これは信州民報 に2003年8月に掲載されました。
◆上田から和田村へ 転居して十年になるというのに、いまだに「ふるさと上田」の町名復活運動が気にかかる。
そろそろ風化しかかっているようである。私は今までに二度の町名復活運動を試みたが、二度とも成果を得ることはできなかった。過去の経緯を述べて第三次の町名復活運動の成功を祈るものである。
◆上田の町名が消えたのは、昭和四十四年 (一九六九)六月定例会で「上田市住居表示に関する条例(昭和四四年条例第三十四号)」が議決され、同年九月一日から施行されたことに始まる。もう三十年以上が経過している。 小山一平市長のときで、市議会は松野量平氏が議長であった。上田市には黒坂周平先生をはじめ歴史に詳しい良識ある方々も多くいらっしゃったが、この条例が文化破壊に繋がる悪法であるとは、誰も気づかなかった。無理からぬことであった。
◆この条例成立の経緯は、昭和三十七年(一九六二)五月十日法律第一一九号で施行された「住居表示に関する法律」の影響によるのであるが、この法律は東京都のガス検針業務の不便さを訴えて東京ガスが中心になって自治省に働きかけて成立したものである。戦後の復旧に押されて、町名・番地の活用に利便さを与えようとする動きは至極当然のことではあつたが、番地の整備が町名・地名の改正にまで及び、地域の歴史・伝統・文化を背負って生き続ける文化財である地名の、生存を脅かしその絶滅につながることに気づくまでには、まだかなりの時間を要した。
◆この住居表示法に県内でまっさきに反応 したのは岡谷市である。市長は林浩正氏のときで昭和三十九年五月十六日条例第二十六号を制定した。岡谷市は、いわば住居表示法の先進都市であったわけである。これで岡谷の蚕糸都市の由緒ある町名はことごとく消滅し、岡谷市のドまんなかに「銀座」なる新町名が出現して翠壁を買った事件であうた。
◆上田市の新町名表示の改定作業は、小山一平市長の指揮のもと、事務局長には若林正吾君が担当した。私は上田に居なかったが、町名改定作業が困難を極めたことは、今日の市町村合併に見られる「新市名の選定騒ぎ」からも充分に推定できるであろう。誰でも由緒ある海野町や原町の町名を捨てることに賛成する者が居るわけがない。はては連歌町や錦町までも存在を主張するようになると、改定作業は壊滅状態に陥らざるを得なかった。親友であった若林正吾君は生前に「やるんじゃなかった事業だった」と述懐していた。
◆地名改定の歴史は、明治八・九年と明治二十二年の二度の明治の市町村大合併及び昭和二十九年に始まる昭和の市町村大合併、更に昭和三十七年の住居表示法施行及び平成の市町村大合併の都合五回の不幸に見舞われてい る。
◆明治の大改定では、県内の村々は大恐慌を招き、笑えない悲劇があちこちで起きた。
◆現在の南木曽町に明治七年に「読書村」が出現した。「よみかきむら」と読み、明治第一次の町村合併で与川村・三留野村・柿其村の三村合併で考案し た村名である。現在長野市の「七二会村」は、大安寺村・倉並村など七村と古間・坪根の二枝郷の合併で付けられた新村名である。阿南町にあった「富草村」は、合併に参加した十三の村をもじったものであり、ともかく新村の繁栄を祈って「富」・「豊」・「栄」などの文字が盛んに使われて新村名が作られたのであり、県庁書庫に遺されている申請書を見ると、当時の村民の苦心の跡をうかがい知ることができる。
◆上田市の住居表示条例の実施作業でも、新町名の選定は、困難をきわめた。「中央」なる町名が候補に挙がると、我もわれもと「中央を欲しがり、原町・ 海野町が「中央」ならここは「中央北」だ、「中央西」だ、はては「中央東」まで出現し、上 田じゅう「中央」、「中央」で大の大人が迷子になる始末。大名屋敷 が軒を並べる三丁四十四間の「進参町」は、新参者の町と間違われて嫌われ、「大手」となり、常田、踏入、天神だけが辛うじて由緒ある地名の痕跡を遺し たのである。
