団地四階のベランダで、新一は右手の人差し指を突き出しました。指先でキュッキュッ
と描いた円を細長く伸ばして魚の形にしていきます。銀色に輝くサンマになっていきます。
「それっ泳げ」
サンマは勢いよく空へ飛び出します。
新一は次々に円を描いてサンマにしていきます。空中を泳ぐサンマは群れを作って空高
くかけのぼったり、きりもみを繰り返します。
「おっと、忘れるところだった」
お母さんは仕事で帰りが遅いため、新一が妹を迎えにいきます。
「サンマたち、もどりなさい」
新一が空に向かって手のひらを向けます。サンマたちがいっせいに新一の手の中に飛び
込んで消えていきました。
幼稚園バスはすぐやってきました。春子先生に手を引かれて広子が降りてきます。
「お兄ちゃん、きょうもいっぱい魚の名前を覚えてきたよ」
得意な顔をして広子がタラップを降りました。
「広子ちゃんはね、今日もずっと魚の図鑑を読んでいたのよ。お兄ちゃんと魚屋をやるん
ですって。がんばってね」
お便りバックを新一に渡しながら春子先生が言いました。
「魚屋じゃないよ、水族館だよ」
広子は口をとがらせます。
「すごいね。がんばってね」
春子先生がドアを閉めると、バスの中の友だちが窓に顔をはりつけてバイバイを言って
います。
「みんなの顔、フグだね。今日はフグを作ってみよっと」
家に帰った広子は体を弾ませてフグを作り始めました。描いた楕円形から尾びれを引き
出し、胸びれと尻びれと背びれも作ります。次におちょぼ口を作ると、そこから空気を思
い切り吹き入れます。フグのほっぺとお腹がプクッとふくらみました。見ている新一のほ
っぺまでふくらんできます。
魚が上手に出来上がるたび、新一は早くお母さんに見せてあげたいと思います。青い空
を赤や黄色や金色の魚たちでいっぱいに出来たら、お母さんがどんなに喜んでくれること
でしょう。お母さんは日曜日も働いているので、新一たちに「どこに連れて行ってあげら
れなくてごめんね」をいつも言っていました。だから三人で空の水族館を見てみたいので
す。
「そのフグさ、カジキにアレンジしてみると面白いぞ」
広子が目を輝かせて図鑑に飛びつきます。図鑑のカジキはフグと反対の体をしています。
上あごが鋭く伸び、背びれはギザギザでとげのようです。
広子はフグの体を思い切り左右に伸ばして口の先端を槍のように伸ばします。背びれや
胸びれや尾びれを新一が手伝っているあいだに、広子は槍の先を鋭く仕上げていきました。
「ベランダから泳がそう」
新一が窓を開けたそのときです。パトカーのけたたましいサイレン音が飛び込んできま
した。ベランダに出てみると、赤色灯の明かりが薄暗くなった団地の壁でクルクル回って
います。二人は一目散に玄関から飛び出しました。
通りに出ると、道向こうのコンビニにパトカーが停まっています。もうたくさんの人だか
りでお店に近づけません。団地のおばさんが
「お金を奪った犯人が逃げているそうよ」
と話しかけてきました。
それを聞いた広子が新一のシャツを引っ張ります。
「お兄ちゃん、ドアの鍵をかけてこなかったから早く帰ろうよ」
「でもさ・・・」
新一は背伸びをしてコンビニをながめています。
「だって犯人が家に入ったら大変だよ」
広子に言われて新一は爪先立ちをやめました。お母さんから家を出るときには必ず鍵を
かけるように言われています。新一は広子の手を握って走り出しました。
二人がもどってしばらくするとドアのチャイムが鳴り、鍵を開ける音がします。お母さ
んが帰ってきました。
「お帰りなさい」
広子の声がいつもより大きいのでお母さんは
「あらあら今日はどうしたの」
とびっくり顔です。
「あのねお母さん、コンビニに泥棒が入ったんだよ」
広子の声がますます大きくなっています。
「そうだってね。でも犯人は公園で捕まったそうよ。下で会った組長さんが言ってたわ」
広子の頭をなでると、お母さんはバッグから紙袋を取り出しました。
「評判のたい焼きを買ってきたわ。あんこがしっぽまでぎゅぎゅってつまっているの」
鯛焼きの袋が湯気で濡れています。
「でも考えてみたらちょっと変ね」
鯛焼きをお皿に移しながら、お母さんが首をひねります。
「あの泥棒って、足にカジキが刺さって動けなくなっていたそうよ。不思議よね」
新一と広子はドキッとして顔を見合わせました。さっき道まで降りて行ったとき、ベラ
ンダの窓を開けっ放しにしていったのです。カジキのことなどすっかり忘れていました。
「熱いうちに食べてね。お母さんは組長さんに頼まれたものを渡してくるから」
鯛焼きから香ばしい香りが広がっています。
お母さんは押し入れから分厚いノートを取り出すと玄関を出て行きました。
「お兄ちゃん、どうしよう」
「ベランダで手のひらを出してさ、帰ってくるのを待ってみよう」
「帰ってくるかな」
「きっと広子の手にもどってくるよ。もどってきたらお母さんに空の水族館の話をしてあ
げよう」
「うん。わたしお母さんに魚の作り方を教えてあげたい」
二人はベランダに出て、手のひらを夜空に向けました。
「カジキ、もどりなさい」
「カジキ、もどりなさい」
新一の耳にも、広子の耳にもカジキが空気をつんざいて帰ってくる音が聞こえてくるよ
うです。
もう一度目を閉じて声をそろえました。
「カジキ、もどりなさい」
今度はお母さんの笑顔が目の中いっぱいに広がっていきました。
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