8月2日。



西洋の組石文化は、重厚なステイビリティを象徴するものです。
そこに主張される美徳とは永劫の安定であり、確立された「個」というものを顕示し、持続していく意志です。

そこに一抹どころでない煩わしさを感じるのは、我々日本人の感性が本来、そうしたことに価値を見出していないからです。
地震の脅威に常にさらされる宿命の火山列島、更にモンスーンに支配される気候は幅広く移り変わる気候変化をもたらします。
そういった自然の強大な外力に対し、日本人は剛的に抗おうとはしませんでした。
しなやかに組み上げられた、軽量で、柔軟な木という構造材は、ステイビリティではなくフレキシビリティを選択した、日本人の叡智が凝縮されたものと言えるでしょう。



「万物は流転する」と言ったプラトンの言葉を、平家物語の作者が知っていたとは思えません。ですが、その言葉の意味を、我々日本人は、DNAレベルでしっかり己のうちに組み込んでいたハズです。





軽い発火音を残し、一直線に上昇する炎の帯。
その軌跡がかき消えた一瞬の空隙の後、音もなく一気に花開く大輪。
更に一呼吸おいて、重く低い爆音が、内臓を撃ち抜きます。
その頃にはもう、光の生命は儚く燃え尽きようとしていて、残像は留めようもなく、背景の暗闇に溶け込んでいきます。

音もなく立ち現れ、華やかに炸裂し、粋に消え行くその姿もまた、日本的美意識の全てを体現するものでした。

8月の最初の土曜日は、地元の河川敷の花火大会でした。








8月7日。



眼下に広がる光景に脊髄が冷え、脚の筋繊維が縮み上がる。
どうしてこんなところに来てしまったんだろう。
地上で髪の毛を乱していた強風は、上空において当然、その勢いを倍加させている。
何本かのワイヤーで吊されただけの足場はいかにも頼りなく、結節点を軋ませながら大きく煽られる。
靴底の摩擦力と重力のベクトルがズレを生じ、浮遊感は瞬間だが悲鳴をもたらすにはまったく充分だ。

密度の濃い空気の塊が横っ腹にぶつかってきて、ぐらり、とまた遙か下の夜景が揺らぐ。

叫び声を上げようと口を開いた瞬間、下降が始まり、それは封殺される。
内臓が浮き上がる。

落ちていく。

耳元で風が唸りを上げている。
どうしてこんな羽目に陥ったのか、後悔もそれに引きちぎられる。
落ちていく。
無抵抗のまま重力に従えられ、相対加速度がゼロになる。下降と上昇の区別が崩壊する。
基準軸が失われ、座標を持たない、空間内の点と化す。

点であるオレには、もう名前がない。
定義されないまま、地表に叩きつけられる瞬間を待つ。



がく、という衝撃と共にブレーキがかかり、とたんに足場が己の役割を思い出す。
己の自我を取り返し、ただの点からオレはオレに戻る。
大地は接近する速度を次第に落とし、最終的に柔らかく受け止めてくれる。
帰還した。






新しいジェットコースターも面白かったけど、パラシュートの方が全然怖えって。
さすが、屈指の長寿アトラクション。


今日は、後楽園ゆうえんちに行ってきました。







8月15日。



ご先祖様の霊も、間違えたと思って帰っちゃいそうな冷たい盆のただ中。
ホテルはもの凄えことになっていました。
企業が休みになり、出張ビジネスマンと入れ替わりに押し寄せてきたのは、とても特殊な「ある人たち」です。
平均体重高め、声質も高め。
毎年のことながら、そのインパクトはやはり尋常ではありません。

8/15〜17、於東京ビックサイト。

やっぱり大変なものですコミケ。
埼京線の延長によって直に連結されたとはいえ、距離的には遙か彼方のはずのここ池袋ですら、その余波だけで激震です。
文字通りその図体と大荷物の重量に、築二十年の老朽建築物が基礎から揺らいでいるかのよう。パンチが効いてるどころの話じゃなく、おもくそ必殺のクロスカウンター級、ノックアウト寸前。

