もちろん、きらいじゃない。でも、にくらしい、とノン子は思います。
せっかく校門のところで一緒になれたのに、龍くんたら「おはよ」の一言でノン子を追
い越して行っちゃったのです。ノン子は「あーあ」とタメイキをつきました。
「ノン子、おはよう」
背中をポンとたたいたのは、同じ班の早苗ちゃんでした。
「どうしたのさ、タメイキなんかついて。あ、もしかして、算数の宿題やってないの」
「そうだった、忘れてたあ」
ノン子は悲鳴をあげました。
算数の時間が始まります。
「昨日だした宿題ね、ひとりずつ前に出て書いてもらいましょう」
白髪頭の大野先生が、ぐるっとクラスをみわたします。
ノン子は首を縮めて教科書越しに、先生の視線を追いました。
「では一問目を将くんにお願いします」
(うわあ、来たあ)
ノン子の列の一番前の将くんがさされました。ノン子は目をつぶって、心の中で必死に
つぶやきます。
(どうかあたりませんように。オシャシャのピポパ、オシャシャのピポパ…)
「二問目を、福沢さん」
将くんのうしろの、トモちゃんがさされました。トモちゃんのうしろは、ノン子です。
(オシャシャのピポパ、オシャシャのピポパ…)
ノン子は目をかたくつぶり、一心に念じます。
「三問目は、ええと」
先生が指したのは、トモちゃんの隣のアキヒロでした。
(やった。さすがピポパの呪文。ほんとにすごいパワーだわ。バンザイ)
「おや、ノン子さんの両手が挙がりましたね。四問目はノン子さんにお願いします」。
「オシャシャのピポパ」って、ノン子がおしゃべりできるようになるとすぐに口にした
言葉です。お願いごとがあるたび「オシャシャのピポパ」といっておねだりしたのだそ
うです 。
家族が教えたわけではありませんし、そんな言葉の載っている絵本を読んだ覚えもな
いとお母さんは言います。でも、ノン子はこの呪文を唱えればたちどころに願いがかな
うと ずっと信じてきたのです。
今年の運動会でも「マイムマイムを踊るときは龍くんと同じ班になれ。オシャシャの
ピポパ」。
龍くんの右手の感触がまだ残っています。
宿題ノートがどうしても見つからないときも「ノートよ、出てきなさい。オシャシャ
のピポパ」。
目を開けてもういちど部屋の中を見まわすと、まんが本の間にノートの背表紙がのぞ
いています。ノン子は魔法の呪文に大満足です。
もちろん魔法の効かないときもあります。
「おこづかいを増やしてくれますように。オシャシャのピポパ」
これは一度も魔法が効いてません。
(ママはきっとピポパの効かない魔術をかけているんだ。さすが大人だわ)
休み時間の騒音の中でもノン子の耳は、龍くんの声をすばやくキャッチしました。振
り向くと龍くんが隣の席の女の子とおしゃべりしています。
(龍くんはおしゃべりやめて私と話しなさい。オシャシャのピポパ)
けれどおしゃべりをやめる気配はありません。
(うーん、もしかしたら龍くんて鈍いのかな)
魔法が効いたのは昼休みになってからでした。
「ねえノン子、図工で使う毛糸持ってきた」
「わたしたくさん持ってきたけど、使う?」
「うわあ、感謝。神様、ノン子さま」
(なんてナイスな展開)
ところが突然スミオくんの声が廊下から。
「龍、バスケやろうぜ」
龍くん、もうノン子の前から消えていました。
(あーあ、龍くんをつかまえるの、むずかしいな)
帰りの会が終わると、大野先生がノン子を手招きしました。
「ノン子さんのおじいちゃんに校長先生からの手紙を届けてください。将棋クラブの顧
問をお願いしてありますので、そのお便りです」
手紙をランドセルに仕舞うとノン子はおじいちゃんの家に向かいます。ノン子とおじ
い ちゃんは大の仲良しです。ノン子のピポパの呪文が、一番よく効くのもおじいちゃん
です。新発売のゲームソフトも、臨時のおこづかいも、ママに試して効かなかったピポ
