6 信仰の水差し
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、
世を愛された。それはが、ひとりとし
て滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
アレクサンダー・マクラレンという有名な説教者だったと思いますが、この聖句を説明してこんなことを言っています。「神の愛、それはちょうど山の上の湖のようなものだ。いつも満々と水がたたえられていて、どんなに日照りが続いても枯れるということがない。わき出てくる泉がいつでも湖の水をあふれるほどいっぱいにしている。しかし、その湖にどんなに透き通った冷たい水がたくさんあったところで、それだけでは、暑さに苦しみ、干ばつに悩んで、必死になって水を求めている山の下の人にとってはなんの足しにもならない。湖はあまり高い所にあり、人々のところからあまり遠く離れているからだ。神とこの世とはあまりにもかけ離れている。そして私たちは神の豊かな愛を受けるには、神があまりにもきよく、また私たちがあまりにも汚れていることを感じるのだ。しかし、この高く離れた神の愛のを、私たちのところまで流れ下らせる川がある。それはイエス・キリストだ。彼は天の高みから私たちのところまで下って来て下さった。そして私たちはこのかたによって神の愛を知ることができる。
『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、この世を愛された。』しかし、神の愛の水を私たちのもとにもたらす川があるだけではまだ十分ではない。私たちはこの水をくみ上げて飲まなくてはならない。そうしなければ、私たちのからからにかわいているのどは、いのちの水によって潤されることができないのだ。そしてこの水をくみあげるための水差し、それが信仰だ。『それは御子を者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』」
私たちは神の愛について、またその神の愛から離れて愛といのちの干ばつに苦しんでいる私たちの悩みについて考えてきました。この章において私たちはマクラレンの言う水差しについて、すなわち信仰について考えてみたいと思います。
「ただ信じなさい。ただ信じさせすればいいんですよ。」これはどこの教会に行っても聞かれることばだと思います。ピリピという町の獄吏が、伝道者パウロとシラスの前にひれ伏して叫びました。「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」(使徒16・30)。確かにこれが私たち人間の質問です。救われるために何をよいでしょうか。しかし、神によるふたりの答えは全く違ったものでした。「主イエスを。そうすれば、あなたも……救われます」(使徒16・31)。神はと言われるのです。
しかし、私たちはどうもよくわからないと思います。第一そんな信じれば救われるといいうのはあまり安っぽすぎると思います。ただより安いものはない。これが私たちの考えです。しかしそうでしょうか。夜のことでした。小さな子供たちはもう2階で寝てしまって、私は家内とふたりで階下の居間でそれぞれ自分の仕事をしていた時でした。ぐらぐたとちょっとした地震がありました。初めはたいしたことはないと思ったのですが、なんだかだんだん大きくなるようです。私は立ち上がりました。そして2階に上がる階段のほうに1、2歩、歩き出しました。しかし、そのときはもう地震はやんでしまっていました。私がそのとき考えていたのは、ただ2階に眠っている子供のたちのことだけでした。いろいろの高価なものでなく、ただで、ただで神から与えられた子供たち、それが私にとっていちばんたいせつなものだったのです。あなたにとってもそうではないでしょうか。あなたのほんとうにたいせつなもの、あなたの生命、あなたの家族、あなたの愛、そしてまたあなたへの愛、それは金では買えないものです。金で買えないから、ただだから尊いのだとさえ言えるのではないでしょうか。
