日本海の飛沫を含んだ風が、コートの裾をはためかせた。
曇天の空を映した海は、荒波を蹴立て眼下に鋭い先端を覗かせる大岩の
群れに当たり、砕けた波をこの崖上にまで運んでいる。
その崖の端に立つ男は、暗い瞳でなんの感慨も浮かべることなく水平線を
眺めているのだった。
今日まで楽しいことなんてなかった。
家が貧乏で、小さい頃から友達にはいじめられ、いやあんな奴ら友達でも
なんでもなかったんだ。
僕は単なる、ストレス解消のために、あいつらに付き合わされていただけ。
それでも、あいつらと一緒にいないと遊び相手もいなかったし、断れば
虐めが激しくなるのが判っていたから。
就職しても同じだった。
大した会社でもないくせに、ちょっと営業成績が上がらなかっただけで
皆の前で罵詈雑言の毎日。
何度、あの係長を殴って辞表を叩きつけてやる夢をみたことか。
そんなことが、僕にできるわけないってこと判っていたのに。
もう疲れた、他の誰もが楽しそうに毎日を暮らしているっていうのに、
どうして僕だけが。
彼の拳にグッと力がこもった。
今、この崖の端に立って、ここが自殺の名所だってことが よく判った。
この高さから、あの岩に叩きつけられ、波に引き込まれたら、どんなことを
したって助からないに決まっている。
一歩前に踏み出せば、確実な死が僕に訪れるんだ。
大きく息を吸い、足を踏み出そうとした時、彼の視界の端に電話ボックスが
チラッと見えた。
そうか、あれが「命の電話」とかいうやつだな。
片足を注に浮かせた状態で、その電話ボックスからなぜか目が離せなく
なった。
確か、自殺しようとした者に思いとどまらせるために役所が設置した
ものだと聞いたけど、誰かも判らない者の説得で自殺を思いとどまったり
するのだろうか。
どんな話をするのだろう、きっとカウンセラーとかいうのが説得しようと
するんだろうな。
ふふん、あんなもの僕にはもう関係ないんだ、何を言われようと僕の気持ちが
変わることはないんだから。
つい元の場所に降ろしてしまった足を、再び前に出しかけた時に、
あのニヤ着いた笑いを浮かべながら罵る係長の顔が浮かんだ。
最後に思い浮かべる顔が、あんな奴の顔だなんてなんてこった。
あいつなら、僕が死んだって聞けば、万歳三唱ぐらいのことはするだろう。
ましてや悲しむなんてことは絶対にない。
・・・、他の奴らはどうだろうか。
あいつは、あいつは、あいつは、あの受付の彼女なら・・・。
いや、誰一人 僕が会社に居たなんてことなんてすぐに忘れてしまうだろう。
すでに覚えてさえいないかも知れない。
誰か僕がこの世にいたことを覚えていてくれる人がいるだろうか。
両親は、過労が祟って、高校の頃に相次いでこの世を去ってしまっているし、
一人っ子だったので、兄弟もいない。
親戚はと言えば、関わりたくなかったのか、ほとんど交流もなかった。
高校を中退して、働き始めてからも友人と呼べる者はいなかった。
そう、誰一人として僕が居たことを覚えている人間なんていないんだ。
それに気が付いた時、彼の視線は命の電話、寒風に吹き晒されている
電話ボックスから目が離せなくなった。
あれで電話をかければ、誰かが僕がここに居ることを知ってくれる。
その誰かは最後に僕がこの世に存在していたことを覚えていてくれるだろう。
話したからと言って、自殺を思い止まることはないし、説得が通じず
僕が死んだことを知れば、その誰かは酷く思い悩むことになるかも知れない。
そう思うと申し訳ない気もするが、どうしても僕は誰かに覚えていて
欲しいんだ。
ところどころ出っ張った岩に足を取られながら、ふらふらと命の電話に
近づいていった。
近寄り、改めて見て見ると、なんの変哲もない電話ボックスだ。
街中に置かれているものとなんら変わったところはない。
ガラスに四方を囲まれ、その中に緑色の電話が置かれているだけだ。
違いがあるとすれば、風俗関係のビラが貼られていないことと、ドアの所に
「命の電話、24時間、いつでもかけてきて下さい、貴方の話を聞かせて