◆小山一平市長は国会議員になられると、上田市長時代の住居表示条例の制定が呼んだ町名廃絶の事態を悔いて、衆参合同で党派を超えて「地名を守る会」を結成した}けだし大人の度量の方であると尊敬している。
◆住居表示改正の作業は三次に亘って行われた。
第一次は、昭和四十九年九月一日実施の「二の丸」、「常磐城」一・ ニ・三・四・五・六丁目、「緑が丘」一・二・三丁目であり、第二次 は、昭和四十六年八月一日実施の「天神」一・ 二・三・四丁目、「大手」一・二丁目、「中央」一・二・三・四・ 五・六丁目、「中央北」 一・二・三丁目、「中央西」一・二丁目、「中 央東」である。第三次は、昭和四十八年三月五日実施の「常田」一・ 二・三丁目、「踏入」一・ 二丁目、「材木町」一・ 二丁目、「常入」一丁目、 「国分」一丁目である。
◆真田が上田城を設計した区域をとりあえず「上田城下町」と呼ぶと、この上田城下町の区画は元来、常田村、房山村及び鎌原村の三村のそれぞれ一部を接収したものである。「字」 というものが何時ごろどうやって決めてつけられたか不明であるが、この上田城下町の区画には、次に掲げる「字」が存在し、法務局の土地台帳にも地籍図にも掲載され、自治会の名称にも用いられており、「字名」と「町名」とが完全に一致するという全国的にも珍しい地域なのである。いわば 住居表示法適用で新町名を設ける必要がまったくなかった区域なのである。
◆この「字名」を現在の住居表示名と並べて掲げると、次のとおりであり、字の区画は完全に消滅してしまったのである。
鷹匠町 [中央一丁目]
横町 [中央2・(一部中央1・中央3)]
上常田町 (本町) [中央1・中央2]
下常田町 (本町) [中央1・中央2]
海野町 [中央2(一部中央3)]
袋町 [中央3]
原町 [中央3(一部 中央3・中央4)]
馬場町 [中央3]
鍛冶町 [中央6(一部中央2)
上鍛冶町 [中央5・中央6]
川原柳 [中央5(一部中央東)
上房山 [中央5]
幸町 [中央5]
下房山 [中央5(一部中央3・中央4)]
柳町 [中央4(一部中央3)]
木町 [中央4]
下紺屋町 [中央4・中央西1]
丸堀 [中央4・大手2(一部中央3)]
新参町 [大手1・ 大手2(一部中央2・ 中央3)]
旧館 [大手1(一部二の丸・中央2)]
厩裏町 [大手1]
上田 [二の丸]
葭原町 [中央西1(一部二の丸・中央4)]
紺屋町 [中央西1]
鎌原 [中央西1]
上須波 [常磐城1]
下須波 [常磐城2(一部常磐城1)]
上田城廻り [常磐城1(一部二の丸)]
下城 [常磐城2]
泉之郷 [常磐城3]
諏訪郷 [常磐城3]
生塚 [常磐城4]
◆こうして上田市の住居表示改正は、今日に至るまでいまだに定着せず、失敗に終わっ た。
◆地名運動を川崎市で始められたのは、民俗学者・谷川健一先生であった。
昭和五十六年(一九八一)四月十七・十八日、川崎市で「地名を通じて地方の時代を考える全国シンポジュウム」を開催、日本地名研究所が設立されたことを私が知ったのは、昭和五十八(一九八三)であった。川崎市の全国シンポジュウムとほぼ同時に私が上田で旧町名復活運動を始めたのは、二十年前の昭和五十七年の正月であった。
◆町名復活運動といってもチャチなもので、私製ハガキに旧町名を刷り込んで配布し、「知っている」町名に○印をつけてもらったので ある。