とにかくまあ、盆の怪談つうか百鬼夜行の妖怪モンスター大百科的にやたらと面白いワケなんですが、そういったこの世ならぬ存在の方々にも、こうしてみると種別というか種族というか、タイプがあることに気付きます。

伸ばしっぱなしの汚え長髪に眼鏡、体型はデブか小デブかすっ飛ばして虚弱ってのは男女共通。男子は変なネルシャツ、女子は変なブラウス。要するに一目で何となく察しちまうあの独特の雰囲気は、御存じの通り全員にデフォルトで設定されたフォーマットです。
タイプが二分されるのはその先。外見はほとんど同じでも、中身は結構ちがっているようです。

まずは、焦点の曖昧な上目遣いの三白眼、カウンター越しに対峙していても視線が合ってないようなタイプ。
あんたが拠って立ってる常識なんて、ボクには全く通用しないでヤンスよゲヘヘヘヘなんて具合に、こっちが怯んじゃうような強烈なオーラを発散しています。
全く喋りません。外界との接触を初手から拒絶してらっしゃる。
そうかと思えば、やけにハキハキと話しかけてくる奴いますね。
滑舌も溌剌と、いささか早口なのを除けば、きちんと一般に通用する言語を備えているのがわかります。そういうのは前者に比べて不潔感もあまりなく、それなりに社会性も保っているかのように見えます。

確かに、前者は社会不適合者です。
一般社会の常識に馴染めないか、馴染む気がないか、いずれにしても完全なアウトサイダーであって、それだけで立派な社会的脅威です。健全な社会というものは、構成者のモラルの上に立脚するものであるからです。自分以外の他人との関係性を、価値として認めないものの存在は、例えどんな少数であっても、厄介でおっかないものです。
後者は、そういうことを多少なり認識しているのでしょう。
オタクというものが社会からつま弾かれる恥ずべき存在だと思っていて、その上で自らをオタクと自認し、さらにその枠組みから一生懸命脱却しようとなさる。
つまり早い話が、「開く」ことによって「私は確かにオタクですよええそうですとも。でも、あなたがたがイメージしてるような臭くて汚いブタみたいな連中とは違うの。ちゃんと自分でコントロールできてるんだから。その証拠にほらねちゃあんとコミュニケーションだってとれるのよ。ふつうなのよふつう。でしょ?」と主張しているんですな。
しかし、その目論見はやはり破綻しているワケで、結局のところその一生懸命さが、相対してる人間からすれば完璧に異様。むしろ気負いすぎるが故の軽さ、滑らかさが極めて不愉快です。いっそ、自分の殻にガッチリ閉じこもって、内的世界に没頭している「いわゆるオタク」の方がよほど好もしいと考えます。



少なくとも現代社会においては、「閉じる」ということは異常なことです。
煩わしい人間関係、それを円滑に進めるためのあれこれを放棄し、徹底的に己の内部に安住することは、社会という枠組みからはみ出すことです。逸脱者はいつだって異端であり、一般の社会構成者にとっては理解し難く予測不可能な脅威でもあります。
確かに不器用な生き方ですが、対象をただひたむきに見据えた結果、限られた範囲に集約されるそのパワーは圧倒的に純粋で、強靱です。

そもそも、物事を極め、究めていくというのは、自己を突き詰めていく作業です。
例えば、重要無形文化財に指定される様な精緻で超人的な伝統工芸の技巧は、じっと常住座臥し、たゆまぬ反復を積み重ねる日々の上に築き上げられるものです。それは、素材と作品を介した自己との対話に他ならず、それ以外の手段においていかなる創造行為も成し得ません。
創造とは、外界から与えられる情報を、自己というフィルターを通じて再構成し、ほんの僅かのインスピレーションを加えて外界に返すということです。

