愛のかけ橋

神はそのひとり子を賜ったほどに、世を愛された
それは御子を信じる者が、ひとりとし

て滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 

今まで私たちはすばらしい聖句から、まず神について、それからこの世について考えてきました。私たちはこの二つの間にどうしても越えることのできない大きな谷があるように感じるのです。きよい神と汚れたこの世、恵みの神と苦しいこの世、愛の神と孤独なこの世、いったいどこにこの二つを結びけるものがあるのでしょうか。しかし私たちの聖句を読んでいる時に、私たちはこの二つの間を結び合わせていることばがあるのに気がつくのです。「神は……この世を愛された。」そうです。愛がこの二つを結びつけているというのです。愛のかけ橋がこの世と神の間に、私たちと神の間に、あなたと神の間にかけられているのです。神はあなたを愛していて下さるのです。

 しかし、あなたは言われるかもしれません。私はそんなことは信じられない、神が愛しておられるということなど世迷いごととしか考えられないと。確かに私たちは、この問題について、特に二つの点で深刻な疑問をもたないわけにはいかないかもしれません。それはまず第一に、神はいったいどんなふうにこの世を、そして私を、またあなたを愛しておられるのかという疑問です。そしてもう一つはなぜ愛されるのかという疑問です。

 神はどんなふうにこの世を愛していられるのでしょう。第一、ほんとうに愛しておられるのでしょうか。多くの人はその絶望の中で、「この世に神も仏もないものか」と叫んでいます。確かにこの世はバラ色の愛情に満ちたところではありません。ですが私たちは、どんなに苦しみが多いとは言え、しかしその苦しみよりももっと恵みが、悲しみよりももっと祝福が多いということに気がつかなくてはならないのではないでしょうか。私たちは1年に数日あるかなしのあらしの日に不平を言います。大声で叫びます。しかし、あとの360日の穏かな日々のために感謝することは忘れてしまっているのではないでしょうか。病気の時、私たちは神の愛を疑います。しかし、ある医者は、毎日毎日私たちが健康であるということのほうが、ずっと不思議で驚くべきことだと言っています。私たちは体温が一度高くなると大騒ぎします。しかしそのとき、ふだんは私たちの血液の温度が千分の一度変化すると、すぐに働き出す温度調節装置を、私たちのからだの中に神が備えておいて下さるために、私たちの体温がいつも平熱であるというすばらしい事実については考えてもみないのです。私たちの不幸は、私たちの与えられているこういうすばらしい恵み、すばらしい愛の賜物を見ようとしないで、ただ不平と不満をもち続けていることにあるのではないでしょうか。私たちが気がつこうとさえするなら、私たちの回りには神の愛を示す多くの証拠が満ちています。緑の木陰の涼しい風、朝夕のすばらしい空、満天の星の輝き、そして両親の愛、生きていることをすばらしいと感じさせるそういった多くの経験。

しかし、それにしてもこの世は苦しすぎる。そうおっしゃるかもしれません。確かにそうです。ですがそれは、神の愛の足りないことの結果でしょうか。あるいは私たち人間の責任でしょうか。大きな災害が起こった時、いつでもそれは天災ではなく人災なのだと論じられます。確かに利潤だけを追い求めている人間が、自然界のバランスをくずしてしまったために、神の与えて下さった祝福の世界は荒れ果てて行きつつあるのです。人間の手によって原始林が乱伐されたために、何万ヘクタールという土地が毎年砂漠に変わってしまっています。地下水を無制限にくみ上げた結果、大都市は時には年々何十センチも沈下しているのです。神は私たちにすばらしい科学を築き上げる理性を与えられました。しかし私たちはそれによって原爆を作り上げました。技術の進歩は自然破壊をもたらしました。そしてそれは神の責任なのでしょうか。神は私たちの心に、愛し、そして愛されたいという願いを与えられました。それによって私たちは、人間どうし、そしてあるいはもっとすばらしいことに神との交わりを楽しむことができるはずでした。しかし、私たちはその心でねたみ、憎み、傷つけ合っているのです。神は私たちに人格をお与えになりました。それは、他の被造物のもっていない自意識と、そして自由意志を与えられたということです。私たち人間は、他の生物のようにただ本能だけに縛られていないで、自由意志で自ら正しい道を選んで歩むことができるようにと造られたのです。しかし、その自由は自分かってに悪いことをするために用いられているのです。私たちの苦しみは、神が愛しておられないからでしょうか、あるいは私たちがその恵みをほんとうに生かして用いていないためでしょうか。

