7 ことばに表わせないほどの賜物
神は、実に、ほどに、
世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとし
て滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
私たちはこの小冊子の最後の章までまいりました。この最後のそしてたぶん最も短い章で、最もたいせつなことを学びたいと思うのです。それは「神はそのひとり子をお与えになった」という驚くべき事実です。パウロは「ことばに表わせないほどの賜物のゆえに、神に感謝します」(Uコリント9・15)と言っていますが、確かにひとり子を贈り物とするというのは、考えられないようなことです。しかも、神がそのひとり子をお与えになった方法と、その目的、その結果などを考える時、私たちの驚きと感謝とはもっと大きくなるのです。
私たちはつまらない小さなものを贈る時でも、外側だけはぎょうぎょうしく飾ります。美しい包み紙で包んだり、リボンをかけたりします。しかし、神がそのひとり子を私たちにお与え下さった時は全くの裸でした。「ほら、これがあなたがた罪人への贈り物だよ。あなたがたが自由にするがよい。」ちょうど神がそうでも言われたように、ひとり子イエスはベツレヘムの薄暗い馬小屋の中にお生まれになったのです。美しいリボンはどこにも見当たらず、ひとり子を包んでいるのは、ただのぼろきれでした。罪に汚れた人間の手がこの神のひとり子ののどもとにまで迫りさえしました。自分の王位を守るために自分自身の子供でも殺してはばからなかった希代の悪王ヘロデは、この「王の王」を殺そうとしてベツレヘム付近の幼子を皆殺しにしたのです。(参照 マタイ2章)。
しかし、神のお守りの中にこのみどり子は成長していきました。そして彼が30歳のころ、家業を捨てて公の生涯におはいりになった時、人々はこの澄んだ暖かいまなざしをした青年こそ、神が人々に与えて下さった慰め手であるということに気づいたのです。悲しんでいる人、悩んでいる人、苦しんでいる人たちは、彼によって慰められ、励まされ、勇気づけられました。
病人ややせ衰えた者たちがいっぱいに群がっていたベテスダの池のほとりに主が来られた時、主がまず初めに近づいて行かれたのは、だれひとりみとる人もいない28年間も寝たきりの病人でした。そして彼はその老人の上に身をかがめられると、優しく「なおりたいだろうね」と声をかけられたのです(参照 ヨハネ5章)。イエスがナインの町においでになった時、彼はひとりむすこの棺のかたわらで悲嘆にくれているやもめにお会いになりました。そのときそのお口からでたのは「泣くな」ということばでした。「泣くのはおやめ。おまえが泣いていると私まで悲しくなるのだよ。泣くのはおやめ。私が助けてあげるからね。」イエスのその一言は哀れな母親の心の底までしみ通っていったのです(参照 ルカ7章)。イエスは汚れることを恐れてだれもそばへさえよろうとしないらい病人に、手を触れていやされました(参照 マタイ8章)。彼は悲しんでいる人とともに悲しみ、悩んでいる人とともに悩み、そしてそれらの人々の悲しみを、悩みを、病の苦しみを負って下さったのです(参照 マタイ8・17)。
しかし、それだけではありませんでした。彼は神から与えられた教師でした。人々は彼の教えを聞いた時、その権威に驚き、そしてこのかたこそ神から来た教師に違いないと考えたのです(参照 マタイ7・28、ヨハネ3・2)。私たちも福音書の中に記録されている主イエスのおことばの一つ一つを読んでみる時、この当時の人々の意見に全く同意せずにはいられないのです。彼は野に咲く一輪の花を手にされながら、また空を飛ぶ一羽のすずめを指さされながら、神の愛を説かれました。人の心の底まで見通されるような――事実そうだったのですが――その目でじっと見つめながら、神は私たちの行いだけでなく、ことばだけでなく、思いをもさばかれるおかたであることをお告げになりました。そしてどんな行いも、どんな儀式も、愛がなければなんの価値もないことをはっきりと教えられたのです。
しかも、それはただの教えではありませんでした。主はそれを行ってみせられたのです。主のご生涯は、私たちが人間としていかに生きるべきかを示された完全な模範でした。神から与えられた人間の理想像だったのです。しかし私たちは、あまりにも完全なものの前に立つ時、絶望を感じるのです。ある人が、すばらしいピアニストの演奏会から帰って来て、友人に一曲ひいてくれないかと言われた時こう言ったといいます。「あの完全な演奏を聞いたあとで、私がピアノなどひけると思うのかね。私は今、私のピアノをたたきこわしてしまいたいくらいだ。」私たちは主の前に出る時、同じような思いにかられるのです。そしてペテロとともに叫ばずにはいられないのです。「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」(ルカ5・8)。
しかしイエスは、神が私たちに与えられた完全すぎる模範であるだけではありませんでした。それは前に読んだ聖句の中にもあったように、神が私たちに与えられた「いの代価」だったのです。神はイエスをクリスマスにベツレヘムで私たちに与えて下さっただけでなく、聖金曜日(イエスが十字架につけられた金曜日)にカルバリの山の上で完全に私たちに与えて下さったのです。そしてその与えられた方法といったら全く恐ろしいほどでした。4つの福音書の最後の数章を読むなら、私たちはその実際を見ることができます。私は今まで聖書からの引用は、ごく間接的のものを除いて、その署名や章節を示してきました。しかし、これからの十字架についての記事ではそれを省こうと思います。なぜなら、あなたが聖書を開いて自分でその記録を見つけだしていただきたいからです。
