小さい頃から、よくウンコをしたくなる子どもだった。
そもそも、女の子が一般に便秘に苦しんでいる一方で、慢性的に下痢気味の男って多いのだが、その中でもオレはとくに新陳代謝が活発なタイプだったのかどうなのか。ちょっと給食を食い過ぎたりしたらもうテキメンにダメで、午後の授業はいつも便意と戦っていた。
言うまでもなく、ウンコをすることは、小学校生活における最大級のタブーの一つだ。同じように授業中お腹が痛くなっても、保健室に行けば正義のヒーロー、便所に行けば邪悪なピカレスクである。個室にチェックインするところを運悪く誰かに目撃でもされようモノならば、「便所マン」なるとってもありがたくないニックネームを頂戴し、少なくともその学期いっぱいは、一人寂しく校庭で石ころを蹴飛ばすハメになる。
しかし、だ。それとて決して最悪の状況ではない。
決壊。
チェルノブイリの悪しき前例が示すとおり、メルトダウンの被害は近隣周辺あまねく一切にもれなく拡散する。例え目に見える影響が消えても、汚染は潜在し何年にも渡って継続する。
禁忌を犯した者への最も一般的な烙印「ウンコマン」の場合、その効果はマジで一生ものだ。「便所マン」が油性マジックで書かれた落書きならば、「ウンコマン」は刺青なのだ。同窓会の往復葉書にも、特になにも用事がないのに思わず「欠席」に丸をつけてしまう、絶大なトラウマを残すことになる。
そんな悲劇を回避するためにも、「先生、トイレ行っていいですか」とそっと手を挙げる、小さな勇気を持つことをお勧めする。それができなかったかつての同級生、石川は、同窓会に絶対に来ない。
実際、そのいさぎよい引き際さえ心得ておけば、ウンコをガマンするのは考え方次第で楽しくもある。
ありとあらゆる物質、欲望が飽和状態にある平和なこの国で、死と隣り合わせのヒリつく感覚は貴重だ。スリルはいつだって甘美である。
体中に吹き出す脂汗、次第に波長を縮めていく陣痛の波。 時折襲うビッグウェイブを、括約筋に細心の注意を払ってひとつひとつクリアしていく緊張感。 凝視すればするほど、時計の針の進行は遅くなっていく。秒針の間隔さえ無限を孕んでいるかのようだ。 恋い焦がれるはあの静謐に満ちた個室。マルセル・デュシャンが泉と称したそのフォルム。愛しき陶器の白くなめらかな肌。 狭まる視界、遠くなる音声。やがて世界から光と音が消失し、完全な孤独の中に取り残されるのは、自己という存在のみ。下腹の辺りに脈打つ激痛、それこそは生の鼓動である。おお、神よ!
やまない雨は無く、明けない夜もまた無い。いかなる苦難にも、かならず終焉の時は来る。己に負けそうになった時のために、このことは心に刻んでおくべきだろう。
というワケで、諸君のご健闘とご武運をお祈りする次第なワケだが、最後にひとつ。
遂に終業のベルが鳴り、勝利を確信したならば、その瞬間からオレはわざとゆっくり行動する。 焦って駆け込むような野暮はしない。的確に見極めた限界ギリギリまで肉迫していく。やがて訪れる釈放の瞬間を、思い切りドラマティックに演出してやるのだ。
ウンコライフを楽しむための、コツのひとつである。
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