私はある動物学者のこんな実験について読んだことがあります。彼はたくさんの犬をつのグループに分けました。一方のグループは大きなおりの中にいっしょに入れ、もう一方のグループは小さいおりに1匹ずつ入れたのです。そしてその他の条件はすべて同じになるようにして、このつのグループの状態を観察しました。しばらくしてこのつのグループにはっきりとした差があるのがわかってきました。大きなおりのグループのほうが、病気になったり、弱ったり、死んだりする数がずっと多いのです。そしてその原因はすぐわかりました。多くの競争相手といっしょに住んでいる犬たちは、いつでも争い、ねたみ、憎み、そしていらいらして病気になり、死んでいったのです。そしてこれは、人間についても同じではないでしょうか。私たちの苦しみは、外側の恵みが不足しているからというよりは、むしろ私たちの内側に愛が不足しているためではないでしょうか。

 ですがある人はこう言います。確かに私の不幸は人間の罪の結果です。あの人の罪、この人の罪、また政治家の罪、資本家の罪です。私はそういう罪の被害者です。私は人の罪のためにこんなに苦しまねばならないのです、と。ある人が自分の家の中にはいつでも争いが絶えないのに、隣では波風一つ立たず、いつでも笑いが満ちていることを、たいへん不思議に思いました。隣も自分のところ同様大家族なのに、とても仲がよいのです。それで出かけて行ってそういう一家和合の秘訣を教えてもらおうとしました。すると隣の人は、「あなたの家はみな善人ばかりですから、いろいろと問題があるのでしょうね。私の家の者はみんな悪人ですからけんかが起こらないのですよ」と言うのです。どうもよくわからない話です。それでもう一度尋ねてみました。するとこんな答えがかえって来ました。「たとえばあなたの家でだれかがたたみの上に置いてあったやかんにつまずいたとしますね。そうするとつまずいた人は、『だれだ、こんなところにやかんを置いたのは』とどなるでしょう。そうすると、『何を言ってるのよ、いったいあなたの目はどこについているの』ということになるのではありませんか。みんなよい人ばかりです。それで争いが絶えない。ところが私の家では、つまずいた人が『あっ、しまった。どうもぼんやり歩いていてとんだことをしてしまって』と言うと、やかんをそこへ置いた人は、ぞうきんを持ってきて、『いいえ、私がそんなところにやかんを置いたから悪かったんです。すみません。』家ではこういうふうにみんなが悪人です。ですからけんかがないのでしょう。」どうでしょうか。私たちの不幸はただ他人のせい、社会のせい、政治のせいだけでしょうか。私たちの苦しみの原因を神に押しつけようとしたり、他人の責任にばかりするのは間違っていないでしょうか。

 また、神がこの世を愛しておられるなら、神が私たちの喜ぶことばかりして下さるはずだと考えるのは正しいでしょうか。人間にとってこの世の苦しみは、決して無益な、そして有害なものだけではありません。ある地理学者は、人類の文明が起こり、そして栄えた地方というのは、みな刺激的な環境だということを発見しました。洪水の多いナイル河、黄河の流域、またメソポタミア地方、モンスーンの吹き荒れるインド、ハリケーン・たつ巻・洪水・地震と次々と天災に見舞われるアメリカ、また同じような苦しみを味わわされるヨーロッパ、そして天災国日本。なんの苦しみもないような楽園に、かつて文明がその美しい花を咲かせたことがないのです。私たちにしても、このように台風、洪水、地震、干ばつといつもいつも痛めつけられて、その中から立ち上がる力をいやおうなしに身につけさせられていなかったとしたら、あの敗戦の中からの奇跡的な復興をなしとげることが果たしてできたでしょうか。人間はどうしても苦しみによって鍛えられる必要があるのです。