配布先は、昭和二十九年塩尻村川辺村合併以前の旧上田市の千曲川右岸一万二千世帯にランダムに四千二百枚である。配布したのは私の子供たちで、犬に吠えられながら配って歩いた。多くの方々から激励と同感の手紙をいただいたことは、いまだに忘れることはで きない。なかには運動資金にとお金を送ってくださる方もおられた。
◆記載した旧町名を調査知名度の高い順に配列すると次のとおりで、括弧内は調査結果の知名度のパーセントである。
海野町(99) 原町(98) 鷹匠町(95) 馬場町 鍛治町(90) 花園 房山 大門町(85)
袋町 横町 踏入 木町 北大手 愛宕町 柳町 諏訪部(70以上)
西脇 生塚 日の出町 権現坂 川原柳 鎌原 丸堀(60以上)
田町 大工町 泉町(50 以上) 桜木町 下道 相生町 新参町 前田町 土橋 坂下 弁天前(40以上)
連歌町 車坂 錦町 七軒町 金山町 仲町 坂井田町 大正小路 下河原 赤松町(30以上)
幸町 蛭澤川 蚕影町 廐裏 水道町 棗河岸 松原町 電信小路 鼠小路 切通し(20 以上)
福神町 百間堀 櫓下 片平町 仙石町 熊野小路 六段小路 新小路 細田小路 源兵衛坂 島八小路 牢屋小路。
以上六十五の地名を選択したが、このなかには自治会名と合致するもの二十二を含んでいる。
◆年層別知名度を見ると、十代二九・四%、 二十代四一・九%、三十代五五・四%、四十代六九・九%、五十代七六・一%、六十代八十一・一%、七十代八五・一%、八十代以上八六・○%という結果であつたが、この知名度八十パーセント以上の方々は、三十年後の今日はもう既にこの世においでにならないであろう。更に、当時二十代で知名度四十パーセント以上であった方々も、今日は五十代になられているわけであるが、三十年間の「中央、中央」に習慣付けられて「そんな旧町名があったなァ」と懐かしがる程度が実情であろう。
◆中学校へは一中・ 二中・三中、各七百枚を配布し全てを回収したが、年齢による知名度の増加は当然明白であったと同時に、その居住する地域の地名の知名度が極度に高いことを知った。地名は使えば生きながらえ、使わなければ死滅することを如実に物語ってい た。
◆その後、松本市で青年会議所主催の「城下町シンポジュウム」 が行われ、一志茂樹先生亡き後の原嘉藤先生が松本の町名改悪の張本人かのように批判され槍玉に上がった分科会で、私は地名保存を主張した原先生側の無力さよりも、地名を大切に考えていない住民の側の責任のほうが大きいと述べて原先生の弁護に立った演説をしたことを覚えている。上田も同様であった。小山市長、松野議長の責任よりも、当時の上田市民が地名・町名が実は大切な文化的資産であることを知らなかったことが間われるべ きである。
第二次町名復活運動は、永野市長の公約に由来した。 平成元年十一月十三目、上田商工会議所で開催された「上田・城下町活性会旧町名復活研究打合せ会」において、私は上田市の旧町名復活のための「住居表示に関する条例一第二条の規定による告示原案の作成を委託された。会頭が堀謙三氏のときのことである。
委託原案は、二百十四頁に及ぶ大冊で、「原町」を例にとると、「中央三丁目○番×号」を「原町○番X号」とし、なるべく既になじんだ○番X号をそのまま踏襲し、「中央三丁目」を旧町名の「原町」を用いるように工夫したものである。
