信濃国絵図は、県の指定文化財で「紙本墨書著色正保の信濃国絵図」[昭和49(1974)年11月14日県宝指定]があるが、すべて小判型地図であって、もちろん村境界線などはない。
昭和57(1982)年6月、松本の沢村に一志茂樹先生を訪ね、労作の上田市の字境図と長野県町村変遷表をお見せしたとき、先生は私に「復元信濃国絵図」の作成を指導し、長野県地名研究所の設立を命じられた。字境図及び旧村図は、地方史研究の基本的資料と考えられたのである。
すなわち例せば、長野市は権堂村等172の旧村で構成されており、更にその旧村は4024の字(字)で構成されているのである。
今日のように町村合併が進んでしまうと、江戸時代乃至明治初期まで存在していた信濃国を構成していた旧村1880村の存在は忘れられ、ましてやこの旧村1880を構成している152.750の字(あざ)の所在も存在も度外視され、地域住民の土着の精神を忘れた方向に時代が流れてゆくことを恐れられたに違いない。
爾来私は、一志先生の末席の弟子として、先生の命令を遵守した。なんらの経済的保障のないこの仕事に没頭してみて、信濃国絵図は、長野県の存在する1880の旧村を構成する「字」の境界線を図示しなければ描くことはできない膨大な作業量であることを知った。
半ば失意のうちにかたちばかりの長野県地名研究所の設立を行った昭和60(1985)年2月26日の翌日6時7分、93歳で一志先生は亡くなられた。先生の命令が遺言になってしまい、挫折を許されなくなった私は、妻とやむなく作業を続行した。
昭和62(1987)年11月3日「明治初期 長野県町村字地名大鑑」をまとめ、発刊した。これで文字の上での「字」の確保の作業は完了した。平成2(1990)年2月26日、妻が病で死亡した。
この字境図の制作に挑むということは、ドンキホーテが風車に立ち向かうかの如き無謀な作業であった。
全国で「文字」のうえでの「字」確認の作業を完了した県は、鏡味氏の愛知県、池田末則氏の奈良県及び私の長野県の3県だけであり、更に「字境」を航空写真の基本図上に図示しだしたのは、長野県だけである。