 また人は、その苦しみによって神のみもとに追いやられます。そしてそれはまた、神の恵みなのです。私はあるハンセン病療養所の機関紙にこんな文章が出ていたことを思い出します。

「『私はハンセン病になってよかった。』こんなことばを聞くと何かいやな気持ちになる。偽善のにおい、やせがまんのかおりがぷんぷんするからだ。しかし、私がキリスト者になったということだけに限って言うなら、私はハンセン病になってよかったとほんとうに心の底から思う。なぜなら私はハンセン病になって初めて神を知ることができたからだ。」聖書の中にこういう詩があります。「主よ。あなたは、みことばのとおりに、あなたのしもべに良くしてくださいました。……苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。あなたはいつくしみ深くあられ、いつくしみを施されます。……苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」(詩篇119・65、67、68、71)。そしてこれはまた、多くのクリスチャンの体験なのです。

私の長男が歳だった時、真夜中に泣きだしてどうしても泣きやまなくなってしまったことがあります。いくら言っても聞かせてもだめなのです。とうとう私は、泣きやまないなら暗い物置の中に入れてしまうと宣言しました。こうすれば泣きやむと思ったのです。しかしだめでした。とうとう物置に連れて行かなければならないはめになってしまいました。私は玄関にかかっている私がバイクに乗るとき着る厚いジャンパーを取り、寒くないようにしっかりと子供を包んで物置へ行ったのです。そしてそうしながら、私たちに対する神の愛について考えさせられたのです。子供は私にしかられている、苦しめられている、そうばかり考えて泣いています。しかし、親である私は子供に正しいしつけをしたいとだけ願っているのです。しかもお仕置をしながらも、子供にかぜをひかせないように心を使っているのです。私たち人間は苦しんでいる時、その自分の苦しみだけに心を奪われています。しかし、もし真実を見通す目がありさえするならば、その苦しみ、その神から与えられた試練の中にさえ神の愛を見いだすことができるのではないでしょうか。

 神の愛は、また人々の愛の中にも示されます。その実例の幾つかを私たちは第一章で見てまいりました。私が神に感謝したいと思う最大のことの一つは、私が私を愛してくれる父母を、兄弟を、妻を、子供たちを、そしてまた友人を与えられているということです。私たちがこんなにまで愛したいと願い、愛されたいと望んでいるそのことこそ、私たちを造って下さった神が、愛なるおかたであるという大きな証拠だと私は思います。「愛は神から出ているのです。……なぜなら神は愛だからです」(Iヨハネ4・7、8)と聖書は教えているのです。

このように神の愛は、私たちに与えて下さった数々の自然の恵み――それが私たちの罪のためにゆがめられてしまっているということははなはだ残念ですが――そういう祝福の中や、また私たちがそのときはどうしても喜ばしいとは思えないような試練の中に、また人間どうしの愛の中に示されていますが、しかし、もっとよく神の愛を私たちに知らせるのは聖書です。そこにはすばらしい愛のことばが満ちています。ことばばかりでなく、愛の行いの記録が満ちています。イエスのことばの一つ一つ、その行いの一つ一つが神の愛の表現なのです。読んで下さい。そしてあなた自身がそれを確かめていただきたいのです。もちろん、私はその幾つかの例を第1章であげておきました。しかし、それ以上のすばらしいことばを、記録を、あなたは聖書の中でたくさん見ることができるのです。

