「もう少しだわ・・・。」
彼女の目には、手を伸ばせば届くのではないかと言うほどのところに
新たな世界が広がっていた。
不安定な足元に注意を払いながら、時折揺れはするものの、踏み外す
ことなく、生まれ持った足のバネを活かして一歩一歩確実に前に
進んできたのだ。
ずっと憧れ、希望に胸を弾ませてきた世界、憧れに胸を締め付けられても、
夢でしかないと諦めていた世界が、すぐそこに広がっているのだ。
そんな気の緩みが、彼女の口を滑らせたのであろうか。
成功しつつある企ての本当の意味を教えてみたいという誘惑に
勝てなかったのかも知れない。
「ケケッ、なんて馬鹿な奴らなんでしょう。
数なんて数えていないのに。」
そう微かな呟きだったはずであり、注意していない者には決して聞こえない
程度の声だったはずなのだ。
が、彼女の不運はそこにあったのである。
黒々とした巨体を並べた奴らの多くはなんの疑いもなく自分達の数を数える
彼女など気にもしていなかったのだ。
だが、彼女が次に渡るべく並んでいる奴は、彼等に比べて余りにも非力で
彼等にとっては食料としての価値しかない者に乗られるという行為に不満を
持っている者だったのである。
もし、彼女がおかしな素振りを見せたり、なにかしでかせば即座に痛い目に
会わせてやろうと、その一挙一動を冷たい視線で見つめていたのである。
まさに、彼女の呟きは千載一遇のチャンスでしかなかった。
自分に向かって今まさに飛ぼうとしている彼女に向かって、大口を開け
襲いかかってきたのだ。
心弾ませまさに跳ぼうとしていた彼女の目の前に、巨大な口と居並ぶ
刃物のごとく鋭い牙が迫ってくる。
「うわぁぁぁぁぁっ!」
恐怖の叫び声を上げる彼女に向かって、死の顎(あぎと)が迫りくる。
まさにその一瞬、背骨も折れよとばかりに弓なりに極限まで身体を反らせ、
足の筋肉を総動員して後ろに跳び退ったのは、彼女の並外れた身体能力を
持ってしても奇跡としかいえない動きであった。
その身体は滑るように、水面を後ろ向けに滑走し、見事に死神の大鎌の
一撃を擦りぬけたのである。
だが、いかに優れた能力を持っていたとしても、所詮は彼女も陸上で
生きる者の悲しさ。
いつまでも水面上に留まれるはずもなく、徐々にスピードは落ち、それに従い
足裏から踵、足首そして膝へと水面下に没していったのであった。
その後のことは、あえて語らずとも誰もが一度は耳にしたことがあるで
あろう。
だが、この因幡の白兎(いなばのしろうさぎ)本人でさえ、この時の自分の
姿を偶然に目撃した者によって伝えられ、遥か未来にフィギアスケートの
技となり、日本人初の金メダリストを誕生させる原動力となろうとは
誰一人として想像し得なかったとしても、なんの不思議でもない
ことなのである。