住居表示に関する法律は、その第二条で「街区方式」と「道路方式」の二種類を示し、このいずれかによれと指示している。上田市の条例は、この街区方式を採用したのであるが、上田市が「字」 と「町区分」及び「自治会の区画・名称」の三つが一致するという特殊な地域であることに着眼たならば、決して「街区方式」を採用しなかったはずであり、少なくとも「道路方式」を採用してこれを応用することにすべきであった。これを゜自治会方式」と名づけるとすれば、「自治会方式」は 伝承・歴史・文化を背員った町名として都市の活性化に大いに役立ったことであろう。さりとて「字名」のすべてを「住居表示」に組み入れることは適当なことではなく、「自治会名」になっているものを選定することが妥当だと思う。平成二年四月三十目提出の私の「復活案」の「趣旨」には、「幸いなことに上田市では、自治会制度が堅固であり、しかも殆どの自治会が旧町名を自治会名としており、また、自治会の区域は厳正に旧町名の区域を踏襲しているのであります。住居表示条例実施以来、実に二十年を経過しているのに、未だに「中央○丁目」式の地名が定着せず、旧町名が市民の日常に生きているのは、上田市の堅固な自治会制度のお陰であると云っても過言ではありません」と書かれている。
永野市長の選挙公約であった町名復活は、任期中に実現しなかった。
市役所の事務局は、故・茅野清君と補佐として田古島博志君が担当したが、最後はずさん極まりないアンケートなるものを楯にして作業を中断した。統計資料としてのアンケートならば、ランダム方式で母集団を選定し、回答結果を分析すべきものであるのに、このとき上田市が実施したアンケートなるものは、およそ「統計」と呼ぶことはできないものであった。私は大学中のアルバィトで杜団法人目本輿論科学協会に永く勤務したので、白信をもって断定することができる。この事件を契機に私はふるさと上田から和田村へ転居した。
最後に、私の平成二年の「上田市旧町名復活案」の概要を紹介し、ご検討をお願いするものであ る。
@この町名復活案は、中央・中央東・中央西・中央北という名称が付いた街区符号を廃止し、新たに現行の自治会名を街区符号として用いるものである。
A街区の区画は、現行の自治会の区画を用いる。
B住居番号は、できる限り従来のものを踏襲する。
Cこの町名復活の作業は、昭和四十六年八月一目に施行された第二次住居表示変更のうち天神一、二、三及び四丁目並びに大手一及び二丁目を除く区域、すなわち、中央、中央西、中央東及び 中央北の各丁目である。
Dこの作業により復活になる町名は、次のとおりである。
1末広町 2松尾町 3鷹匠町 4本町 5横町 6海野町 7鍛治町 8袋町 9馬場町 10原町 11丸堀町 12北大手町 13下紺屋町 14新田一丁目 15新田二丁目 16新里二丁目 17上紺屋町 18木町 19柳町 20下房山 21上房山 22田町 23上鍛冶町 24下川原柳 25上川原柳一丁目 26上川原柳二丁目 27愛宕町
E中央一丁目、二丁目及び六丁目のそれぞれ一部は、町名復活の区域外であるので、次の街区を新設する。
28天神一丁目10番 29常田二丁目37番、38番、39番、40番 30材木町三丁目1番、2番、3番、4番、5番、6番、7番
F新田自治会及び上川原柳自治会は、区域が広大でありながら、その一部に住居表示条例が適用されているだけであるので、次のように街区を設定して大字地番を廃止し、住居表示条例を適用した住居番号に改める。
T 既に住居表示条例が適用されている区域
新田一丁目1番29番
上川原柳一丁目1番12番
U 今回新たに住居表示条例を適用する区域
新田二丁目1番13番
新田三丁目1番16番
上川原柳町一丁目6番20号21号
上川原柳町一丁目13番
上川原柳町二丁目1番14番
この復活案は、大部分が従前の番・号をそのまま踏襲することができるが、住居表示条例で字区分や自治会区分を無視して設定した区域は、複雑な読み替えを必要とすることになることを了とされたい。この比率は、約 パーセントが踏襲できる。 なおこの復活案の原本と参考地図は、上田商工会議所事務局長越健市氏が保管されておる。 終