そういったことを、飽くことなく何十年と突き詰めてきた職人は恐らく社会不適合者でしょうし、むしろそのことを誇りに思っていることでしょう。

社会から隔絶されること、逸脱することを恥じ、半端に繋がりを保とうとする人間に、オタクを名乗る資格はありません。己のうちに身勝手な幻想や偶像を創り上げ、それをひたすら保護し、研磨していく作業には、社会性など邪魔なだけで、それは言葉の正しい意味において、純粋な創造行為です。
それ以外のあらゆる表現者が尊敬され、オタクだけが社会問題視されるのは、創造したものを社会に還元しようとしないか、設定された周囲の理屈とは違う形しか知らないからです。

しかしまた、それをした時点で、つまり母の胎内たる「お宅」から外に一歩踏み出した瞬間に、オタクはオタクでなくなります。オタクであろうとするのであれば、断じて開くべきではない。そうする覚悟ができていないなら、オタクではない自分を自覚するべきです。
もっときちんと、少なくとも相手に異常性を感じさせない程度には、コミュニケーションの技術を身につけろよ、と思うわけです。


ま、いいんだけどね面白えから。








8月22日。



「なんであんなのに、あれほど執着したのか、今はちっともわからないわ」
「人間は不完全なものさ。ましてや、若い頃っていうのはそういうもんだよ」
「縛られちゃうのよね。自分自身に、っていうか」
「単に思いこみが激しいともいうけどね」
「自分でつくった枠組みなのに、そこからどうしても逃れられない」
「でも、その頃の思いって、強いよね」
「狭い範囲に集中する分、深くなるのかもね。脇目を振らない」
「年取ってさ、まわりが見えてくると、そういうの、失っちゃうんだな」
「そう考えると、なんだか寂しいわね。若いって、強い。強いことは、美しいから」
「君は今でも十分に美しいよ」
「あら、ありがと」
「でも、その強さは確かにすごいよな。例え、間違っていたとしても」
「青春って、そういうものなのねきっと。強くて、美しくて、どこまでも恥ずかしい」
「物事の本質が、自分だけに見えているつもりで」
「世界の全てを、わかった気になって」
「実は、何も見えちゃいないのにね」
「本当に、どうしてあんなに好きだったのかしら」
「そんなに、愛してた?」
「愛してたし、依存してた。それが存在しない世界なんて信じられなかった……自分にとっての価値なんて、何一つわかってなかったけど、そのときはそのときなりに、精一杯」
「今の君からは、想像もできないな」
「あら、私って、そんなに打算的な女?」
「そういうワケじゃないけどね。誰にだってあることだし。なんだか少し、安心したっていうか――」
「かわいいとこあるな、とか思ってるんでしょ?」
「まあね。で、どうなの?大人になった今の君は」
「ダメね。全然ダメ。本当に、若かったと思うわ。今の私にとってはそうね、コロコロカーペットの方がよっぽど大事だわ」
「コロコロカーペットか。なるほどあれは便利だ」
「私、大好きなのよね」
「………僕よりも?」
「ばかね。あ、でも……」
「おいおい、本当に分が悪そうだな。怖いからそれ以上言うなよ」
「うふふ。大丈夫よ。今の私だって、全てを知ってるわけじゃないけれど、でも少なくともあのころよりは、ちゃんと見えてるつもり。自分にとって何が大事なのか、何が価値のあるものなのか」
「そう願いたいね。後になって、ボロクソに言われるのは悲しいから」
「本当に、なんであんなに好きだったのかしら、エチケットブラシ」
「裏に鏡ついてて」
「クソ役立たず」









8月27日。



顛末。

バックアップによって救い上げたもの。
図面、グラフィック関係。テキスト類。HP素材。彼女の誕生日のデジカメ写真。イラストレーター、フォトショップ、ページメーカー、ページミル、オフィス、ベクターワークス、フォームZなど、ソフト関係。

失われて二度と戻ってこないもの。
エロ画像、動画(2Gくらい)、200曲超のMP3ファイル(J-pop)。過去のメール、アドレス帳。エロページのブックマーク。

あ、たいして惜しくねえや、こうしてみると。



というわけで、HD換装手術は成功しました。
クランケの意識は無事に戻り、記憶も可能な限り復帰しつつあります。後は、フォントや変換ソフトに絡むものはインストールしなくちゃならない。

