「よじれた時間」

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「今朝の事です。何もかもが崩れてゆき、全てを失ったのです」
薄ぐらい部屋の中で時山は呟いた。老人はゆったりと自分の椅子に腰掛け、目を閉じて時山の話を聞いていた。
時山はうつむき、しゃべり続ける。
「ちょっとした事なのです……………。
 私には結婚を約束した女性がいました。名前は山元すみれ、美しい女の人でした。しかし、結婚を約束したとは言うものの、それは私たち本人だけで決めたこと、彼女の両親からは反対されていたのです」
老人は無表情でピクリともせず聞いている。
 「彼女には彼女の両親が用意した許嫁がいました。その人は私よりも学歴も良く、社会的地位のある人の息子らしいのです。そして彼ら両親の間で結婚の話が進みつつありました。
 しかし、彼女はその人に一度も会ったことがないそうです」
時山は顔を上げ老人の方を向いた。彼の声は今までよりも大きく響いた。
 「私は焦りました。今すぐ何か行動に出ないと彼女を奪われてしまうのではないかと思いました」
老人はなおも目を閉じたまま話を聞いていた。
 「私は今日からロンドンへ三年の出張が決まり、彼女に会えるのは今朝しか残っていなかったのです。
 今回のロンドン出張は私の会社にとって重要なプロジェクトの一部、というよりはプロジェクトそのものと言っても過言じゃありませんでした。
 私は今朝九時発の飛行機で発つ予定でした。七時に駅で彼女と待ち合わせをしました。彼女はこっそり家の人に見つからないように出て来ると言いました。
 私は彼女に渡す指輪を買っていました。そして、しっかり鞄の奥に入れていました。そう鞄の奥に……………」
彼はそう言ったまま暫く目を閉じた。
「待てども待てども彼女は来ませんでした。刻々と時間が経ち、出発の時刻、7時が過ぎ、私は彼女の家に電話をするため電話ボックスへいきました。
 電話は私の名前を言った途端に切られました。恐らく、彼女は家を抜け出すのに失敗したのでしょう。私はうなだれうつむき………」
 時山は突然目を開いた。
 「そしてハッと気が付きました。
 鞄がないのです。
 背筋が冷たくなり、その後、ドッと汗が出てきました。鼓動の早くなる音がこめかみあたりからはっきりと聞こえました。辺りを捜しましたが、捜せば捜すほど絶望的な気分になりました。
 その鞄のには指輪の他にも、もちろん重要な会社のファイルが入っていたのです」
沈黙が流れた。
 そして不意に、時山は笑いだした。その自分を嘲るような狂気じみた笑いは、よけいに彼の気持ちをどん底へ落ち込ませるかのようだった。
「一応、盗難届を出しました。でも見つからないでしょう。たとえ見つかったとしても、会社の極秘資料を盗まれた私は即刻クビでしょう。
 そして恐らく、このプロジェクトは中止になるんです。
 あるいはもし、鞄が無事でも、プロジェクトの担当は誰かに他に変わるのでしょう。
 私が考え、全ての段取りをしたこの私のプロジェクトが、誰かに他の者の手に移るのです。
 ……………担当が誰かに代わるのでしょう。例えば……………、そう、木下か誰かに」
時山の表情は諦めから無念さへと変わった。
 「木下は非常に汚い男で自分の利益のためなら何でもする奴です。それに奴はどういう訳か私をライバル視している、と言うよりは、私を敵視しているようなのです。特に、最近の彼の行動は。
 彼とは、年が同じで良きライバルでした。彼は一流の大学を出て私の会社に入り、私は専門学校卒業です。そのため、同い年ですが、私の方が二年ほど早く入社していました。しかし、最近、特に態度が変なのです。彼はプライドの高い男です。今度の私のプロジェクトが認められて嫉妬したのかも知れません。しかし、それにしても……………。今度のプロジェクトも私がやっとの思いでこぎつけたものなのに……………。
 もう私に残された物は何もありません。……………ただ、悔いだけが残っています。 何故あの時鞄をしっかり持たなかったのか……………」
 そう言ってまぶたを閉じた。彼の目は潤んでいるように見える。
 「つまり過去をやり直したいのじゃな。
 それならばわしについて来るのじゃ。時間を取り戻すために」
老人の言葉にうなずき振り向いたとき、時山は初めて気が付いた。
この老人が一体誰なのかまるで知らないことを。

 


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