その日も、ホテルのフロントは、一段落の時間を迎えていた。早朝五時。
基本的にビジネスホテルのフロントというものは、もちろん立っている人間こそ交代するものの、24時間365日、その活動がストップすることはない。
オレがこのホテルで深夜勤務のバイトを初めて、そろそろ八ヶ月が経とうとしていた。拘束時間は長いが、深夜ともなるともちろん客は殆ど来ない。ルーチンワークを片づけてしまえば、自分の時間をつくることもできる。昼夜逆転の生活と、対面接客さえ苦にならなければ、バイトとしてはそこそこおいしい部類に入るだろう。
朝の五時は、夜食の時間である。社員がバイトに、メシを奢ってくれるのだ。
いつもと同じようにオレは社員の注文をとり、研修中だった新人バイトの井上くんを伴って、コンビニへと出かけて行った。
井上くんにファミリーマートの袋を持たせ戻ってきてみると、一階のエレベーターホールに、あろうことかゴミが放置されていた。
トマトの出荷に使う平べったい箱が、ひっくり返った状態で落ちているのである。
建物から出入りするときには常に通る場所なのだが、どういうわけか出かけるときには気づかなかった。見落としたのか、オレらが行って帰ってくる間に捨てられたのか、なんにせよ、おもいきり客の目に触れる場所にゴミが落ちているのは、ホテルにとって決してプラスではない。
ったく、誰がこんなところに……という思いのこもった軽い舌打ちをし、片づけるために進み出ようとしたオレを、よくできた新人の井上くんが制した。
「あ、いいですよ。僕やります」
そう言って、井上くんが箱に接近する、一歩、二歩、その瞬間、オレは叫んでいた。
「ちちょっと待った!!」
不意の大声にびっくりして井上くんが振り返る。が、オレ自身にもまだ、その理由が分かっていない。ただ、その一瞬オレのシナプスを、稲妻の速度で「何か」が駆け抜けたのだ。そしてその戦慄は、得体の知れない、漠然とした、だがはっきりと「悪い」予感に形を変え、急速に膨れあがってくる。
オレは、その正体をつきとめる為に、箱に歩み寄った。
箱を見下ろす。
さらに何秒か躊躇した後、
オレはゆっくりと、
足の爪先で、
箱の一端を持ち上げ姉さん事件です
これは、なんというか暴力の象徴というかそれはもうこんもりと力強く、エアーズロックのミニチュアの様につうかこれウンコじゃんしかも犬のとかそういうサイズじゃないじゃん
脊髄反射でオレは飛び退いたが既に遅く、眼と鼻の粘膜は刺激臭に悲鳴をあげた。戒めから放たれたファンキーな臭気は高らかに歌い上げる。パンドラの中身を讃美する歌を。
………ジーザス。
エレベーターの壁に頭を持たせかけ、オレは殆ど自失していた。脳は様々なことをぐちゃぐちゃに発想し、考えがまったくまとまらない。現実を承認することの拒絶、思考停止の意思表示だ。
ふと、井上くんと眼が合った。彼も異変の様相を察したのか、難しい表情でしばらくオレを見つめ、やがて確信を嘆息にこめつつ、口を開いた。
「……ピザですか」
いやわからんではナイけれども井上くん!!
確かにキミは芸術家らしく、少し人とズレた感性を持っているのは知っていたが。少しはこのブルーの表情を察してくれるとお兄さんとっても嬉しい。
「マジで!?」
言ったきり、社員の渡辺さんは言葉を失い、立ちつくした。
人間が最もテンパった時に浮かべる、あの半笑いを浮かべて、じっとオレを見つめる。オレが「ウソぴょん♪」と言うのを待っているのだろう。
生憎だったよ渡辺さん。あんたやオレが思ってたより、現実って冷たいらしいや。
オレの表情がいつまでたっても悲しげなままなことに、遂に観念したのか、渡辺さんは絞り出すような声でもう一度確認した。
「………間違い、ないのか」
「人糞です。」
「ああぁぁああぁあああああ!!!なんでだよおおおおおおお!!!!
ファック!!ファック!!ファアアッック!!」
人間が生きていくためには、「理屈」は必ずしも必要でない。
だが、納得し、心の内で消化するための「理由」は不可欠である。時としていきなり牙を剥く現実に対して、人間は、悲しいほどに無力だ。錯乱して接客カウンターにつっぷした渡辺さんの、震える背中を見下ろしながら、オレはぼんやりと、この場合FuckじゃなくてShitが似合うんじゃないかなとかそんなコトを考えていた。
そして。
「……じゃあ、行ってくる」
両手に水仕事用のゴム手袋を装着し、タオル二重巻きで銀行強盗のような覆面を施した渡辺さんの笑顔を、オレは忘れることができない。
それは、あらゆる憎悪と悲嘆を超越した、神のアルカイック・スマイルだった。
死を受容した人間にのみ許される、特攻隊の笑顔だった。
全ての平穏は、理不尽で突発的な暴力によって、たやすくブチ壊されるだろう。
気持ちはとてもよく分かるが、瓦礫の上、過ぎ去りし安息を恋い焦がれ、ただ涙を流すは愚かなる所作だ。
状況は打破され、日常は回復されなければならない。
遙かなる平穏、それこそが幸福であるのだ。