月刊TOWNNET
1999 2月号
NO1 陶芸との出会い
無造作に轆轤においた土塊があっという間にスルスルと挽きあがり、器に様変わりする。まるで手品を見る思いである。
瀬戸、信楽、常滑、備前、萩、唐津、そのどこでもいいのだが、観光で訪れた窯元の工房でそんな光景を見たことのある人は多い筈である。
某かの料金を払って轆轤を体験してみると、見るとやるとは大違い、悪戦苦闘の挙句土はヨロヨロとへたってしまうのが落ちである。
ご多聞にもれず私もそんなひとりであった。
近頃は陶芸ブ−ムだそうで、テレビで見たのだろうがこのヨロヨロの土を話題にして、
「難しそう・・・でもやってみたい・・・!」と言う。 私もそう思った。
ふとしたことで流山在住の女流陶芸家と知りあって彼女の主宰する陶芸教室に通い始めたのは五十歳も少し過ぎたころであった。
その頃の私は、松戸市の一角に構える整形外科病院の事務長であったから、日中は仕事に追われ稽古事にうつつを抜かすわけにはゆかない。
夜間のクラスができて長年の念願を果すことになった。
「定年退職でもして、ゆとりができたらやってみたい・・」と言う人は多いが、
忙しい現職の年代であればこそ、寸暇を惜しんで夢中になれる何かを手にすることが大事と考えていたから、仕事を済ませてからの稽古はちっとも苦ではなかった。
爾来5年余の間、土に触れずに終わる日は数えるほどしかなかった。
始めて半年後に自宅に轆轤を、更に半年を経てささやかながら電気窯を購入して夜と休日は陶芸三昧の日々であった。
夏場などは早起きして、出勤前に湯呑み1ダ−スを挽くのを日課にもした。
徹底的に湯呑みを挽くことが基本を身につける最短の道だと信じていた。
先生であるこの女流陶芸家は、、決して手取足取りで教えてくれるわけだはなかったが、かなり自由に工房への出入りを許してくれたから、都合のつくかぎり夜更けまで先生の技を盗むがごとく稽古に励んだものだった。
見よう見まねを繰り返しながら、そこに何かの法則を見つけることが楽しみであった。偶然ではなく必然の手法とでも言うのだろうか、
「こうすれば、いつでもこうなる・・」が確かな技になるのである。
陶芸は芸術である前に工芸である。確かな技術なしには思い通りの造形はできないのである。
ひとつの例をあげてみよう。
轆轤を挽くためにどうしてもマスタ−しなければならない技術に「芯だし」「土殺し」がある。
いわゆる菊練りをした土塊を轆轤の中心に据え、捻れを直して均質な土にならす作業である。これが案外難しい。
轆轤の初日に、先生がこともなげに手本を見せ、
「こんな風にやってみて・・!」である。
当分の間、終わるとマッサ−ジにかかりたいほどに渾身の力で土と闘うのだが、土は轆轤の上でのらりくらりである。
土は馬と似て、乗り手の腕を見透かす。土が微動だにせず轆轤の中心で独楽のように回転したのはいつのことであったろうか・・。
では、必然の法則、手法をお教えしよう。
そもそも自分の目と手を頼りに土を真ん中に据えようとしても無理がある。
目も手もそんなに正確ではないと考えるべきである。
少し理屈っぽいが法則だから我慢してほしい。
回転する物質、つまり轆轤の上の土のことであるが、この土には遠心力と求心力が働く。芯だしはこのうちの求心力を利用することになる。
その結果、土は乗せるのではなく乗るのである。
ではどうすれば良いのかというと、
取りあえず轆轤の真ん中と思われる辺りにドスンと叩きつけるように置いた土塊の裾野、即ち、土と轆轤盤の接点を両手で包むように掴み、轆轤を高速で回転させながら身体の正面、12時の方向に力一杯押してみる。
気分的には、地面から顔を出した竹の子を抜くために前後に揺するようにである。但し、土の場合ゆするのではなく押すだけである。
竹の子状のの土がしなるように前方に曲がるまで押すのである。 そして、
そっと手を離してみてほしい。結果は静かに回転する独楽である。
遠心力に逆らって中心より少し前方に押した土は、静かに手を離すことで求心力が働き、真ん中に乗るしかないのである。押しておいていきなりパッと手を離すと反動で中心より手前にもどってしまい、ぐらぐらと酔っぱらいもどきに揺れるのを見れば求心力の何たるかがわかると思う。
私の教室では、轆轤の初日に誰もが芯だしをマスタ−する。
理屈がわかれば成果も早い。
陶芸には気の遠くなるほどの歴史がある。簡単には名手になれないが、理屈でわかることで苦労する必要はあるまい。
芯だしはひとつの例である。
目前の課題に自分なりの法則や手法を見つける努力もまた楽しいものである。
陶芸家を名乗り、作品を販売したり、教室を主宰するのにたった6年のキャリアと言われるかもしれない。
芸術としての評価に耐えるための努力は死ぬまで続く課題だろうが、工芸のもつ「用の美」にかなう実用の器を作るためにこれまでに払った努力にはいささかの自負もある。
本気でやりだしたら陶芸に散歩道はないかもしれない。しかし、
陶芸に出会ったことは、索漠とした人生を余儀なくされている現代に生きて、かけがえのない豊かな散歩道ではあるまいか・・。私にはそう思える。
「日暮れて道遠し・・・・」
でも、日暮れは夜明けの前兆であり、遠いからこそ本気で歩く気にもなると言えないだろうか・・・・。