私はこんな話をあるキリスト教のパンフレットで読んだことがあります。それはインドでの話でした。ひとりの宣教師がある年寄りの真珠とりと親しくなりました。宣教師はこの老人に何くれとなく親切を尽くしました。イエス・キリストの救いについてもいろいろと話しました。老人は宣教師の親切は喜んで受けましたが、しかし、キリスト教については全然聞こうとしませんでした。彼はそれをあまり簡単すぎるというのです。ヒンズー教では巡礼に行って初めて救われると教えています。それはよく「ひざの巡礼」と言われます。ひざまずいては大地に口づけし、立ち上がって数歩歩んでまたひざまずいて大地に接吻する。そうして長い長い道を聖なるガンジス河まで巡礼して行くのです。つらい旅です。ひざはすりむけ、はれあがり、ひどい痛みで立つこともできなくなる人が多いのです。しかし老人は言いました。「私たちは罪で汚れています。救われるためにそのくらいの苦しみに耐えなければならないのは当然です。ただ信じただけで救われる。それはあまり虫がよすぎます。」そしてそれ以上どんなに言ってもむだでした。そしてある日、老人は宣教師に言いました。「とうとう私もあす巡礼に出かけることにしました。どうぞお別れに私の家に来て食事をいっしょにして下さいませんか。」宣教師は最後のチャンスだと考えてその招待を受けました。老人の家での食事が終わった時、隣の部屋にはいっていった老人は、手に小さな箱を持って帰ってきました。そしてその箱を宣教師に渡しながら言いました。「先生、親身も及ばないお世話になりながら、先生が熱心に教えて下さったその神さまも信じもしないで、こうやってお別れするのはほんとうに心苦しいことです。どうぞゆるして下さい。私の心からのお礼のしるしにこの真珠をさしあげたいと思います。」宣教師は何げなく箱を受け取りそしてふたをあけてみました。ところがどうでしょう。宣教師はそれまでこんなすばらしい天然真珠を見たことはありませんでした。「とんでもない、こんなにすばらしいものをいただくなんて。百ポンドでこの真珠を売って下さいませんか。もちろんこれが数百ポンドの値うちがあることはよくわかります。しかし私の手もとにそれくらいしかお金がないのです。」
しかし老人は激しく首を振りました。「先生、私はあなたに売ろうなんて思っていません。先生はいま数百ポンドとおっしゃいました。しかし、この真珠はたぶん千ポンドでもすぐ買い手が見つかると思います。ですが私は売りたくないのです。いいえ売れないのです。私が病気になって困って先生にお金を借りに行った時も、私はこの真珠を持っていたのです。もし売れば私は金持ちになっていました。しかし、私は売らなかったのです。私にはひとりのむすこがありました。腕自慢の、この地方きっての真珠とりでした。ところがこのむすこがある日、潜水していつまでも上がって来ないのです。私は心配して待っていました。だいぶ長い間たってむすこは浮き上がって来ました。私は急いで舟に抱き上げて介抱しました。しかしだめでした。むすこは息を吹きかえしませんでした。そしてそのとき、むすこがしっかりと握りしめていた貝の中から出てきたのが、先生、この真珠なんです。先生、この真珠は私のむすこの生命なんです。私はむすこの生命を売ることはできないんです。ただ私はお礼として取っておいて下さい。そしてたいせつにしてやって下さい。」
宣教師はもう何も言えませんでした。しかし、やがてわれにかえって口を開きました。「わかりました。おじいさん、喜んでいただきます、そして私もたいせつにしましょう。しかし、おじいさん、一つだけ考えてみてくれませんか。神さまがそのひとり子のいのちによって私たちを救って下さるのに私たちがそれを買い取ることができるでしょうか。神の御子のいのちを巡礼とか、おさい銭などで買うことができるでしょうか。」真珠とりは考え込みました。そしてやがて言ったのです。「わかりました。私が神の救いを買い取ることはできないのですね、ただ信じましょう。ただ信じて救われたいと思います。」
あなたはプライスレスという英語を知っておられると思います。プライスというのは価格という意味です。そしてレスはもちろん打ち消しです。何々がないという意味です。しかしプライスレスというのは、無価値なという意味ではありません。それは全然反対です。貴重なという意味なのです。値段がつけられないほどに尊いという意味なのです。神の救いもプライスレスなのです。神のひとり子のいのちでかちとられて救いには値段がつけられないのです。私たちはイエス・キリストのいのちの代価を支払うことなどできないのです。しかも、その救いが貴重なのはただそのために払われた犠牲が尊いからというだけではありません。その救いの結果は、前の章で考えたように永遠のいのちなのです。私たちの人生に目的を与え、喜びを与え、力を与え、常に新しくし、常に成長させ、周囲の人々までも変えていき、そして永遠に神とともに行き続ける、そういうすばらしい恵みなのです。こんなに尊いものに値段がつけられるのでしょうか、いいえ、そんなことはできません。ですから、私たちはこのな救いを、ただで、信仰によって、神の手により受け取る以外にないのです。