しかし、それ以上に、私たちが神の愛に打たれるのは十字架においてです。神の愛の手紙である聖書も、実はこのイエス・キリストの十字架を私たちに伝えるためのものなのです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」「そのひとり子をお与えになったほどに」これ以上の愛が考えられるでしょうか。愛というものを測る尺度はなんでしょうか。私は、愛は愛するもののために払う犠牲の大きさによって測られると思います。そして「ひとり子」以上に大きな犠牲は考えられないのです。中国での話です。拳匪(世界史の中ではボクサーと呼ばれることが多い。アジアの空手のような、武道を武器として、西欧人を排除しようとした、民衆蜂起である。)と呼ばれる暴徒が、あちらこちらで反乱を起こして、外国人と見ればだれかれの見境もなく殺していました。そしてある町の宣教師館も暴徒たちによって囲まれてしまったのです。宣教師の夫妻は一室に集まって祈っていました。彼らは「もし必要ならば喜んで死にます」と祈りました。しかし、彼らの目はしばしな彼らのかたわらにあるゆりかごのほうに向けられていました。そのとき、窓をたたく音が聞こえました。急いで窓のところへ行った宣教師に、駆けつけて来た中国人のクリスチャンがせきこみながら言いました。「先生、赤ちゃんを渡して下さい。必ず上海のミッションセンターにお連れしますから。」宣教師はそれ以上何も聞きませんでした。彼はゆりかごのところへ駆け寄りました。そして赤んぼうを抱き上げると、それを中国人の腕に押しつけました。そして言ったのです。「急いで下さい。ここは危険です。」急いでそこをのがれて行く人の耳に宣教師の祈りが聞こえました。「神さま、感謝いたします。私はいま死のうとしています。しかし、私のかわいいひとりっ子が助かると思うとうれしさで胸がいっぱいです。そして主よ、あなたはこの私のためにひとり子を与えて下さった。ひとり子を死なせて下さった。私はあなたの愛がどれほど大きいものか、それが今わかりました。」そうです、聖書はこう告げているのです。「神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し……御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(Iヨハネ4・8−10)。確かにこれ以上の愛を私たちは知らないです。

 しかし、またあなたはおっしゃるかもしれません。それならなぜ神はそんなにまで私たちを愛して下さったのかと。それが私たちの第二の質問でした。その質問に答えるために、私たちはまず自分たちがだれかを愛するその理由というものを考えてみましょう。

第一に私たちは価値のある人を愛します。「妻をめとらば、才たけて、顔(みめ)うるわしく、情ある、友を選ばば、詩を読んで、侠気、四分の熱。」(土井晩翠)妻にするには、才能がひいでて、美しく、人情の細やかな女性を、友として愛するのは、学問を好み、おとこ気がある熱血漢だと言うのです。この反対の人を、私たちはわざわざ愛したいとは思いません。ですが、私たちは価値がある者なので、神に愛されていると思えるでしょうか。美しいものを神が愛されるとするなら、人間よりむしろ一輪の野のゆりのほうを、また一羽の蜂鳥のほうを愛したもうのが当然ではないでしょうか。しかし、まだ、外側の美しさはよいとしても、私たちの心中を見られる神にとって、私たちは美しいものなのでしょうか。

 私は昔は、よく新聞の切り抜きをしました。説教などの例話にするためです。私はいろいろと忙しいものですから、私が色鉛筆でマークしておいたところを妻が切り抜いてくれました。ある日、妻がこう言い出しました。「あなたはどうしてこういういやな記事ばかり集めるんですか。これは殺人、さっきのは汚職で、次に切り抜くのは強盗ですよ。私はこんな記事を読むのがきらいで社会面は読まないことにしているのに、こんなのばかり切り抜かされてはたまらないわ。」それで私も言いました。「だってそういう話も説教のために必要なんだよ、人間の罪について話すときはね。」ところが妻の答えはこうでした。「それなら、何も切り抜きを作る必要なんかないと思うわ。説教する前にどの新聞でも開いてみれば、きっとそんな記事は出てますもの。」そうです、確かにそれほどこの世の中は汚れているのです。神はこういう汚れた世を愛する価値があると考えておられるのでしょうか。しかも汚れているのはこの世だけでしょうか。

