惑惑コミュニケイション










「課長」
と、斜向かいのデスクから呼ばれた。
奴は部下で、スズキと名乗っているが、本当のところはわからない。
「3番にお電話です」
卓上のデスクに置かれた多回線の電話器に目をやると、確かに3番の横のダイオードが点滅している。保留中であることを示すサインだが、実際に俺宛ての電話かどうか疑わしい。いやそれ以前に、俺を欺くことに仕事の何十倍もの情熱を傾けている課の部下達の言動を考えれば、そもそも本当に電話がかかってきているのか。自称スズキが電話を取ったとすれば、同時にこの電話も鳴ったはずだが、生憎確かな記憶がない。
この課に宛てて外線が入ると、各自のデスクの上の合計六台の電話が一斉に鳴る。
が、最初に電話をとるのは課長である俺の仕事ではなく、そのことが既に日常化した今では、呼出音が耳に入らないことも多い。俺に恥をかかせようとして、昨夜のうちにスズキが、俺の電話に細工を施したということも考えられる。

「誰からだ」
「ヱスビーのカトウだと言ってますが、どうだか」
自称スズキはいひひと笑った。
カトウというのは、取引先である大手食品会社の営業部長が、名刺に印刷している名だ。大口の得意先だけに、万が一失礼があって、臍を曲げられては事、という相手である。
俺は舌打ちをした。騙されると半分がたわかっていて、それでも電話にはでなければならない。下請けの辛いところだ。
スズキのニヤニヤ笑いを横目に、歯がみしながら受話器を取り上げ、3番のボタンを押す。

「もしもし、お電話代わりました」
「…………」
数秒の沈黙があった。
「もしもし? 課長のサカタでございますが」
「……本物だろうな?」
聞き覚えのある声だった。確かに、プレゼンなどで顔を合わせるカトウの声に酷似しているが、まだ安心はできない。それは向こうも同じことなのだろう。

「間違いなく、サカタでございます」
「…じゃあ、先月の16日、お前が俺を接待したキャバクラで、それぞれ三番目についた女の子の名前を、俺、お前の順で答えろ」
「ばななちゃん、みかんちゃん」
「みかんちゃんの方が可愛かったぞ。普通ああいう場合、可愛い方を顧客に譲るもんだろう」
「でも部長、気に入ってらしたじゃないですか、ばななちゃん。『よっしゃよっしゃ』って何度もおっしゃって」「…………」
俺がそう言った途端、カトウは再び沈黙してしまった。
「……部長?」
「……あれな。オカマだった」
カトウの声からは、苦汁が滴っていた。
俺は返す言葉もなく、カトウが気を取り直すまで、何十秒か待たなくてはならなかった。
「……どうやら、本物のサカタの様だな」
「すると部長、あの後も、あの店に?」
「…何度か、な」
ははあ、と俺は事情を理解し、同時にこの電話の用件にも察しがついた。
カトウは、ばななちゃんにすっかり入れ揚げ、あの店に通い詰めたのだ。首尾よく「いい仲」になったところで蓋を開けてみたら、文字通り「ばななちゃん」だったという訳だ。
俺は内心、せせら笑った。人間を外見だけで信用するから、そんなことになる。
大方、税務署の会計監査の情報でも入ったのだろう。溜りに溜った挙げ句、接待費用で落した領収書の日付けに、口裏を合わせろと言うつもりなのだ。

実際その通りで、俺は快く承諾し、カトウの申告した日付を書き取った。
驚いたことに、一月弱の間にカトウは、18回もその店に顔を出していた。平日は、ほぼ毎日である。こんなペースの接待を税務署が見逃すかどうか甚だ疑問だが、引き受けてしまった以上まあ仕方あるまい。
「……以上で。はい、承知いたしました。全く、とんだところにお連れしまして……ええ。この埋め合わせは、近々、必ず。はい。では、はい。失礼いたします」
相手が切るのを待ち、受話器を戻す瞬間、スズキが口惜しそうに視線を落したのを視界の隅で捕らえた。どうやら、ずっと俺の様子を観察していた様だ。
俺は微笑した。
さては、やはりスズキの奴、デタラメな名前を俺に申告したに違いない。言うまでもなく、最初の段階でカトウが偽名を使ったせいだ。結果的に、俺を陥れようとしたスズキの策略は裏目に出、電話の相手を正確に伝えることになってしまった。