しかし、ある人はそれでも言うかもしれません、でも私たちでも何かできるはずだと。ではいったい何をしたらよいのでしょうか。聖書の中にこうしるしてあります。「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です」(Tコリント13・13)。信仰よりも愛が偉大であるというのです。またこうも書いてあります。「『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。』」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、『
あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』ということばの中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします」(ローマ13・9、10)。ですから神が、私たちが救われるために信じること以外に何かすることを求められるとするなら、確かにそれは愛することだと思います。しかし、私たちは愛せるでしょうか。
Y県のS市にひとりの婦人が住んでおられます。このかたは未亡人でした。女手一つで、それこそ石にでもかじりつくような思いでむすこを育てあげたのです。そしてむすこが23歳ばかりになりました。どんなに喜んだことでしょう。ほっとしたことでしょう。ところがこの母親はこのむすこに裏切られたのです。母親はいきなり絶望の暗黒の中に突き落とされました。彼女は泣いて、泣いて、泣きあかしました。3日間、彼女はほとんど眠りませんでした。食事もしませんでした。ただ自分の悲しい運命を呪い、むすこをうらんで泣いていたのです。
悲しい知らせを聞いて、教会の牧師が訪問しました。牧師はいろいろと未亡人を慰めようとしました。2時間ばかりの間、神の愛についてわかってもらおうとしました。しかしだめでした。もう涙も枯れきってしまった母親は黙ってすわっているだけでした。牧師もとうとう語るのをやめました。そしてお祈りしましょうと言ったのです。牧師がまず祈りました。そして、未亡人にも祈るように勧めました。婦人は黙っていました。祈る気になどなれなかったのです。心の中は悲しみと憎しみでいっぱいでした。しかし牧師は黙ってをたれています。自分が祈るまでこの人は帰らないつもりらしい。そう婦人は思いました。それでお祈りのまねごとでもして帰ってもらおう、そう考えたのです。お祈りのことばは知っていました。「天のお父さま。」いつも言いなれているそのことばを口にしたそのときでした。彼女は同じ「父よ」ということばで始まる祈りを思い出したのです。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23・34)。それは十字架の上でイエスが、自分を十字架につけようとしている人々のために祈った祈りでした。なんという祈りでしょうか。
彼女の目から新しい涙があふれてきました。そうです。それは全く新しい、悔改めと感謝の涙でした。
彼女は祈りました。「神さま、私は自分のむすこさえほんとうに愛せない、ほんとうにゆるせない、そんなに愛のない、みじめな女です。しかもなおあなたはこんな私のために死んで下さった。こんな愛のない私を愛して下さった。わかりました。私はあなたのその愛を受けたいと思います。信じたいと思います。私をゆるして救って下さい。」おお、みなさん、私たちは愛することができないのです。ですからただ信じて、ただ救いを受けるよりほかないのです。
しかし、また考えてみて下さい。もし私たちが救いを受けるために何かすることができるとしても、神は私たちにそれを求めなさるでしょうか。「さあ、これはやりなさい。そうしたら救ってやるよ。」神はそんなことをおっしゃるおかたでしょうか。おこづかいをやるから、こうしなさい、ごほうびをあげるからああしなさいとでつるような子供の育て方は誤っているとよく言われます。真の神がこういう誤った方法をおとりになるでしょうか。あるいは神は、その救いの恵みを売り渡す商人のようなおかたでしょうか。私たちにとって神がそういうかたであるほうが確かにつごうがよいのです。ですから、おさい銭をあげたり、おを買ったり、あるいはルターを怒らせた免罪符などというものまで現れたりするのです。しかし、ほんとうの神はそんなおかたではないはずです。
神が神であられるなら、ただ「私を信じ、私に任せなさい、そうしたら救ってあげるのだ」と真の主人として、主権者としてふるまわれるはずです。聖書には「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです」(エペソ2・8、9)とあります。私たちが神の前で、「私がこういうことをしたから、あなたは救わなければならなかったのだ」と言うことができるような救いの道を神がとられるはずはないのです。