 私の知っているある婦人は、新聞に殺人事件の記事が、特に犯人が婦人である事件の記事が出ていると、恐ろしくてそれを読み続けることができないと言いました。その婦人はあるとき、血のつながっている姪に、どろぼうの疑いをかけられたことがあったのです。そのときの怒り、そのときの憎しみ、もしあのとき、手に出刃ぼうちょうがあったら、もし自分に人を絞め殺す力があったら、ちょうどこの人のように人を殺してしまっていただろう、そう思うと恐ろしくなって新聞を読むことができなくなってしまうというのです。あなたはいかがでしょうか。私だけはだいじょうぶだと言いきれるでしょうか。ある人は、「わが心鏡にうつるものならばさこそ醜き姿なるらめ」と歌いました。もし私たちの心の中に浮かぶ思い、考え、想像、感情その一つ一つが人の前にはっきり見られているとしたら、私たちは一歩でも家の外へ踏み出す勇気があるでしょうか。しかし、あるいはあなたは、私たち人間は確かに美しくない。いや汚れていると認めてもいい。しかし、私たちは万物に霊長としての能力がる、すばらしい理性がある、こう言われるかもしれません。確かに私たちは宇宙に人工衛星を打ち上げる能力をもっています。確かに私たちは人工頭脳とさえ呼ばれるほどの電子計算機(勿論、コンピュータです。)を作り出すほどの知識をもっています。しかし、私たちのロケットの到達した距離と、この無限に広がっている宇宙空間を比べる時、私たちは天地を造られた神に愛されるに十分なほどの力をもっていると言いきれるでしょうか。また技術は進歩しても、ほんとうに人間のように推論し、新しいことを考え出すコンピューターはまだ作れないのだという事実を考えてみるなら、私たちを造って下さった神が私たちの知恵のゆえに特別に私たちを愛して下さっておられるのだとうぬぼれることができるでしょうか。

 しかし、神のひとり子イエス・キリストがこの地上におられた時のことです。エリコという町の城外の道ばたに、ひとりの盲人がいつもすわっていました。彼はだれからも相手にされない、哀れな、みじめなこじきでした。彼はあるとき、イエスというおかたのうわさを耳にしました。愛の人で、力ある不思議なわざを数々なさっておられるとも聞きました。彼は一度でいいからお会いしたいと思いました。自分の耳でそのお声をお聞きしたいと考えていました。ところが今イエスがおいでになるというのです。人々の騒ぎが聞こえます。彼は立ち上がりました。そして人々が集まっているらしい方向に向かって大声をあげはじめました。「イエスさま私を助けて下さい。救い主よ。」人々は止めました。「だまりなさい。おまえのような無価値の者に耳をおかしになるイエスさまではないわい。」しかし、彼は叫び続けたのです。とうとうイエスが足を止められました。人々はあわてました。こんなこじきがイエスのおじゃまをしたのは許されないことだと思いました。ところがイエスは静かに言われました。「あの男を連れて来なさい。」そして足もとに走り寄った盲人を助け起こしながら、優しく言われたのです。「私に何をしてほしいとおまえは言うのかね。」神は人が相手にしないような無価値な者を愛されたのです。

 エリコの町にもうひとりの人がいました。この人は金持ちでした。地位もありました。権力も握っていました。したいと思うことはなんでもできました。あの盲人と何もかも違っていました。しかし、ただ一つだけ同じ点がありました。それは、彼も人に相手にされないということでした。なぜなら彼は悪人でした。情け知らずで自分の権力にものを言わせて人々から絞り取っていたのです。ですから人々は、彼を蛇のようにきらい抜きました。この男、ザアカイも、イエスのことを聞きました。彼のこのイエスを一目でよいから見たいと思ったのです。彼は町の辻に出かけて行きました。通りはイエスにお会いしたいという人たちでいっぱいでした。ザアカイはせいが低かったので人ごみのうしろからイエスを見ることはできませんでした。そしてきらわれ者のザアカイを前に出してやろうという人はひとりもいなかったのです。そこで悪がしいこいザアカイは先回りをしました。そして道ばたに立っている大きないちじく桑の上に登ったのです。彼はそこで高見の見物をきめこもうとしたのです。イエスはしだいに近づいて来られました。そしてザアカイの登っている木の下に立ち止まると、上を見上げられました。人々は今度こそイエスはこの男の無礼をとがめられると思いました。期待しました。確かに彼は、そうされてもいいような悪人だったのです。しかし、イエスの口から出た優しいことばはこうでした。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」(ルカ19・5)。あなたの家に泊まる――それはあなたの友に、あなたの味方になろうということです。だれもことばもかけたくないほど腐れきっているザアカイの友になろうというのです。神はただ価値がないばかりか、汚れはてた人間を愛して下さるのです。なぜでしょう。