ください。」
と書かれているぐらいだろう。
折り畳み式のドアを引き開け中に入ると、風から開放されたせいか、
ほんのりとした温かさに体が包まれる。
ガラスごしに見える外の景色さえ、ちょっぴり優しくなったような気がする。
知らず口許が綻んでしまっていた。
電話器を見ると、やはりと言うべきか、なんの変哲もないものである。
電話の上 目線の高さに、命の電話と書かれ、電話番号と使い方の説明が
書かれている。
緊急ボタンを押して、この番号を押せば無料でかけられるようだ。
受話器を握り、緊急ボタンを押そうとしたが、どうしても躊躇してしまい
触った指がそれ以上動こうとしない。
もちろん耳に当てた受話器からはなんの音もしてはこない。
書かれた番号を睨んでいるうち、そこの下の方に、小さく書かれている文字が
あることに気がついた。
それはボールペンで書いたのであろう、細いうえに弱弱しく消えかけてはいたが
「ありがとう」と読むことができた。
「ありがとう・・・か」
これを書いた人はどんな気持ちで書いたのだろう。
書いた後は、どうしたのだろう。
僕と同じように、あの崖から旅立っていったのだろうか、それとも再び
元の町に戻っていったのだろうか。
そうだ、この電話の先にいる人には、最後に ありがとう と言おう。
僕の気持ちが変わることはないけど、話を聞いてもらったお礼に心をこめて
ありがとう と言おう。
それで心は決まった。
それまで動く気配さえなかった指を動かし、正確に間違えることの
ないよう、番号を押していった。
受話器から トゥルルルル トゥルルルルとコールがかかっていることを
告げる音が聞こえてきていた。
そして何度かのコールの後、ガチャと電話が繋がる音が聞こえてきたのだ。
その慣れ親しんだ音は、どの電話でかけた時より大きく僕の頭に響いていた。
ゴクリとノドが動き、電話先の会ったこともない相手の声が聞こえるのを
待ったのである。
「お電話ありがとうございます、これは留守番電話です、後ほど おかけ直し
ください。 ツー ツー ツー・・・」
「えっ」
想像だにしなかった返答に、受話器を見つめてしまっていた。
どのぐらい そうしていただろう、我に返ってからもなにが起こったのか
判らなかった。
「そっそうか、番号を間違えたんだな。」
震える指で、今度は番号を一つずつ確認しながら押していく。
間違いなく書かれている番号を押し終わったと同時に「トゥルルル トゥルルルル」と
コール音が聞こえ始め、ガチャッと電話が繋がる音に変わったのである。
「お電話ありがとうございます、これは留守番電話です、後ほど おかけ直し
ください。 ツー ツー ツー・・・」
気が付いた時には、僕はドアにもたれるように座り込んでいた。
頬に湿り気を感じ、手で拭ってみると、いつの間に流していたのだろう、涙が
後から後から流れ出している。。
なぜ、僕は泣いているんだろう。
ボンヤリと床を見つめていると、靴先に黒いものがいた。
季節外れのコオロギだった。
寒い外から、少しでも温かい電話ボックスに逃げ込んできたのだろう。
足を少し動かすと、ノソノソと動き始めたが、その動きはとてもおっくうそうで
片足を失ったその身体が撥ねることもなかった。
隙間からコオロギが出て行くのを眺めていて、その隙間の上のガラスに
マジックで書きなぐられた文字があるのを見つけた。
「バカにしやがって、バカにしやがって、バカにしやがって、死んで
やろうじゃねぇか、なめんじゃねぇよ!」
かなりの筆圧で書かれたものだろう、後半はマジックの先が割れたのか、
ささくれたような文字となっている。
なんとはなしにそれを眺めていたが、いつの間にか声に出して繰り返していた。
「バカにしやがって、バカにしやがって、バカにしやがって、なめんじゃねぇよ、
死んでやろうじゃねぇか、バカにしやがって、バカにしやがって、
バカにしやがって、なめんじゃねぇよ、死んでやろうじゃねぇかっ!
クックックックッ、アッハッハッハッハッ、ひーひっひっひっひっひっ!