容量アップのせいか、中身が整理されたからなのか、動きはやたらと軽快です。
このまま、ちゃんと定着してくれるかどうか。



本当に、外科手術の後みたいな気分です。
今一番心配なのは、拒絶反応。




ともあれ、更新再開します。







8月28日。



仕事柄(嘘)裏ビデオをよく観ます。



裏ビデオ、っていうのがどういうものか一応説明しておくと、極秘で製作された「サザエさん・最終回/磯野家のDEAD END」とかそういうのではなくて、早い話がビデオ倫理委員会の審査を受けないまま、奥ゆかしく流通しているエッチビデオのことです。
従って当然、モザイクなんて原始的な風習に縛られない、非常にリベラルなシロモノ。保守与党が政治を支配する日本の法律では、売ったり買ったり見たりそれでオナニーしたりしちゃいけませんよ、とされているわけです。

ちんこやまんこは一般流通させちゃいけないのに、照英のバカさ加減は公の電波に乗せるっていうのも解せない話です。どう考えてもいい加減マズいだろアレ。

まあもっとも、見えればそれで満足かってえと、そういうもんでもないんスねこれが。最近の若いモンの口癖でいうところのビミョ〜。
つくづく実感するんですが、「見ちゃダメよ」って言われるから見たくなるだけですよね正味の話。ちんこなんてもともと積極的に見たいモンじゃないし、まんこにきれいも不細工もないです。あ、まてよう〜ん。ないこともないけどまあ、少なくとも大差ではない。

コトがエロ関係になると、本能という言葉を安易に使いたくなってしまうけれど、それだって多くの部分について、結局、制度化された相対的な価値観に捕われた結果に過ぎない。

じゃあなんで裏ビデオを見るか。
そこにはなんだかワケのわからないリアリズムがあるからです。詳しいことは言いませんが、ふつうでは見ることのできないキャスティングやシチュエーションには、いわく言いがたい興奮を感じます。
それも、現行法のもとでのタブーであるという点では同じですが、完璧に計算され尽くした職業セックスでは得られない、ナマっぽさを求める心理とは、もうちょっとばかり文化的なものです。詳しいことは言いませんが。

で、言いたいことは何かっつうと、そこには、もともと法制度の外側にあるものに対するある種の信頼感があるんです。



最大公約数的な論理で外側から押し付けられた枠組み、およびその内部で定義された正義には、反発という程ではないにしろ、そこはかとない嘘臭さを感じます。モラルは、自分の外側には存在せず、内的衝動として沸き起こるものだと思うからです。
そこを一歩譲って、いわば「お上に許可していただいた」フィクションに迎合し、身を委ねるんであれば、逆説的ではありますが、そこに徹底的なリアリティがないとイヤです。与えられたものに、完全に共感できない限り、安心してオナニーできない。
男の子はとってもデリケートにできておるので、リアリティがちょっとでも崩れた瞬間に、めっちゃくちゃがっかりするんです。下半身で息子が首をかしげ、「あれ?ねえ?どうしたのパパ?どうしたの?」と涙目で見上げられてるような気分。表のエッチビデオを見ているとしばしば経験する悲しい事態です。
違法だからこそ、そこに映し出されたものにはなんでもアリの真実がある、そんな風についつい考えてしまうのは、本当のことが往々にして韜晦されてしまうものだ、という回路がオレの中にできあがっているからです。

正規メーカーの作る単体モノの女優さんは確かに可愛い。おっぱいもデカい。こと女の子のレベルにおいて、裏ビデオの適うところではありません。その時点で既にリアリティがないんですよ。



モテないからね、なんせ。








8月30日。



「君がいた夏」っていうフレーズにはもううんざりだ。








8月31日。



松岡修三の次はアレだな、照英で鉄板。













Back to Log index


Back to Home