しかし、私たちも価値のない人を愛することもあるでしょう。少々だらしない、くだらない男だけれども、私の言うことだけはよく聞いてなんでもやってくれる、また、盆暮れのあいさつは欠かしたことがない、そんな役にたったり、つきあっていて得をするような人を愛するのです。それなら人間も神の役にたつから愛されるのでしょうか。私たちはそう考えがちです。神の「役にたつ」者となれば、神に愛されると思うのです。ですから、八幡さまのおさい銭箱に十円銅貨を1枚ほうり込んで、「国家安穏、五穀豊じょう、天下安泰、家内安全、商売繁盛……」と、一つ当たり一,二円にしてはずいぶん欲ばった祈りをあげるのです。もちろん、もっとまじめな人たちもいます。難行苦行をしたり、断食をしたり、祈り、ささげ、奉仕するのです。教会に行き、儀式にあずかり、伝道さえ熱心にするのです。

 しかし、私はこういうことを考える時、以前東京で起こった一つの事件を思い出さないではいられません。ひとりの外国人の婦人が、ある日行きつけのレストランに行きました。そこはおいしいものを食べさせるので彼女のお気に入りの店でした。注文した食事ができるのを待っていると、なんだか調理場のほうが騒がしくなりました。好奇心を起こして彼女がのぞいてみますと、ひとりのコックがまるまるとふとった猫を手にぶらさげています。どうもいつもこの調理場で盗み食いをしているのら猫らしい。きょう、とうとうつかまえて、これをどうしてやろうかと、コックやウエーター、ウエートレスたちが集まってがやがややっているのでした。ところがそのコックは、いきなり自分のうしろの料理用のレンジのたき口をあけると、その中に猫をぽんとほうり込んでしまったのです。火がかっかと燃えているかまどの中へです。ギャッという断末魔の叫び、そしてしばらくして死体の焼けるにおいが食堂のほうまで漂ってきました。婦人は立ち上がりました。おいしそうな料理がちょうどでてきたところでした。しかし、猫の死体の焼けるにおいのいっぱいな所で、どんなごちそうでもどうして食べることができるでしょうか。

 私は思うのです。私たちは神に向かって同じようなことをしているのではないかと。神は私たちの祈りを聞いて言われないでしょうか。「あなたの祈りにはうそのにおいがする。偽りを言う口から出る祈りを私は聞きたくない。」あるいは神は、私たちの献金を退けられながら言われるかもしれません。「罪に汚れた手でするささげものは私はほしくないのだ。」私たちの心が神を悲しませる悪や汚れで満ちていて、私たちの奉仕が神を喜ばせることができるとあなたは思われますか。自己中心のご利益だけを求める心だけでするどんな難行苦行も、神の前には汚れたいやらしいにおいのするごちそうでしかないのです。私たちは神に仕えているのでしょうか。または神を悲しませているのでしょうか。