当然のことだが、他人を欺こうとする際には、自分はその上手をいっていなければならない。まずは前提条件から疑ってかかることが不可欠だ。
俺は、スズキの「若さ」にむしろ好感を覚えると同時に、そこまで計算していたカトウのしたたかさに舌を巻いた。女が絡むと途端に無防備になるところを除けば、カトウにはほぼ隙がない。
しかしまた、そのくらいしたたかでなければ、世間を渡っていくことなどできはしないのだ。自分の周囲に二重、三重のガードを張り巡らせ、他人からの悪意に対して万全の備えをする。迂闊に心を許し、相手を信用するのは愚の骨頂だ。
所詮、他人が何を考えているかなんて、わかったものではないのである。


屈辱で顔を赤く染めたスズキはその日、その後も決済伝票の額面をわざと誤ったり、俺用の会議資料を白紙の紙束とすり替えようとしたり、様々な謀略をしかけてきた。いずれも子供のいたずら以上のものではなく、俺はそれらを鼻先であしらい、定時に会社を出た。



新宿にあるいつものバーのとまり木で、待ち合わせをした恋人を待つ。張りつめた生活の中で、唯一安らぎを実感できる時間だ。
「お待たせ」
俺の好きな、若者らしい黒のナイロンジャケットに、濃いグレーのコットンパンツ姿。ホモである俺の恋人は、いつもの様に少し遅れてやって来た。
まだハタチの大学生だが、世界中でただ1人、俺が心を許すことができる対象だ。女と付き合っていては、こうはいかない。

毎度の様に、自分達がいかに自然な存在か、という話題が中心を占めた。
酔いも手伝って、ついつい饒舌になる。
「……そもそも、男と女っていうのは、脳の構造からして大きく違うわけだ。問題に対処する回路の前提が異なるんだから、お互いに理解しあえると思うのが間違っている。それは錯覚か、さもなければ欺瞞に過ぎない。根本的な部分で理解できない、そんな相手を信頼し、愛するなんてできると思うかい? さっき話したカトウさんだって……まあ、あれは結局、相手がオカマだったわけなんだけれどね」
思い出すと、くすくすと笑いが込み上げてくる。
しかし、彼の様子が少しおかしい。普段なら大笑いするはずのところでも、曖昧な表情を返すばかりで、普段の快活さが影を潜めている。
何か、悩みがあるのだと直感した。
「どうか、したかい?」
「……うん」
小さく相づちを打って、伏し目がちに黙り込んでしまう。そう言えば、目の前のカクテル・グラスにも、殆ど口をつけていない。と思うと、やおらグラスを取り上げ、一息に飲み干した。
「……おいおい」
口当たりはいいが、強いカクテルだ。彼はそんなにいけるクチというわけではなく、今の一気飲みではや目が潤み、焦点がぼやけている。
その目を、意を決したようにこちらに向けた。
「話があるんだ。場所、変えない?」
訝りながらも、俺は頷いて、伝票を取り上げるしかなかった。



近くのビジネスホテルで、二人きりになった。
よく利用する隠れ家だが、今日は少し時間が早い。率先して風呂の準備をするでもなく、並んでソファーに腰掛け、ハイライトに火をつける。
たっぷりとした間を置いて、二本を灰にしてから、俺は促した。
「……で、話っていうのは?」
「…………」
言いにくそうに口篭る彼の左肩に、回そうとした俺の左腕が、
「好きな人が、できたんだ」
空中で静止する。