神はイエスを完全に人に与えておられましたから、イエスはご自分のものだとおっしゃることができるような財産をお持ちにはなりませんでした。彼は弟子たちにもお命じになられたように(参照 マタイ10章)さいふも2枚の下着もお持ちになってはいなかったのです。彼はデナリ貨さえ持っておられませんでした。ですから彼がデナリを使って真理を説明なさろうとした時、そのわずかなお金を人から貸してもらわなければならなかったのです(参照 マタイ22章)。彼の財産といったら、いつも身につけておられる白い上着と祭司が着るような縫い目なしの下着だけでした。そして、イエスは、その十字架の上でそれさえも罪人の手にお与えになりました。彼らは上着を分け、下着をくじ引きにしたのです。
ですが、あるいは愛の心から自分の財産を与えることはあるかもしれません。しかし、私たち同じ東洋人なら――そうです、主は私たちと同じ東洋人であるユダヤ人の中にお生まれになったのです――わかるはずです、名誉というものがどんなにたいせつなものであるかを。私たちは顔に泥を塗られること、をつぶされることをどんなにきらうことでしょうか。しかし聖書を読んでみて下さい。人々はイエスに何をしたのでしょうか。
彼らはイエスの頭にいばらの冠をかぶせました。その手にあしの棒を持たせました。もうすっかりよごれてもとの赤い色が紫に見えるようになってしまった兵隊を着せたのです。「これがおまえの王冠さ、そしてこれはおまえの王しゃくだ。おまえの王衣にはこれがちょうどいい。」あるおどけ者はイエスの前におおげさな態度でひれ伏して、「ユダヤ人の王、ばんざい」とすっとんきょうな声をあげたのです。見ていた兵士たちはどっと笑い、そして「いいぞ、いいぞ」とはやしたてました。調子にのったおどけ者は、今度はイエスの顔に、かっと、たんをはきかけました。そして、平手で打ち、こぶしでたたいたのです。主の顔は醜くはれ上がりました。しかし、主はつぶやきの一言も口になさいませんでした。頭を一振りすればいばらの冠は飛んでしまったでしょう。あしの棒を折ってしまうのには小指一本動かすだけで十分だったでしょう。肩をゆすぶれば外套は足もとに落ちてしまったでしょう。しかし、イエスは、身動き一つなさらずに立っておられました。彼はその顔にはきかけられたたんさえぬぐおうとなさらなかったのです。とうとう人々が彼をあざけるのにあきてしまうまで、主ははずかしめを黙ってお受けになっていたのです。
しかし、私たちは、あるいは恥をさえいとわないかもしれません、愛する者とともにいることさえできるなら、恥をがまんするかもしれません。ですが、主が十字架につかれようとする時、イエスの回りには主が愛された人はいなかったのです。ペテロは彼を裏切りました。殺されても捕えられても、などと大きなことを言っていた主の一番弟子は、神に誓ってイエスを知らない、とさえ言ったのです。イエスが十字架の上で愛する母マリアを見おろされた時、どんなお気持ちだったことでしょうか。しかし、彼はその母さえもヨハネに与えなければなりませんでした。「そこに、あなたの母がいます。」自分の母を赤の他人である青年に任せて死んでいかれなければならなかった時、愛に満ちた主の心はどんなに痛んだことでしょう。主は愛する者さえ与え尽くされたのです。
また主は、私たちのためにその生命をさえ与えられました。十字架の苦しみ、私たちはそれをどのくらい知っているでしょうか。ある人はいろいろと史料を調べた上で、主の十字架のありさまを次のようなものだったろうとしるしています。まずむち打ちがあります。先におもりがつき、所々に鋭い骨や金属でつくった爪をつけた、皮のむちがローマ兵の無慈悲な太い腕で主の背に振りおろされる時、風を切るむちの音とともに主の背の皮は切れ、肉は裂けたのです。むち打ちの刑を受けた者の背中は、もうただ、ぶるぶるとふるえるまっかなゼリーのようになってしまうのが常でした。その背中に荒けずりの十字架の横木がむりやりに背負わされたのです。一晩の間に6回の審問を受け、その上でむちで打たれ、さらに兵士たちのなぶりものにされなければならなかった主は、その1本の材木さえ持ちこたえることがおできになりませんでした。さすが情け知らずのローマ兵も、黒人のシモンに、「この男の代わりに持ってやれ」と命じたくらい主は弱っておられたのです。そして一歩一歩、血でその足跡を残しながら、主がカルバリまでたどりつかれた時、主はその木の上に手を広げて横たえられたのです。