ですが、聖書を開いてみましょう。イエスが十字架におつきになる前の晩のことでした(参照 ヨハネ13章)。イエスは弟子たちといっしょに最後の晩さんをなさいました。そのときイエスは、弟子たちと水入らずの一夜を過ごしたいと思っておられました。十字架につかれる前に話しておきたいことがたくさんありました。その席には、当時の習慣に従って食事の前に皆の足を洗ってくれる下男がいなかったのです。水入らずですから当然ですが。十二人の弟子(使徒と呼ばれる人たちでしたが)たちはむっとした顔をしてすわっていました。実は弟子たちはこのすぐ前に、だれか弟子たちの中でいちばん偉いかということで言い合ったのです。ですから皆の心の中は、ねたみと憎しみと怒りとでいっぱいでした。彼らはそれぞれ、だれがあいつの足など洗ってやるものかと思っていました。あいつこそ私の足を洗うべきだ、そう考えていました。そこには神の子イエスがおられたのです。彼こそ弟子たちのお仕えすべき神でした。しかし、彼らはだれひとりとしてイエスの足もとにひざまずいてその御足を洗おうとしませんでした。憎しみに満ちた心で神に仕えることなどできなかったのです。ところがイエスは黙って立ち上がられました。そしてへやのすみに置いてあるたらいのところへ行かれたのです。上着を脱がれ、そこにある手ぬぐいを腰に巻かれると、そのたらいを持って弟子たちのところへ戻られました。そして、弟子たちの足を、罪に汚れた心のゆえに神に仕えることもできない弟子たちの足を洗いはじめられたのです。神は役にたたないもの、仕えることのできない人間をお愛しになったのです。なぜなのでしょうか。

 もちろん、私たちもなんの価値もない、役にもたたないものを愛することがあります。それは相手が自分を愛してくれるからです。私たちが何かを愛する時、たぶんこの相手の愛にひかれてという場合がいちばん多いかもしれません。しかし、神は私たちが神を愛したから私たちを愛して下さるのでしょうか。私たちは神を愛しているのでしょうか。苦しい時の神だのみ、自分にご利益を与えて下さると考えて神に祈っているかもしれません。しかし神を愛しているでしょうか。神の刑罰が恐ろしいからそれで礼拝をし、お勤めをしているかもしれません。しかし、神を愛しているでしょうか。また、ほんとうの神を愛しているでしょうか。私たちが信じ、礼拝し、祈っているのは、私たちの手で作った偶像や、自然物や、また死んだ人ではないでしょうか。真の神、私たちを造って下さり、私たちを愛して下さり、私たちを救って下さる神を捨てて、他のものを神として信じ、礼拝し、祈るということは神に対する恐ろしい反逆ではないでしょうか。

さらにもう一つのことがあります。聖書にこうしるしてあるのです。「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません」(Iヨハネ4・20)。これが神のことばなのです。人を愛することができないでいて、私は神を愛しているなどと大きな口をきくわけにはいかないのです。神がご自分のかたちにかたどって造って下さった人間を愛することができずに、神が愛しておられる友人を愛することができずに、神を愛しているとは言えないのです。そして私たちのできないことは、まさにこの人を愛するということです。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中だったと思いますが、ひとりの貴婦人が教会の長老のところへ来て、こんなことを言うところがあります。「長老さま、私は全世界のハンセン病の人の足もとにひざまずいて、ひとりひとりの傷口に口づけしてやりたいほどの愛が心に満ちていると思います。しかし、夜、私が眠ろうとしているのに、隣のへやで泣き続けている赤んぼうがいると、私はその赤んぼうを絞め殺してやりたいと思うのです。私の愛というのはいったいなんなのでしょうか。」私たちはどうでしょうか。私たちは人を愛しているでしょうか。もし愛していないとしたら神を愛しているとは言えないのです。

 しかし、私たちは聖書の中で見るのです、イエスが十字架の上で祈っておられるのを。彼は苦しみの中で、ほんとうに地獄の苦しみの中で祈られたのです。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23・24)。だれのために祈られたのですか。彼をののしり、はずかしめ、十字架につけ、さらにあざけりを続け、彼の着物をくじ引きで分け合うような人たちのためでした。イエスはかつて、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5・44)と言われましたが、今そのおことばのとおり、敵のために、仇のために祈られるのです。神は、神を愛さないどころか、神に反抗し、神の子を十字架につけようとする人間を愛されたのです。これはいったいどういうわけなのでしょうか。私たちは価値もない、私たちは役にもたたない、私たちは愛しもしないのです。しかもなお神は、私たちを愛して下さるというのです。なぜなのでしょうか。それが知りたいのです。