パがおじいちゃんにはちゃんと効いてゲットできました。
おじいちゃんの家は、学校からノン子の家までの途中にあります。アルミの門扉を開け
ると、いつものように柴犬のミッチーが駆け寄ってきます。ミッチーの頭を撫でながら
玄 関に入ろうとしてノン子は悲鳴を上げました。おじいちゃんが腰をかがめて玄関でう
ずくまっていたのです。
「おじいちゃん、どうしたの」
すぐにノン子はおじいちゃんの胸元にもぐりこみました。
「ノン子か。今、お前の家に電話しようかと思ってた」
「おじいちゃん、顔、まっさおだよ」
「腹が痛くて我慢できない。すまんがお母さんを呼んできてくれないか」
しぼりだすような声です。お腹にあてがった指がシャツにくいこんでいます。
「おじいちゃんしっかりして。すぐにお母さんに電話するから」
お母さんはすぐにかけつけてきました。
「119番に電話をしておいたからすぐくるわ」
おじいちゃんを居間のソファに寝かせるとノン子に「おじいちゃんの背中をさすって
あげて」と指示を出し、保険証と下着を紙袋につめ、火の元と戸締りをてきばきと確か
めます。
「お母さんはおじいちゃんにつきそうから、ノン子は家で待っていて。あとで電話する
から」
自分の家に戻ったノン子は、ひとりぼっちで台所のいすに腰をおろしました。海老の
ように体を折り曲げ、痛みをこらえていたおじいちゃんの姿が思い出されます。
ノン子はきりりと表情を整え、胸の前で手を組みました。
「オシャシャのピポパ。おじいちゃんが助かりますように。オシャシャのピポパ」
両目をギュッとつぶります。
「おじいちゃんにはピポパがすごくよく効くんだから。今度もぜったい効きますように。
オシャシャのピポパ」
両手の指を固く組んで祈り続けます。
「オシャシャのピポパ。電話よ鳴れ。お母さんが、もう大丈夫だよって電話してきます
ように。オシャシャのピポパ」
どのくらいオシャシャのピポパを口にしていたでしょうか。電話が鳴ったのです。ノ
ン子は受話器にダッシュしました。
「もしもし、お母さん、おじいちゃんどうした」。
「それ、ノン子のうちの犬か」
「あっ、龍くん」
トレーニングウェアを着た龍くんはミッチーの頭をぐるぐるなでます。
「おじいちゃんちの犬の散歩を頼まれたの」
ノン子はおじいちゃんが救急車で病院に運ばれたこと、点滴で元気になったことを龍
くんに話しました。
「ノン子は誰のためにでもいっしょうけんめいになるもんな。おじいちゃんも、ノン子
がいっしょうけんめい心配してくれたからすぐに良くなったんだよ」
ノン子の胸が熱くなりました。
「じゃあ、おれ、これから貯水池まで走ってくるから」
自転車でとばしても30分はかかる距離です。
「おれ、高校はバスケの名門校に行きたいんだ。そこでレギュラーになって、大学はア
メリカに行きたいんだ。その第一歩が走り込みなんだ」
ノン子はびっくりしました。龍くんの中にこんなにしっかりした未来地図があるなん
て思いもしなかったのです。
「すごいな龍くんは・・・」
龍くんが照れくさそうに鼻の下をこすりました。
「龍くん、わたし応援するよ。ずっと応援していくから」
「サンキュー、ノン子が応援してくれたら百人力じゃん」
龍くんがまっすぐノン子を見つめました。
走り出した龍くんのうしろ姿を見て、ノン子は思います。
(わたし、ピポパを使わないで、自分の力で龍くんを応援しよう。そしてわたしも龍く
んのように中学のこと、高校のこと、その先のことも考えてみよう)
龍くんの背中が小さくなっていきます。
(これが最後のオシャシャのピポパよ。龍くんといつまでも仲良しでいられますように)
「オシャシャのピポパ!」
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