宙に浮いた手のやり場に少し思案し、結局、またしてもテーブルの煙草へと持っていくことにした。
「っていうよりも、できてたんだ。少し前からつきあってる。同じ大学の」
大体のところ、その先が読めた。
「……女の子」
ゆっくりと煙を吸い込み、吐き出した。
煙は一定の高さまでゆらゆらと昇り、その側からエアコンの風に吹き散らされていく。
「……なるほど」
俺は、落ち着いていた。
「……君は、バイセクシャルだったのか。……まあ、だとしても僕は別に構わないよ。嫉妬なんて愚にも付かない感情に、振り回される年でもない。僕らの関係には支障がないんじゃないかな。そうだ、今度三人でメシでも食いに行こう。叔父とでも紹介してくれれば…」
「駄目なんだ」
彼は、小さく首を振った。立ち上がり、向き直った視線に、見たことのない光が宿っている。
「サカタさん、オレは残念ながら、バイセクシャルでもない。完全なノーマルだよ。男であるあんたに、愛情を感じたことなんて、一度もない」

実際、彼は中々の役者だった。
彼が見せた笑顔、涙。ある時は態度に滲み出、また別の時には苦しげに吐露した、感情。
それら全ては、偽りだった。
「全く、オスカーでもプレゼントしたい気分だ」
改めて心底感心し、俺は嘆息した。
「なるほど。だったら、僕に近づいた目的はやっぱり……」
彼は冷笑を浮かべた。
「お金だよ、サカタさん。オレがあんたみたいなハゲ、本気で相手にしてるとでも思った? あんたがオレに勝手に熱上げて、片端から奢ってくれるから、甘い目してあげてたんだ」
俺は、黙って聞いていた。酷薄な彼の言葉は、勢いを増して尚も続く。
「全くさあ、いつもいつもしつこいくらい嘗め回して、あんた変態だよ。いま思いだしても、鳥肌が立つね。バカみたいに騙されて、ヨダレ垂らしちゃってさあ。ほら、これがホントの、オレの彼女。ね? あんたみたいなハゲオヤジと、比べるのも失礼でしょ?」
突き付けられた携帯電話には、縦長のプリクラが貼られていた。ショートカットで目ばかりやたら大きな少女と彼が、精一杯見栄えのする表情で写っている。
「言っちゃ悪いけど、今年の学祭のミスコンにもエントリー……なに? なんか文句あんの?」
プリクラを一瞥し、俺はゆっくりと立ち上がった。
少し上背のある彼と至近距離で向き合うと、下から見上げる格好になる。
「怒ったの? 騙されたからって、変態のくせに? いっとくけど、今の憲法では、あんたみたいなホモには、人権が認められてないんだよ? だから、騙そうが何しようが、文句言う権利なんか、あんたには……」
無言のまま、ボタンに手をかけ、上着を脱ぐ。引き抜いたネクタイとワイシャツの衿が擦れて、しゅるっと音を立てた。
彼は一歩後ろに下がり、間合いをとった。
「殴る気? それとも、そのネクタイで首でも締める? あんたみたいなおっさんが、オレに勝てるとでも…」
バーコードに良く似せた頭皮に手をかけ、一気に毟り取った。セミロングが、ばさりとこぼれ出て、彼の両目が二つの満月になる。
頭を一つ振って、俺はワイシャツのボタンを引きちぎり、出っ張った下腹を形作っていたシリコンの肉襦袢、次いでその下に蒔いていたサラシを解いていった。我ながら完璧なプロポーションを隠すため、力任せに締め上げていたので、解放感も一際だ。
最後に、顎の辺りの継ぎ目に手をかけ、顔全体を覆っていた特殊な樹脂のマスクを、殊更ゆっくりと時間をかけて、剥がしてやった。



全く、スズキといい彼といい、呆れるほど素直で困ってしまう。
「……何で裸にならないのか、不思議に思ったこと、なかった?」
思考が麻痺し、アルツハイマーの老人の如く腑抜けてしまった若者に向かって、初めて、色を変えない声をかける。

「あなたがノーマル? そんなの、最初から気づいてたわよ」
それは、鈴の音のように、室内に響いた。











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