しかし、そう言われても、なおただ信じるなら救われるということがよくわからないと言う人がいるかもしれません。それは多くの場合、信じるということの意味を誤解しているためなのではないでしょうか。神を信じるということをある人は頭で理解し、納得することだと考えています。ですから神がどういうおかたであるか、完全にわからないから信じられないと言うのです。
また、ある人は神を信じるということが何か感情的な特別な経験だと思っています。それで全部を任せきれたように感じないから、また神が自分をささえていて下さるように感じないから、信じられないと言います。しかし、信仰というのはそうではないのです。信仰というのは、生きておられる神を信頼することなのです。神がもしただの原理であったり、また力であったり、自然そのものであったりしたら、それを理解することが信じることかもしれません。また信仰というのが、ただ私たちのひとりよがりの経験であるなら、感情がいちばん問題になるかもしれません。しかし信仰は神というおかたに対する信頼なのです。あなたはだかれを信頼する時、その人についてすべてのことを理解し納得しなければならないと思いますか。
私は亡くなった母の生まれた場所を知りませんでした。母の出た学校も、娘時代にどんな生活をしてきたかも知りません。しかし私は母の私に対する愛を疑ったことはありませんでした。私は母を信頼しているのです。私が結婚してから数年たったあるとき、妻が「あらあなた工学部の出身だったの。私は今まで理学部だと思っていたわ」と言うのです。私は思わず、「おいおい冗談じゃないよ」と言いました。ところが「だって学士免状見たわけではないもの」とのことです。そう言われてみれば、私の学士免状はいったいどこにあるんだろうと、私にさえわからないありさまです。でも妻は私に、私は妻に信頼をよせていることは疑いの余地もありません。
ある人に対する信頼というのは、知識の限界を越えているところがあるのです。もちろん私たちはなんでもかんでも信じるというわけではありません。それは軽信であり迷信です。しかし、私たちがある人の言うことを聞き、また他の人がその人について言っている評判を聞いて、またその人の行いを見て、この人なら信頼できると考えたら、その人に任せてしまうのです。私たちはお医者さんに自分のいのちを任せます。そして手術でもなんでも受けるのです。お医者さんばかりでなく、床屋さんにでもいのちを任せます。床屋さんがあなたののど笛の上でぎらぎら光るかみそりを振り回している間、あなたはすやすやと眠りさえするのです。神に対しても私たちはそうすることができるはずです。
私たちは神のことばを聞くことができます。それが聖書です。聖書を開いてそのことばが信頼するに値するかどうかよく調べて下さい。聖書が人間の正しいあり方について教えている一つ一つがあなたにはまちがっていると考えられるでしょうか。マタイの福音書の5章から7章の山上の説教と呼ばれている部分だけでも読んで下さい。このことばは受け入れるに足る信ずべきことばではないでしょうか。人間の心のありさまについて書かれている一つ一つがあなたに当てはまらないでしょうか。
第二に神に対する人の評判――これを私たちはと言っています。実際に神を知っている人の体験です――も聞くことができます。この小冊子の中でも幾つもの体験をあなたは読まれたはずです。いいえ、実はこの小冊子そのものがこの生きておられる神に対する証詞なのです。
また第三に神の行いを私たちは見ることができます。その最大のものは、「神はそのひとり子をお与えになった」ということです。神の愛は、このひとり子をさえ与えて下さったということの中に、はっきりとあらわされています。そして、私たちはこれほどまでに私たちを愛して下さったかたを信頼できないのでしょうか。私たちがイエス・キリストの十字架を見上げる時、私たちはこの神こそ信頼すべきおかただということがわかるのです。
そしてさらにこの十字架こそが、私たちがただ信じさえするならば救われるために、神が備えて下さった救いの道なのです。私たちがただで救われるために、神が支払って下さったあがないの代価なのです。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです」(マルコ10・45)。こう聖書にしるされているのです。あなたは今、神に信頼するでしょうか。神にすべてを任せて、どうか私を救って下さい、私に永遠のいのちを与えて下さいと申しあげるでしょうか。