まんまる会通信 第30号
(2003年7月発行)



歳 月 如 風
――沖縄再訪
陳 発昌

第一章 歳月如歌

世の中、大事なものって、失ってから分かるものだ。初恋の彼女のことを未だに、いやいまだからこそ、よく思い出す。付き合っている時以上に恋しく思う。僕は上京してから、沖縄が恋しくなった。南国の島――沖縄で過ごした日々がよく頭の中で蘇る。楽しかった時もあれば、淋しかった時もあり、また悲しかった時もあった。だが、いま振り返って見れば、そのすべてが懐かしい記憶となった。

 沖縄から離れたとき、沖縄には人生のうち、これからもあと何回か訪れる予感があった。予感というより運命かもしれない。最初、日本に留学しようと想った時、やっぱり東京に憧れていた。しかし、東京の学校を申請する場合、300万円の預金が必要で、僕は当時その3分の1もなかったため、東京に行くのを諦めた。そして、沖縄なら100万あればできると聞いて、友人達が工面してくれて、100万の貯金ができた。当時まだ沖縄についてまったく知らなかった。地図を見て、あ、あんなに小さいな島だ、っていうのが最初の印象だった。皮肉なことに、米軍兵士による少女暴行事件で沖縄は一躍有名になった。

申請資料を出してから2ヶ月経った時、1996年2月下旬、沖縄にある日本語学校から入学許可書をもらった。96年の旧正月を過ぎてから、いよいよ留学の手続きを始めた。思うようにうまく行かなかった。パスポートの申請でトラブルがあった。原因は日本への留学を誰にも明かさなかったことにあった。計画をやり遂げるまでその計画をだれにも言わない、これは僕の性格だ。いや、性格というより、わがままに見えたはずだった。そして、やっとパスポートを手に入れたところで、日本留学という秘密が両親に知られてしまった。別に隠すつもりはなかった。ビザをもらってから話すつもりだった。お母さんは反対しなかったが、賛成でもなかった!ただ、心配そうに僕を見つめていた。あの目つきを思い出すたびに、目頭が熱くなる。

96年5月、ビザを申請するため、北京に出向いた。ビザをもらったら、また実家に戻って両親に別れを告げるつもりだった。日本大使館に行って、書類を出した。一週間後再び大使館へ出向いた。願った通り、無事に日本行きのビザをもらった。ただ、パスポートの発行が滞ったため、日本への入国期限はあと1週間もなかった。5月16日にビザをもらったが、21日までに入国しないと、無効になると言われた。実家に帰る余裕がなかった。慌てて健康診断を終え、そして航空券を手配した。沖縄行きのチケットが欲しいと言ったら、係員はパソコンに向かって調べ始めた。しばらくして、「スペル分かりますか?」と彼女は聞いた。やはり沖縄の知名度は低いようだ。20日のチケットを購入した。

19日夜お母さんに別れの電話をした。お互いに言うべきことはなかった。その前既に、帰れないので直に日本に行くよ、とお母さんに連絡してあった。電話でのお母さんは平静だった。電話でお母さんと別れを告げるとは思いもよらなかった。が、結果的に、それは良かった!なぜかというと、その後の出来事でそれが良かったと証明された。それ以後4回ほど帰国したが、家族と離れるたびにお母さんが大変つらそうな目つきをしていたからだ。それを見ると、僕は堪えられなかった。孔子曰く:父母在り、遠く遊ぶべからず。まして外国に行くとは、不孝の極まりである。

5月の北京は既に春の季節であった。生まれてからはじめて飛行機に乗った。北京空港から離陸したとき、興奮しなかった。悲壮感もなかった。淡々とした気持ちだった。機窓から見下ろしながら、今後のことを考え込んだ。


第二章 歳月如風

乗り換えのため、福岡空港に降りた。まわりの人々の分からない言葉とテレビに映ったお相撲さんの姿がここは外国だと私に実感させた。那覇行きの飛行機への乗り換えは日本語が分からないため、中国人通訳と思われる人に助けてもらった。

寮に着いたときはもう夕方だった。急斜面に建てられたアパートの一室に荷物を入れた。靴を脱いでから上がるなどの注意事項を説明した後、勿論身振り手振りで、先生は帰った。3人部屋のようだが、ルームメートはまだ来ていない。言葉が通じないため、買い物が出来なくて、晩ご飯は食べなかった。別にお腹が減ったと感じなかったし。ひたすら窓から外をじっと見ていた。寂しさは多少あったが、新鮮さのほうが強かった。

次の日から学校に通い始めた。坂を登って、また降りて、そしてまた坂を登ったら学校に着いた。学校といっても、ビルの2階にある教室三つと事務室一つだけだった。持ってきたお金は学校に授業料を払うと、手元に残ったのは僅か10万円だった。2ヶ月が経つと、お金はもう底をついてしまった。そこで僕は片言の日本語でバイトを探し始めた。僕の日本語があまりにも下手すぎるため、結局すべて断られた。そして、学校の先輩の紹介で、ある食品工場で働くようになった。

仕事は単純な体力労働で、あまり日本語を使わないので、すぐ慣れた。休憩の時間に、日本人従業員達と片言の日本語で話してみたり、そして相手から日本語を教えてもらったりしているうちに、僕の日本語も上達してきた。皆優しく接してくれた。

二年目には学校の寮から引っ越さないといけないので、アパートを借りなければならない。アパートを借りるには保証人が必要だと告げられた。日本人はなかなか保証人になりたくないと聞いて、僕は大変不安になった。ところが、工場の課長さんが躊躇せず快く保証人になってくれたおかげで、無事アパートを借りることが出来た。