皮を破り、肉を裂くにぶい音を立てて、大くぎが手首の2本の骨の間に打ち込まれました。両手が打ちつけられると、横木は3人がかりで持ち上げられました。そこにはもう十字架の縦の棒が地面にしっかりと立てられていました。男たちはイエスの手をくぎづけた横木を持つと、縦の棒の上のほうにある切り込みの所まで上げました。横木はそこにしっかりと縛りつけられ、こうして十字架の形が初めてでき上がりました。死刑執行人たちはその顔にはなんの感情さえも示さないで、イエスの左足をぐっと持ち上げてひざが少し曲がるくらいにしました。そしてその上に右足が重ねられるとそこにも大くぎを打ち込みました。こうして3本のくぎで主の肉体はくぎづけられたのです。くぎづけされたそのままの姿勢では主は息はできませんでした。息をするためには足に力を入れてひざを伸ばし、からだを持ち上げなくてはならないのです。そうしなければ胸は引き上げられたままになっており息を吐きだすこともできないのです。くぎが足に食い込み血が流れました。やがて力が尽きて、主のからだはだらりとたれました。しかし、彼は窒息しないために、もう一度全身の力をふりしぼって、何トンもあるようにさえ感じられるそのからだを持ち上げて、苦しい息を吐き出すのです。そしてその苦しい息の中で主はなお祈られたのです。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」そしてまた盗賊に向かっておっしゃったのです。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」なんということでしょうか。私たちの心は、この主のお姿を見ても動かされないほど冷たく情け知らずなのでしょうか。
しかし、みなさん、それが十字架のほんとうの苦しみではなかったのです。その肉体の苦しみのみが、主の飲まねばならぬ杯ではなかったのです。ほんとうの苦しみはもっと恐ろしいところにあったのです。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」弟子たちはそのイエスのことばを聞いた時、そのあまりの悲痛さに、その声の調子まで忘れることができなかったのでしょう。彼らはここだけを主が語られたそのままのアラム語でしるしているのです。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」神は、父なる神は、ひとり子を捨てられたのです。どんな悪人でもこの世で神の恵みから完全に見放されたことはありませんでした。神は彼らの上にさえ、日を上らせ雨を注がれたのです(参照 マタイ5・45)。しかし、そのとき、主が十字架についていたそのとき、天はまっくらになりました。神はその御子から顔をそむけられたのです。
なぜですか、それはなぜですか。私の罪がひとり子の上におかれたからです。主が私の罪を背負われたからです。主は私の罪のゆえに神から捨てられたのです。私がそのことを知った時――私はいつまでもそのときのことを忘れることはできません。カルバリの十字架のためだったのです。そして、愛するみなさん、それはまたあなたのためなのです。わかっていただきたいのです、これだけはわかっていただきたいのです。あなたの罪をゆるし、あなたに永遠のいのちを与えるために、主は十字架の上で死なれたのです。あなたを決して見捨てないために、神はひとり子をお見捨てになったのです。神はそのひとり子をお与えになったほどにあなたを愛して下さったのです。
しかし、それで終わりではありませんでした。主は3日目によみがえりたもうたのです。そして悲しみのどん底にあった弟子たちのまん中にお立ちになって、「平安があなたがたにあるように」とおっしゃったのです。
私は今から35年前、罪の苦しみに押しつぶされそうになっていた時、ふとしたことから教会に行った時のことを思い出します。それは偶然にもイースターでした。そしてそこで私は主がよみがえられたということを聞きました。私はそれを信じられませんでした。しかし私はそのとき、もしほんとうに死人の中からよみがえられた人がおられるとしるなら、私もこの汚れた人生をもう一度新しくやり直すことができるかもしれないと考えたものでした。そして私はそれから3週間目の聖日に、イエスの十字架について初めて聞いたのです。その十字架を見上げた時、私は知りました。自分はなんと恐ろしい罪人だったことか。そしてまた私は知りました、ここにだけ自分を救うただ一つの道があるということを。私はそのとき神を見上げ、心の中でこう申しあげたのです。「神よ、私は自分でいろいろと努力してきました。つとめてもきました。しかしだめでした。しかし、今、私は生まれて初めて今まで聞いたことのない救いの道、十字架による救いの道について聞きました。神よ、私はなんにもわかりません。ただわかっているのは、私が罪人であるということ、どうにもならない罪人であるということだけです。そして私はなんとかして救われたいのです。新しく生まれ変わりたいのです。あなたはこういう者でもお救いになって下さいますでしょうか。もしお救いになって下さるのなら、そうです、私は今からクリスチャンです。共産党員ではありません。クリスチャンです。クリスチャンとしてどういうように生きていってよいのかわかりません。しかし教えて下さい。私はあなたにすべてをお任せします。私はあなたにお従いします。私を救って下さい。」
これが私の新しい生涯の始まりだったのです。復活の主のいのちにあずかる新しい毎日の始まりだったのです。そして、あなたも今こそすることがおできになるのです。あなたが自分も神から与えられた完全な神の模範に従えない罪人であることを認め、そしてそういう自分のためにこそ主が死んで下さったのだということを信じ、そして主の賜物である救いを謙虚に受けられるなら、復活の主のいのちがあなたの中にも与えられ、あなたはいのちある者となることができるのです。そうです、永遠に変わることのない神のみことばはこう教えているのです。 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」