そうかよ、そんなにバカにしたいっていうのか、なら希望通り死んでやるよ。
そうさ、今すぐあそこから飛び降りてやるよっ!」
涙に変わり、胸の辺りになんとも言えない痞えがこみ上げ、それは怒りの
塊と化していったのだ。
「バカにしやがってっ!なめんじゃねぇぞっ!あぁ死んでやるよ、だがな、
その前にあの係長をぶん殴ってから死んでやろうじゃねぇか!。
ウオォォォォォッ!ざけんじゃねぇぞっ!」
立ち上がりながら獣じみた咆哮を狭いボックスに響かせ、その勢いのままに
飛び出したかれは、振り返る素振りさえ見せず、町に向かって駆け出していった。
「そう言えばさ、最近飛び込みがないね。」
頭髪を七三に分けた男が、しきりに顔を拭いながら誰とはなしに話している。
「そうそう、愛ちゃんが着てから飛び込んだ奴っていないよねぇ、
ひょっとして愛ちゃんは天使だったりしてね。」
不意に名前を呼ばれた私は、口紅を引いていた手を止めて、チラッと顔を向け
少し微笑んでやる。
案の定、脂ぎった顔が私を見ており、あまつさえウィンクなんぞを送って
きやがった。
全く気安く名前を呼ぶんじゃねぇよっ。
あんたごときが声をかけられるのかどうか、じっくり鏡の前で
ニラメッコしてきなっつーの。
たくっ、私みたいにいい女がどうしてこんなところで電話番なんか
してなきゃいけないのよ。
そりゃ、大学は出たけど自慢できるようなところじゃなかったし、
私が入ってやろうって言った会社は、どこもかしこも履歴書を送っただけで
不合格にしやがって。
日本を代表する会社かなんか知らないけど、お高く留まってんじゃ
ないっつーのョ。
結局、パパのコネで役所に入ってあげたけどさ、私をこんな辺鄙なところに
勤務させて人事の奴何を考えてんだか。
それでも、ジャニーズばりの美青年でもいるっていうんだったらまだ我慢も
するけど、むっさいおっさんばかりじゃないの。
しかも、あいつらったら私に「命の電話」とか言うのの担当に勝手に
決めちゃってさ「自殺志願者を踏み止ませる最後の希望」とか「男よりやっぱり
女の子の方が」とか言っちゃって、そんなに重要なことなら自分達でやればいいじゃん。
それになに、前任の奴は熱心で、勤務時間外も自分の携帯に転送して
対応していたから、君もしてくれない?とか、冗談じゃないわよ、もちろん
即お断りしたわよ。
死にたい奴は勝手に死なせときゃいいじゃない、なんでプライベート時間まで
そんな奴の話なんか聞かなきゃならないのよっ、ねぇ。
あっ、電話がかかってきた。
鬱陶しいから、私が来てからずっと留守番電話にしてあるのよね。
わざわざかけて来なくていいつーの。
あっ、またかかってきた、命の電話が無料だからって、しつこいのよねぇ。
電話代の請求は役所にくるんだから、ちょっとは考えろっつーの。
「おいおい、この記事の会社、俺ん家(おれんち)の近くじゃねぇか。」
あ〜、また課長のドラ声が聞こえてきた。
そんなに大声上げなくったって聞こえるつーの。
新聞読んでる暇があるんなら仕事しろっていうのっ、バーカっ。
あんたらも、いちいち周りに集まっていくなつーの。
「へぇ、部下が上司をいきなり殴り倒して、逮捕されたってさ。」
「最近、うちの町でそんなの多いですよねぇ。
ほら、先週だっていじめられていた高校生がその相手を殴り倒したって
話があったじゃないですか。」
「ふぅん、まぁ、あの崖から飛び込まれること考えたら、そのぐらい
いいんじゃないの。
相手を殴るぐらいの気概があったら自殺なんて考えないだろうし、
ほんとあの崖から飛ばれると、後片付けが大変なんだよなぁ。」
まったく、そんなつまらない話題で盛り上がる前に、仕事しろつうーのョ。
あっ、爪のお手入れ忘れてた。
うっふっふっふっ、今夜のコンパで絶対いい男をゲットしてやるんだから、
気合入れてお手入れしとかなくっちゃ。 うふっ♪。