「妻」
黒漆で統一された店内と、煙草を吸わない客のために設けたお座敷。それが
気に入ってボクたちはこの居酒屋に通ってくる。障子で間仕切りされた座敷に
は、テーブルが四つ用意されていた。が、ウィークデーの夜はたいていボクと
妻だけの貸し切り状態になっていた。いつものように肴選びは店に任せ、早速
ボクたちは二合徳利の純米酒を楽しむ。
妻はさほど飲めるわけではない。しかし、唇に猪口を運ぶ仕草は滑らかだっ
た。妻の右手の軌道を見ながらボクの心地よい時間が始まる。
座敷の窓際に、クレマチスの鉢が置かれている。うつむくように咲いている
薄紫のクレマチス。ボクたちはいつも、あのクレマチスには人の気配を感じる
ね、と話していた。
「母はクレマチスと言わずに『てっせん』と呼んでいたのよ。クレマチスを見
るとそんな母の言葉が耳元に蘇るから、もしかしたらそのせいかも」
と妻は話す。
ボクは、クレマチスを見ると君の着物姿を想い出す。それで人の気配に感じ
るのじゃないかな、と。
事実、クレマチスを目にするたび、ボクは妻の着物姿を連想した。
妻と初めて会ったのはボクが49歳の時、十年ほど前の春だった。国外の推
理小説だけを出版している会社の記念パーティーで初めて顔を合わせた。お互
いの存在はかなり前から知っていたが、言葉を交わす機会はなかった。彼女が
外国語の小説を翻訳し、その翻訳した日本語版の原稿に合わせた挿絵を描くの
がボクの仕事だった。いわば二人で一人前の仕事をしていたのに、何年間も当
人同士の面識がなかったのは不思議だった。だからなのだろう、初対面なのに
ボクたちはパーティーの最中はおろか、その帰り道でも呆れるほどおしゃべり
を繰り返した。この席で彼女がボクより十数歳年下と知ったけれど、そんなこ
とには無頓着で、まるで会わなかった時間の埋め合わせするように話し込んだ。
そして、翌週のデートを当然のように約束して別れた。
初めてのデートに彼女は着物姿でやってきた。春霞のかかったその日の空と
同じ色の着物だった。洗い張りを重ねた紬で、かつて日本の女性が町着として
着ていたような生活感ある和服姿だった。それなのにボクは、和服の女性と二
人だけで過ごす時間に緊張しまくった。半襟のまぶしさも手伝い、白地の帯に
ワインカラーの帯締めをした彼女をまともに見られなかった。帰宅しても、二
人でおしゃべりした文学談義など頭のどこにも留めていなかった。
出版関係者の葬儀で会った彼女は黒のツーピース姿だった。帰り道、和装の
喪服姿を想像していたと言うと、親族でもないのにそんな格好をすると、わけ
ありの女かと勘ぐられるから駄目、といたずらっぽく笑った。
週末のデートの日、彼女は黒の着物で現れた。水色の半襟を多めにのぞかせ、
袖の振りから長襦袢の緋色がこぼれていた。なるほど、こんなにセクシーにな
るんじゃ、めったなことで黒の着物は着られないなと言うボクに、彼女はして
やったりという表情と、セクシーなんて言わないで粋と言ってよ、とツンとし
た表情も作ってみせた。
彼女の浴衣姿を見たのは、二人で所帯を持ってからだった。
浴衣は藍染と彼女は決めているらしく、色のごてごて入った柄は選ばなかっ
た。帯はたいてい博多献上。黒塗りの下駄や朱色の鼻緒とよく似合った。
浴衣で出かけるときの彼女はいたって身軽で、ガーゼのハンカチをたもとに
落とし、帯の間に財布をはさめば、それで身支度は完了だった。ただし、帯の
前に垂らす根付にはちょっと凝っていて、帯の色や浴衣の柄行に合わせ、紐の
色や細工のデザインを選んで付け替えた。
縁日に出かけると、ボクたちは決まって苗木や花鉢を扱うコーナーに足を向
けた。花の育て方を十分すぎるほど聞き終えると、彼女は左手を帯に添えなが
ら財布をゆっくりと引き出した。紙せっけんが香るような仕草だった。
彼女は良く箪笥を開けて着物や帯を部屋中に拡げた。あの着物にこの帯、こ
っちの帯揚げ、そっちの帯締めと、あれこれ重ね合わせては、組み合わせの妙
を楽しんでいた。彼女の手が動くたびに、絹がシュッと鳴る。絹の匂いが部屋
中に立ちこめた。
思いがけない組み合わせが見つかったときの彼女は本当に嬉しそうだった。
それが、ボクの母と彼女の母の形見の品同士だったりしたら、なおさらだった。
今度これを着て出かけますね。彼女は母たちに語りかけた。そして愛しそう
に抱きしめていた
ボクの母の形見の中で、彼女がことのほか大事にしてくれているのが縮緬の
ショールだ。
初めて彼女を母に引き合わせたとき、母はいきなり立ち上がって箪笥からこ
のショールを出してくると、私にはもう派手だけど、ものはいいからもらって
ちょうだい、と彼女に手渡した。恐縮する彼女の肩に自分でショールを着せか
け、ああ似合う似合うと手を叩かんばかりに喜んでいた。
何種類かの紫をぼかし染めにしたそのショールには、ボクも見覚えがあった。
小学生のころ、よそ行きの着物にこのショールを羽織った母を見て、子ども心
に稟とした女性の迫力みたいなものを感じたものだ。
彼女はこのショールを、軽いのにとても暖かいのだと言う。しっとりと身体
に添う縮緬を手にすると、なんともいえない安堵感があるのだと言う。
窓際のクレマチスが、今日はずっとこちらを見ているような気がした。それ
を妻に伝えた。すると妻は、
「二人のお母さんがきて、私たちが幸せに暮らしているかどうか見てくれてる
のよ。幸せじゃなかったら息子を叱りますからとあなたのお母さんがおっしゃ
ってるわ」
と楽しそうに表情を崩した。
ボクたちは一つずつ言葉を渡し合うと、猪口を口に運んだ。しばし沈黙が訪
れる。日本酒を飲み交わす二人だけが味わえるうれしい間(ま)だった。
ところで、とボクがつぶやきだす。
「今日も届いたけど、定年退職の挨拶葉書はもう十通以上来たよね」
男としてはとっくの昔に定年だけどね、と同窓会で男たちが苦笑していたこ
ともつぶやいた。
妻が顔を近づけてきた。温かな息が吹きかかる。
「あなたに定年なんてなくてよ」
妻の瞳が潤んでいる。
「だってあなたは逞しいもの」
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