
フランス料理に代表される所謂「洋食」を食べると、その料理の殆どは皿で食べることになる。
マイセンやウェッジウッドなどの見事に装飾された寸分違わぬ磁器皿に、銀のフォークとナイフで食べるのも、それはそれで洒落ている。
しかし、毎日のこととなるとやはり変化に乏しいことは否めない。
おそらく日本人ほど変化に富んだ食事を摂る民族はいないと思う。
世界中の料理を惣菜の中に取り込み、和食とは別に日本食とでも言ったらいいのだろうか千変万化である。
朝食ひとつにしても、鮭と焼き海苔もあれば、ベーコンエッグにトーストもある。その鮭が翌日には鯵のひらきになるし、鰯の丸干しも歓迎である。粥も食べれば餅もでる。四季の恩恵の旬を追えば、これも切りがない。
本屋さんには、今日の献立シリーズの書物や雑誌が所狭しと並んでいる。思えば日本の主婦は大変である。
朝はパンとコーヒー、それに精々スクランブルエッグ、夜とて味付けに若干の変化があるにせよ肉が主体の料理が繰り返される西洋人の家庭料理とは大分趣きが違う。
この千変万化の日本の家庭料理を盛りつけるのが食器である。
皿だけでは済まない。鉢も丼も必要。それも大小取り混ぜてである。
余程不精でないかぎり、日々料理にあわせて器を代える。
冬には温かそうな色調の志野や萩の器が似合いそうだし、夏には清涼感漂う薄手の白磁や青磁もよかろう・
萩茶碗 2001
少し気取った料理なら、伊万里や九谷、酒を楽しむなら備前や織部も洒落ている。
日本の食器は、日本の料理と共に歩んできた伝統的な文化なのである。例えば、アメリカ人にとって陶芸は殆どオブジェを意味する。彫刻と似たような表現手段である。
唐津、信楽、萩、常滑、備前といった日本人には独特な味わいを感じさせるような食器の変化に欠けているから、趣味で食器を作るということに馴染まないのかもしれない。
食器は、然るべき工場で、仮に手作りにせよ熟練の職人が作った左右対称、同寸、同形につくられたものを買うことだと思っているのだろう。
私の主宰する陶芸教室では、食器の制作を主なテーマにしている。
勿論、水盤や花瓶のような花器を拒むものではないが、普段の食事で使える食器を、家族の人数分作れるようにが課題である。
会員の殆どが主婦であるから、趣味ではあっても実用に適うものであることが、長続きの秘訣だと思っている。
新婚家庭であれば二人だけに通じるメッセージを紋様化するも良し、幼い子供がいれば、お母さんの作った食器というだけでも温かな愛情が伝わるし、大切な想い出の品にもなるだろう。
やがて子供たちも巣立って、老夫婦ふたりだけの食事なら、少量多品種の食事の摂取に相応しい器の大きさも自在である。
更には、初孫のお食い初めの器を作るのもかけがえのない楽しみである。
買っても済む食器ではあるが、作ることで広がる話題の豊かさは、食卓のほのぼのとした彩りと言えないだろうか。
陶芸を始めたことを友達に話したら、あれこれと注文が殺到し、
「先生、手つきの菓子鉢ってどうやって作ればいいんですか?」
も珍しくない。
技術が伴うか伴わないかはあるが、こうしたやりとりもご近所との付き合いのギクシャクしがちな昨今、人の輪が広がって楽しそうだ。
実際、上手になると、デパートでまかなってきた贈答の品を手作りの食器に変えて贈ることで、大いに喜ばれることにもなる。
冒頭に書いたように、同形、同寸の薄手の磁器で、画家が描いたような見事な絵柄や紋様の入った洋食器の組み皿などということになると、上手下手がはっきりしてしまい、趣味で作った不揃いではうまくないだろうが、よくご存知の織部のように左右対称を崩した沓形の器も、風雅といって味わうことのできる日本人の感性は、趣味の域で不揃いの器を許して楽しむおおらかさでもあるのだ。
今は亡き名手、加藤唐九郎氏が作った大鉢のひとつで、真中に大きな亀裂が入っているのを写真で見たことがある。焼成の途中で割れたようだが、その写真の解説が面白かった。
「普通なら失敗作といわれる亀裂も、氏なればこその見事な力強さを見せている。」
食器作りは、名手が作るような姿の美しさをを競うことではない。
その食器にどんな料理を盛りたいかを知っている作り手が、なおその料理が鍋にあるときよりいっそう美味しそうに見える器にしたいと願うことが大切なのだ。
「作家もの」と呼ばれる高価な食器に、その器だけで完結してしまい、料理を受けつけない鑑賞用陶器が多いのを見るにつけ、素人芸も捨てたものではないと思う。
鈍重で.不器用で、しかし,素朴であたたかな雰囲気を醸す素人食器は、惣菜料理には何よりではないだろうか。
下手だった頃の作品も、上手になってからの器も、共に日々の食卓を限りなく楽しいものにしてくれること請け合いである。
センスや器用、不器用に躊躇しているあなたも始めてみませんか?。
