をなにいといふもの








男にとってオナニーは、何者の干渉も受け付けない、唯一の聖域だ。



終止秘密裏に、あくまでも個人的に行われるため、そのテクニック、タクティクス、ロジスティクスがパーソナルな領域を逸脱することはない。
かなり親しい友人同士でも、他人のオナニーの全貌は秘密のヴェールにつつまれているものだ。それ故に、みんな同じようなやり方をしているもんだと何となく思いこんでいる節があるが、その実体は多様を極めていたりする。
これが、セックスに関する事柄、つまり性癖や過去の武勇伝といった話になると、案外おおっぴらに話題になるもので、男同士なら友達のそういうのはかなりの部分、把握していることだろう。
試しにアンケートをとってみるといい。「オナニーのやり方? いや普通だよ。まず正座するでしょ」なんて言い出すのだ。



女の子にとってのオナニーは、あくまでも疑似セックスである。特定の相手がいて、性的に満たされた状態でなおオナニーに耽る、という女の子は少ない。
そして、広く言われているとおり、男にとっては必ずしもそうではない。彼女がいてもオナニーはする。結婚しても多分する。それは男にとって、オナニーとセックスとが全く別の衝動に根ざすものだからだ。


目標を持たず、闇雲に放出されるベクトル。結果を要求しない、純粋な手段。刹那の快楽が駆け抜けた後に余韻すら許されず、ただ茫漠とした無常を悟るだけの行為。
オナニーは慰めなどではない。破壊である。創造の端緒たるセックスとは、全く相反する事象だ。
そして男がオナニーに依存するのは、破壊衝動をその心理の奥底に抱いているからに他ならない。


育む役割を奪われたオス、即ち男性性は、代わりに課せられた莫大な無為の時間を、ひたすら戦い、あらゆるものを浪費し、破壊し、殺戮することで充当するしかなかった。だからこそ、そうした欲望に、本質的宿命的に絡め取られてきた。
オカズにする対象を徹底して汚し、無防備な己を自殺行為的に暴露し、手のひらとの摩擦でチンコの表皮を擦り切らせ、何億もの自分の分身を一瞬に葬り去る、その行為になんの意味もないことは明白だ。
一切の生産性は初手から放棄されている。
男達は一心に、己の肉体に挑みかかり、浪費し、殺す。そしてそれ以外にこれといってすることがない。


女は育み、男は殺す。
女は蓄え、男は費やす。
女はセックスに依存し、男はオナニーに依存する。
つまるところそれが、与えられた役割だからだ。



そして、社会的モラルがそれを禁じる。
破壊衝動の発露たるオナニーは、その流布を恐れられ、個人という枠組みへと押し込められていく。他者とのインターフェースを奪われたまま、独房のような閉塞の中、それでも己の本能によって個人的に見出され、独自の発展を遂げていく。必然としてその様相は多様化し、さらに独善の色合いを強くする。


横になった体勢ならば仰向けか横向きか、座るにしても椅子、胡座、果ては正座。
風呂場にエロ本を持ち込んでするのが習慣だったせいで、立った状態でないとダメという落ち着きのないヤツがいれば、床にティッシュを敷き詰めて、手を使わず俯せにはいずり回るという秀逸な戦術も存在する。
チンコに添える手のポジションとても無論一様ではなく、器用な利き手で細やかな快楽を追求する者、あえて逆の手を用いて、意のままにならないもどかしさに楽しみを見出す者。手のひら全体で包み込むばかりではなく、指ならばスコッチさながらシングルダブル、或いは上下運動では刺激が足りず、亀頭を直接こねくり回す武闘派もいる。


ちなみにこれらは、全て本人から直接聞いたサンプルだ。仲間内だけの狭い世界においてすら、これだけ様々な事例が報告された。
まして世界は広い。
密教の古い寺院に代々伝わる幻のオナニーなんてものが存在したとしてもマジでなんら不思議ではない。
あまりにも凄まじい快楽のために、その影響力を恐れた時の権力者に弾圧されながらも、嫡子だけにひっそりと相伝されてきた秘術。それはまず「気を錬る」ところから始まる。チャクラの全てを解放し、それだけではエントロピーの法則によって無限遠へ発散しようとする気を留め、体内に収束させていく。充分に内圧が高まったところで、頭頂部から胸、腹、臍下丹田へと順を追って気を通じる。爪先から世界に返す。ゆっくりと内外を循環させ、自然界と己の肉体とが一本の円環を成す。
融合は果たされ、精もまたその導く摂理に従ってみなぎり、充実する。
放たれる。
大地に回帰する。



しかし、そこに花の咲くことはない。










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