「よじれた時間」

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一九九二年三月一二日。
 ロンドン出張の日。
 時山瞬次は眠れず朝の五時に目が覚めた。
「すみれさんは本当に来るのかな」
ロンドンへ行くと三年間は戻って来れない。 朝食をとる。
苦いコーヒーの味。
ありきたりの新聞記事。
しかし、何処からともなく不安が彼を襲う。
 どうしたんだ今日は。
いつもよりも大きめの鞄を開け、掌ほどの大きさの宝石箱を取り出し、暫く中を見つめた。そして、また鞄の奥にしまいこんだ。
時計は既に六時二十分を指している。
「もう行かなきゃ」
日本を発つ前に、彼女会えるのは今朝しか残ってない。
 彼は午前七時に彼女と駅で会う約束をしていた。

午前六時五八分。
すみれさんはこない。
七時四分。
列車の時刻が近づいてくる。
 恐る恐る電話をかける。
「もしもし、時山……………」
電話は切られた。
彼は情けない顔をしてうつむいた。
そして、ハッと気づいた。
鞄が無いのだ。

 悔いの残る出来事。やるせない気持ち。もし過去をやり直せたなら……………。
 そんな思いが時山の足取りを重くさせる。彼はスクランブル交差点に立ち止まり、深くため息をついた。
散々な一日。最悪な一日。
彼女が去り、仕事ではトラブル。恐らく会社もクビになるだろう。
 彼は、ひっそりと立つ電信柱の側で、ゆっくりと目を閉じた。
 「わが社を代表する時山様。どうかお気をつけて行って下さい。
海外は危険ですので、盗難や誘拐、はたまた殺人にはくれぐれもお注意して下さい。
 それに、三年は永いですから、留守中の盗難にもくれぐれお気をつけることですな。
 ハハハハ……………」
 そんな会社の同僚、木下の言葉が思い出される。 
 「クソー、なんて事だ」 
 いそいそと歩く人の群れ。道路いっぱいにひしめき合い、うねりをあげる自動車群。
 ふと西の空を見た。
 ビルとビルの間を静かに静かに、大きな夕日が沈み行く。
 「俺は今まで一体何をしていたのだろう」
 彼には、この先人生をやり直す自信もなければ勇気もなかった。失った物が余りに多すぎたのだ。
 このまま人生の黄昏時を何十年も味わうのだろうか。時山はいっそ車道に飛び出したい衝動にかられた。
 ふらふらと時山の足が出かかった途端、グッと何者かが彼の腕をつかんだ。
 「死に急ぐ事なかれ」
顔中白い髭だらけの、薄汚れた老人の姿があった。



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