 リンカーン大統領がまだ貧乏な弁護士だった時代のことです。ある日彼はいなか道を車を走らせていました。彼は友人の結婚式から帰るところでした。いっちょうらの服を着て、彼はじょうきげんでした。ところがある川のそばに来て彼は馬車を止めました。それは川と言うよりどぶと言ったほうがよいようなありさまでした。それはじめじめした土地で、底がないようなどろの上を少しばかりの水が流れていました。しかし、リンカーンの注意をひいたのはそのどぶ川ではありませんでした。その中に落ち込んでいた子豚でした。この近くで遊んでいるうちにその沼のような川の中にはいり込んでしまったのでしょう。子豚はもがけばもがくほどますます深みにはまってしまい、もうほとんど首のところまでどろの中に埋まってキイキイと悲鳴をあげていました。リンカーンはそれを見ました。しかし、川はかなり幅が広く、そしてどろは深そうに見えました。リンカーンはあきらめました。そして馬にむちをあててまた馬車を進めはじめました。しかし、どうしても気になるのです。子豚の悲鳴が耳についてはなれません。彼は再び馬車を止めました。子豚のところへ戻ってみました。まだ生きています。もうリンカーンは考えたりはしませんでした。彼は上着をかなぐり捨てると、どぶ川の中に飛び込みました。どっぷりと腰まではいり込んでしまうような深いどろでした。彼はそのどろをかきわけながら子豚のところにたどりつき、子豚を胸に抱き上げました。青年弁護士が上から下までどろだらけになったのはもちろんでした。しかし、そんなみじめなありさまで帰途につくリンカーンの顔ははればれとしていました。

 リンカーンは子豚を愛して子豚を救いました。それはなぜでしたでしょうか。子豚に価値があったからでしょうか。子豚がリンカーンの役にたったのでしょうか。リンカーンを愛したからでしょうか。いいえ、そんなことはありませんでした。しかし、リンカーンは助けたのです。なぜでしょう。理由はただ一つでした。リンカーンの心の中にある考えはただ一つだったのです。私が助けなければ子豚は死んでしまう、これだけでした。

みなさん、私は今申し上げたいのです、神が私たちを愛して下さるのも、まさにそれと同じ理由だということを。神が愛して下さらなければ私たちは滅んでしまう存在なのです。私たちは今までこの世の苦しみ、悲しみ、悩みについて考えてきました。私たちはどぶ川の中に落ち込んでしまった子豚のように苦しんでいるのです、もがいているのです。そしてもがけばもがくほどますます深みにはまっていくのです。罪のどろ沼はそれほど深く、それほど恐ろしいのです。私たちは首までどっぷりと罪の中につかってしまったのです。神は私たちのありさまをごらんになりました。神は私たちの苦しい悲鳴をお聞きになりました。そして神が愛して救って下さらなければ、人間はその苦しみの中で死ななければならないこと、滅びなければならないことをお知りになったのです。そしてそのとき神はそのどぶ川の中に飛び込まれたのです、神の栄光をかなぐり捨てて。それはリンカーンが上着を脱ぎ捨てるだけでよかったのに比べて、なんという驚くべき犠牲だったでしょうか。聖書はこう言っています。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです」(ピリピ2・6−8)。神の子が罪の中へ、しかもその最も低いところまで下って来て下さったのです。彼は人間のあらゆる苦しみをなめられました。それは私たちをその苦しみの中から救い出すためでした。彼は私たちのすべての罪をその身に負いなさいました。べっとりとまっ黒い人間の汚れ、不義、罪、とが、そのすべてが彼の聖なる衣を汚しました。そしてその罪のゆえに彼は十字架の上で死なれたのです。私たちの身代わりとして、私たちを罪の中から救い出すために。こうして神と私たちの間のへだては取り除かれました。神と私たちの間に十字架によって愛のかけ橋がかけられたのです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」神はそのひとり子をお与えになったほどに、私を、そしてあなたを、愛して下さったのです。あなたは今、どうさないますか。神があなたにかけておられる愛の叫び声を聞かれますか。そして私たちが神の愛を受けなければ滅んでしまうよりほかにない罪人だからこそ、神が私たちを愛して下さるのだということをお認めになりますか。そしてこの十字架の愛のかけ橋を通って神の愛の御手の中に戻って行くのでしょうか。