97年12月、日本に来てから初めて東京に行くこととなった。受験のためだった。そして98年3月、横浜にある大学から合格通知が届いた。地元のR大学にも受かったが、躊躇せず本島に行くことに決めた。工場の知り合いのおばさんと女の子達がお祝いのお金をくれた。「本島にいっても頑張ってね」というメッセージもあった。

沖縄が好きだ、沖縄の人も好きだ。けど、好きなところから、好きな人から離れるのは男の本懐だ!故郷から離れたときと同じ気持ちで、いや、それ以上かもしれない、僕は沖縄を後にした。


第三章 琉球再訪

沖縄での2年間はあまり忙しくて(勉強とアルバイト)、南国の島の美しい景色を見ることが出来なかった。上京してから、もう一度沖縄を訪れてみたい気持ちがますます強まってきた。特に一昨年、「ちゅらさん」(NHKの朝の連続テレビ小説)を見て、沖縄の美しい海と厚い人情にすっかり魅了され、そして感動した。目頭が熱くなった!

去年、留学生支援団体「まんまる会」の「夢を叶えますキャンペーン」に応募したら、運よく当選した。「まんまる会」に費用を負担していただき、僕は沖縄(11月4日―11月6日)に行くことができた。4年間抱いてきた夢をやっと実現できた。

世の中、自分が懐かしく思っていたものが必ずしも自分が欲しいものとは限らない。別れた初恋の彼女を恋しく思うが、彼女と結婚しようと思わない。このように思っている人は僕一人だけではないだろう。今度の旅はまさに初恋の彼女と再会したように思えた。

4日の朝一番の便だったため、3日の夜は寝なかった。そして翌朝3時半頃家を出た。6時に羽田に着いた。6時半に出発して10時前に那覇に到着した。今回空から見た沖縄島は6年前ほど綺麗ではなかった。客観的に美しさは同じかもしれないが、僕が感じたのは違う。

空港を出て、バスで昔のバイト先の工場へ移動した。町並みは依然変わっていない。けど、雰囲気は違う。建物も、街を歩いている人々も異様に素朴に見えた。見えたというより間違いなく単に僕が感じただけだ。6年前聞き取れなかった日本語は沖縄訛りだったのだ、と僕はいささか困惑した。

4年の東京での生活はいったい何を僕にもたらしたのだろう?窓外の風景を見ながら、僕は考え込んだ。

工場の近くのバス停で降りて、覚えた道順で工場へ向かった。ちょっとだけ迷ったが、すぐ工場のビルを見つけた。

工場に入ると、課長さんが入り口で待っていた。事務室の事務員は全員知らない顔だった。聞いてみたら、昔の二人は一人が産休、もう一人が結婚して、家庭主婦となっていた。ご主人は工場長だ。昔バイトしていた時、二人がデートしている噂が立ったのを思い出して、釈然とした。

しばらくして、工場長もみえた。東京から持ってきたお土産を出した。3人一緒にいろいろ話した。そして、課長の案内で工場内を回って見ることにした。2年近く汗を流した作業室に戻ると、気持ちは意外に平静だった。やはり雰囲気は変わったような気がする。昔より狭くなった感じだった。正午だったため、稼動していない。ここで作業しながら日本語の単語を一生懸命覚える日々を過ごしたのだ。

工場は昔より大きくなったが、働いている従業員は少なかった。電話では教えてくれなかったが、案内しながら、課長はある秘密を打ち明けた。本人は秘密と思わないかもしれないが。実は僕が知っている人達はもうすでに何年か前に辞めていた。それを聞いた瞬間、僕は今度の旅は間違いだと気付いた。なぜか、僕はその場から逃げ出したくなった。

課長さんは僕の変化に気付いてないようだ。実は彼も転勤で宮古島に移動した。その日、僕が来ると聞いて、わざわざ来てくれた。奥さ子ども達も向こうに引っ越した。夜に一杯飲もうかと彼に誘われたが、彼はその日に帰らないといけないので、あまり遅くなると飛行機がないから、僕は遠慮した。今度宮古島に行った時ゆっくり飲もうと約束した。

僕は宿泊先の沖縄青年会館に戻った。空しくなった。虚しくさせられることが続いた。

荷物を部屋に入れて、通っていた日本語学校へ行った。バスが通っていないため、歩いて行った。学校の入ったビルが見つかった。ただ看板は変わったらしい。暗くなったため、遠くから見づらい。近寄ると、学校は学校だが、日本語学校でなく、専門学校になっていた。事務室に聞いてみたら、あの日本語学校は学生が少なくなって、つい一年前閉校せざるを得なくなったらしい。それはダブルショックだ。もちろん先生達の連絡先も分からないと告げられた。

その夜、僕はホテルの部屋で那覇の夜景を見ながら、考え込んだ。最初は今度の再訪に悔しささえ覚えたが、だんだん悟るようになった。人間は過去を恋するのはいいが、過去の道をもう一度歩むのは愚かだ。たとえ過去の道が未だに存在しているとしても、その環境も変われば、それを歩む人間の心境も変わっているはずだ。だから、当初の感動を覚えるどころか、一種の虚しさを必ず味わうだろう。

そうだ、過去に未練を持つより、未来を切り開くべきだ。

後書き

今度の沖縄再訪は「まんまる会」の皆様の心温まるご支援がなければ実現できなかった。今度の体験と感想をエッセイに纏めるように試みた。愚鈍ながら僕は拙い日本語を駆使し、朝7時までひたすら書き続けた。

「まんまる会」への感謝の気持ちをすべてこの一冊の小冊子にこめて、皆さんに奉げたい所存である。貴会の更なるご発展とご活躍を祈ってやまない。

2003年元日 国立にて

陳 発昌 謹識


沖縄再訪



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