忘れ得ぬ出会い/「潮」創刊35周年記念原稿募集入選

「二つの出会い」 滝澤主税

 松本の沢村に一志茂樹先生を訪れ、作成した長野県町村変遷表の草稿と、上田市の字境図の下書きをお見せした時、先生は「滝澤君、貴君は他の“面白おかしい仕事”に頭を突っ込んで はいけない。これだけやりなさい。長野地名研究所を作って、その名称でやりなさい、私がやりたいと思ったことだ。またやらねばならぬと思ったことだ。何度そう思ったことか知れぬ。だがもうこの年齢ではできぬ。君がやってくれ。焦らず慌ててやってくれ。」と申されて私の手を握ろうとなさったが、その御手はすでに御病気で痙攣されておられた。私は先生の御手を握って、わかりました、きっとやり遂げますと申し上げると同時に、あの沙翁(シェークスピア)のハムレットの中の”We should do,when we would do.”という詩を思い起こしたのである。そしてこの時、私の生命の中で、慢即法界(まんそくほっかい)と開いた思いがあったのである。 

 しかし仕事に着手した私は、直にこれが容易ならぬ至難の仕事であることを知った。申し訳ばかりに形ばかりの長野県地名研究所を創設したのが、昭和60年2月26日であった。この翌日、一志先生は死去された。私には仕事の完遂だけが遺言として遺されたに似ていた。

 地名を収集して県内を渉猟(しょうりょう)する私達夫婦には、経済的な何らの保障もなかった。有料道路の料金がなくて迂回したこともあった。煙草もやめるしかなかった。伊那谷の奥地で、そぼ降る雨に打たれて、私に隠れて泣く妻を私はなぐさめる術もなかった。しかし仕事の完遂をめざして何度か挫折し、何度か回復した。

 1セット15万円もする絵地図大鑑全5巻を発刊したり、県内の全地名を収録した字(あざ)地名大鑑も発刊した。県知事をはじめ、多くの著名なスポンサーや県内外の地方史の学者達は、正しく一志茂樹先生の意図した地名資料として高く評価してくれた。

 しかし長野県地名研究所設立の満5年目の当日、平成2年2月26日、妻は病で死亡した。私のショックは大きかった。

 だが今日、私は相変わらずこの仕事を続行している。私を挫折から救うものは、妻との出会い、そして一志先生との出会いである。この2つの出会いが、私の残された生涯の残された仕事に、大きなはげましになっているのである。そしてこの2人の生命も、私が残すであろう仕事の中に、燦(さん)として輝いてくれることであろう。