3rd イメージ・アクア
Recollect AQUA.
 その日、彼は滝に身を投じることを決心した。人の言う自殺だ。
 自殺するには何かの理由があろう。
 しかし、彼は今、その理由を忘れて、自殺の決心のままに、車を走らせている。
 彼の向かうは、不忍滝。
 そこは、昔から身投げの名所とされて、過去、そこに身を投じた者の数は、千を越えるといわれ、彼等の死体は一つも浮かんだことがなく、また流れたわけでもない。殊には、滝の足溜に棲む魔物に喰われてしまったとさへ言われる。
 彼がそこをどうやって知ったかは知らない。
 ただ、彼は、そこに死した者達の魂にひかれるがごとくに、近づくだけであった。
 不断は、誰一人、その滝に近付かないという。勿論、身投げの名所になぞ、気味悪くてきもだめしのタネにもなりはしない。
 そういうわけで、不忍滝と呼ばれるのだろうか。そして、そこに行くものは、過去の死者にひかれるが故、恐怖もなく、その滝に行き、そうして身を投げるのだとも言われる。
 彼の目は半分閉じて、人のねむそうなそれであるにもかかわらず、そして動くもそれなのに、瞳の奥からの視点ははっきりと見定められていた。
 彼は、もう人の心を失くしてしまっている。
 ただ、人形のように、そしてひかれるままに滝に行くのだ。
 ぼうと走っているうちに、滝に着いてしまった。
 そうして彼は車のドアを開けて、外に出た。
 外の空気は冷たかった。しかし、彼は身をふるわすことさへしなかった。彼の神経は、すでに死んだのごとく、とぎれているのか。
 一時、風が彼の中をぬけた。それを快く思ったのか、風の方へ向いて、ほほえんでみせた。
 彼はドアを開けたまま、崖の下まで歩いて行った。
 車の中で物音がする。
 クウン、と言った。おそらく、後部席で眠っていた、彼の飼い犬が、寒さで目覚めてしまったのだろう。
 彼は、犬が後で眠っていたなぞ、思ってもいなかっただろう。まだ気付きはしない。
 小犬は、首輪の鈴を鳴らして、車窓から見付けた主人の様子を見守っていた。
 そうして、主人の様子がおかしいことに気付いて、運転席へ転んで、外へ飛び出した。
 それから、一声、ワン、と言って主人の方へ走った。すぐにおいつく。
 主人は主人で、それにも気付かず、よろめきながらもひたすら、崖に向かう。
 犬は犬で、それでも主人を心配して、周りを駆け廻っては、ほえたてる。
 やっと主人が気付く。
 彼は、立ち止まってやさしくほほえみながら、かがんで、犬の頭をなでてやった。
 犬は、クウンと言って、前にすわると、主人がこれから何をするのか知らぬかのように、じゃれてみせた。
 彼はまばたきを一つするとゆっくりと立ち上がって、歩き出した。犬はおいかける。
 彼のその顔からすれば、ついてくる犬が、だまされるのも無理はない。
 犬は、だんだん主人の身になにか起こるような気がしてきて、主人の前に立つと、しきりにほえたてた。
 犬の心配をよそに、主人は一向正気にもどらない。正気、そう彼はすでに正気ではないのだ。ただ、目の前にある滝に身を投じるためだけに歩いている。
 今度は止まらぬ主人をみつめて、悪い予感を、もよおした。
 主人が自分をけちらすごとく、目の前を過ぎていく。
 ことに、やたら物をかむなと教え込まれた犬は、主人の足にかみつくことさへしない。
 きっとそれしか、方はあるまい。
 そうこうするうちに、崖を半ばまで登ってしまっている。
 犬は、必死にほえたてた。
 彼をとめる者はない。ただ犬だけが、主人の前に立ちはだかるだけで、それさへも、効きめはなく、耳のいたくなるような鳴き声も、彼の耳には聞こえていないらしい。
 首をふる度に鳴る首輪の鈴など聞こえはしない。はて、犬に鈴をつけるなど、めずらしいのではないだろうか。ふつう、猫に付けるのだろうが、彼はわが飼い犬に鈴を付けている。
 彼は、かみつくことだけではなく、静かに歩くことも、犬に教えつけていたのだ。はたして、それができたとしても、この非常にはさすがに鈴も鳴るであろう。
 そうして、ついに崖を登り切るというところまで、上がってきた。
 ついに、犬は、主人に飛びついた。
 そうして主人はつまずいたがじきにゆっくりと立ち上がった。
 また歩いた。そこは、崖の一番上、見晴らしのいい、滝の頭であった。
 犬が呼吸を整えている間、主人は滝の頭の先に立って、空をあおいだ。
 夏の日はすでに落ちて、暗い空を、さらに暗くする雨雲が流れて来て、今にも、雨が降りそうであった。
 そうして彼は祈るように言った。
 「ああ、滝の流れが、止まるなら」
 ついに犬は、主人を認めた。
 犬がかみつくが先か、彼の足は、宙に浮いていた。
 そして、かみついた瞬間、初めて、彼の頭に、今まで届かなかった滝の響きが、雄しく聞こえた。
 そうして、しばらく、彼は犬と、水面に限りなく加速していった。
 ついに、彼は水面に達し、水中に姿を消した。寸前、鈴の音が彼の脳に届いたことだろう。
 そうして彼は気を失いかけた。
 犬はかみついた口を一度狂ったように震えたかと思うと、主人の足からはなれていった。
 そして、二つの命は沈んで流れていく。
 彼は、動かぬ体が苦しさを感じているにもかかわらず、心は静かであった。そうして、じきに苦しさも感じなくなった。
 「・・・!・・・」
 不思議にも水の中で、彼の耳に鈴の音が響く。そしてそれは、底へと小さくなっていった。いや、それとも、そばにあったのだろうか。

 彼が再び目を覚ましたのは、かなり下流でそして、片手に犬の首輪をにぎりしめて、朝日で輝く、雫の頃であった。