勝つのは……私だ!





 先に動いたのはニヒトだった。滑るように聖神邪へ肉薄し、右からの初手を繰り出した。
 しかし、歴戦の戦士である堕天使は僅かに動き、頬に少しの傷を付けられただけで回避する。





「どうした、それで本気か!?」





 攻撃を避けられ、身体が泳いだニヒトに聖神邪の一撃が迫る。





「右腕はあなたに差し上げます」





 次の瞬間には互いが舞台の両端に立っていた。血を流す二人の姿が、一瞬の攻防を物語る。





「やるなぁニヒト。あん時に反撃してくるかよ」





 血の混じる唾を吐き捨て、再び獲物をその右目に捕らえる。
 対するニヒトは右腕から多量の血を流し、荒い息を洩らしていた。





「そう容易く倒れるわけにはいきませんからね」





 強気な台詞ではあるが、その顔色から彼の状態が手に取るように判る。





(右は完全に使えませんか…視界もぼやけて)





 その時、不意に後ろから何者かの囁きが彼の耳を打った。





「言ったはずだぜ。お前はごちゃごちゃと考え過ぎだってな!」





 弾かれるように前に視線を向けるが、その先には誰の姿もない。





「しまっ―――」





 振り向こうとしたその時、いきなり周囲の暗闇が濃くなる。





「片闇よ…全てを闇に呑み込め……」





 凍りついた吐息と共に、呪われた台詞が吐き出される。
 ニヒトが最後に見たのは、月の光を従えた、悲しい天使の姿だった。





「弱い!テメェに片闇は必要ない、貰っていく」





 男の声がニヒトの耳を打つ。





「くっ…遅れをとりましたか」





 片膝をつき、右腕からの出血を抑えるだけで精一杯。
 顔を上げることすらできないほどに疲労していた。
 信仰する神から受けた呪いによって死ぬことはできない身体だが、体力はまた別問題である。
 それでも可能な限り話さなければならない。お互いに残された時間は少ないから。





「聖神邪殿…あなたも気付いているはずだ。本来、闇とはそこに在るだけのもの。意思を持つ闇は歪んだ存在であるということを…」





 一気にそこまでを言いきった。
 すると、ニヒトは向こうの人物が笑ったような気配を感じた。





「関係ないさ、そんなことはな。俺には片闇が必要だった…それだけのことだ」





 何かが羽ばたく音。聖神邪の気配がふいに遠くなる。





「一つ良いことを教えてやる……azusaは生きてるぜ。今ごろはどっかの病院で治療を受けてるだろうよ」





 これは彼なりの贈り物なのだろうか?
 贈り物をありがたいと思いながら、ニヒトは最後の問いをぶつけた。





「あなたは…何故そこまでして戦うのですか?」





 大きな羽ばたき音の後、耳が痛くなるような静寂。
 彼の問いの答えは、返ってくることはなかった。










―――ワカッテイル…ワカッテイマス……あーしゅりあ…
   アナタガ戻ッテクルコトハナイ。私ガドンナニ恋焦ガレテモ…
   ケレド、彼ハ違ウ。彼ノ魂ハマダココニ在ル。身体モ在ル。
   何ヨリ純粋ニ帰リヲ待ツ人ガイル。
   モウ少シダケ待ッテイテクダサイネ…
   私ニモマダ、デキルコトガアルヨウデス――――――――




















 月が沈み、星の輝きも薄れ始めた頃、ようやく動けるようになった彼は家に向かって歩き始めた。
 まだ身体の節々が痛むのか、その足取りは頼りない。
 朝日が昇る。
 その眩しさに目を細めながらも、彼は少しずつ、けれど確実に前へと進んでいった。
 彼女が帰ってきたら秘蔵の紅茶を入れよう…お茶請けはどうしようか…
 そんなことを思いながら。




















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