裏路地に靴音を響かせ黒い影が賭け去っていく。
そろそろ秋も深まり人々はコートに身を包み始める時期だと言うのに、
その人物の額には汗の玉が浮かんでいた。
幾つの角を曲がり、あるいは道を遮る壁を乗り越えたのだろう。
後ろを振り返り振り返りながら走る足が止まったのは、駆け出してから
かなりの時間が経ってからのことだった。
両手を膝に当て、荒い息の中、袖口で汗を拭うともう一度後ろを確かめて
ようやくと言った感じで安堵の息を吐きだしたのである。
「ふぅぅ、怖かったですぅ・・・。
まさかあんな猛獣が襲いかかってくるなんて思いもしなかったのですぅ。
にゃ〜にゃ〜って猫のマネをしていましたけど、きっと黒豹かムギに
違いないのですぅ。
街中にあんな狂暴な動物が徘徊しているなんて、また重大な情報を
手に入れてしまったのですぅ。」
そう私は闇の世界に精通し、自在に情報を操る情報屋なのである。
この世界で、情報屋の「はい」と言えばちょっとは知られた存在なのだ。
何を隠そう、新聞記者のマダム・レモンにも情報を流していると言えば
多くを語らずとも判って頂けるのではないだろうか。
そうマダム・レモンと言えば、彼女が一言記事を書けば大統領の首ですら
すげ変わると言われているのだ。
そんな人物に情報を流していると言うことは、私が影から世界を動かして
いると言っても過言ではない。
先日も、ショパール宝石店のダイヤ盗難事件で、スラブ系訛りのスラブ人が
うろついていた事や、マダム・グルオシが一枚噛んでいること、
真犯人があの快盗だと言うことを教えたばかりなのだ。
でも、今回は私も少々ドジを踏んでしまった。
もともとあのスラブ訛りのスラブ人達にショパール宝石店に大統領の
隠し財産の「ウクライナの月星」がありそれを見るために大統領夫人が
宝石店に訪れる時、一般にも公開されるという情報を流したのも私なのだ。
が、彼等がダイヤを盗み出す前に、あの快盗がかすめ取っていくことまでは
さすがの私にも予想だにすることはできなかった。
それで、どうやら私が快盗と組んでいると考えたのか、こともあろうに
私と、マダム・グルオシが拉致されてしまったのだ。
どうもスラブ訛り(よく聞いているとセルビア訛りにも聞こえるのだが
セルビア訛り風邪のスラブ訛りを話す、セルビア人風のスラブ人がいても
不思議ではないのでスラブ人に間違いはない。)のスラブ人の考えている事は
よく判らない。
なんとか脱出しようともがいていると、さらに驚くことが起こった。
誰かが私達の囚われている部屋に入ってきたと思ったら、なにやらマダムと
話し始め、その内容からなんとその人物が快盗アデリーペンギンその人だと
言うではないか。
さらに驚いたことに、これまでアデリーペンギンと言えば、単独の盗賊だと
ばかり思っていたが、なんと相棒がいたのだ。
彼女がマダムを連れて階下に降りて行ったあと、ナワを外し、後を
付けて行った私の耳にその相棒の声も聞こえてきたのだ。
どうやらその話しぶりから、この人物はアデリーペンギンの父親の
ようなのだ。
なんと快盗アデリーペンギンは親子快盗だったのだ。
そして、あのスラブ人達も同じ部屋にいて、説明だろうかなにやら
話しをしているらしい。
もっと正確な情報を得なければ一流の情報屋とは言えないのだが、私が
ドアに近づいた時、あの黒豹が襲いかかってきたのである。
いくら驚天動地の情報を目の前にしているとはいっても、私だって命は
惜しい。
両眼をランランと輝かせ、鋭い牙を剥き出しに恐ろしい唸り声を上げる
巨大な怪物に襲われたとしたら、どんな屈強な男といえども逃げ出しても
不思議ではないだろう。
危うく噛み殺されるところでレインコートを犠牲にして逃げ出すことに
成功したのだが、後は必死で逃げ回ることしかできなかった。
しばらくして、背後からスラブ人達のスラブ訛り(どうしてもセルビア
訛りにしか聞こえないのだがそんな事はどうでもいいのだ)が追いかけてきたが、なんとか
蒔いて逃げ切る事ができた。
まぁ、これぐらいのことができなければ、情報屋の世界で生きていく
ことなどできはしない。
だが、今回の事件は考えるほどに奇々怪々、摩訶不思議でしかない。
真犯人はアデリーペンギンだと言う事に間違いはないのだが、スラブ人達
との関係が判らない。
普通獲物を掠め盗られたら敵対するのが当たり前ではないか。
それにしては、あの部屋から聞こえていた声は争っているようには
聞こえなかったし、どちらかと言えば穏やかな調子ではなかったか。
それに、マダム・グルオシとも互いに知り合いのような会話をしていたでは
ないか。
夜霧に濡れ、寒さに震える身体を擦りながらトボトボと石畳の道を
歩く私の灰色の頭脳が回転を始めた。
それまでに集めた情報と、今回手に入れた情報を総合し、理論的かつ
合理的な推理を組み立てるのだ。
ショパール宝石店に大統領の隠し財産でもある幻と言われていた
ウクライナの月星があり、突然に公開された。
それが、こともあろうにアデリーペンギンに白昼堂々と盗まれた。
これまたおかしいではないのか。
本来ならこれほど重要な物が公開されるのだ、たった四人程度の警備で
済むはずもない。
警備会社のガードマンを始め、大統領お声掛かりのシークレットサービスが
数十人単位で常駐していても大袈裟ではないはず。
それに、いくら最近売り出し中の快盗とは言え、たった一人で衆人環視の中
展示されているダイヤを奪えるものなのだろうか。
「・・・そうか、判ってしまったのですぅっ。」
脳裏に煌めいた思考に思わず天を仰いだところ、間の悪いことに道の
段差に足を引っかけ、転んだ拍子に顔面を打ち付けてしまったではないか。
「くぅぅぅ、あいたたですぅ・・・。
どうしてこんな所に段差があるのですかぁぁぁぁっ。」
鼻頭を押さえながら反射的にそれを蹴り上げた瞬間、爪先から大脳に
電撃が走り抜け、今度は靴先を押さえ しゃがみ込んでしまった。
目頭が熱くなり、涙さえ浮かんでくる。
それでも、煌めいた考えは、忘れる事はない。
「アデリーペンギン、スラブ人そしてマダム・グルオシ、全員がグル
だったのですぅ。
私から情報を手に入れ、唯一彼等と接触していた私を亡き者にして
完全犯罪を目論んでいたのに違いないのですぅ。」
情報と合理的思考に裏付けられた、なんと大胆で緻密かつ完璧な推理なの
だろうか。
「きぃぃぃぃぃ〜っ、それにしてもこの はい をこけにするとはっ。
今転んだのも、この足の痛みも、こんなに霧が濃いのも、寒いのも
全てあいつらが悪いのですぅっ。」
そう思うと、怒りが沸き出してきて、じだんだじだんだだんだんだんと
足を踏みならしていた。
「あぅぅぅぅぅぅっ。」
再び、足先から大脳へと電撃が走り抜け、またその場で蹲ってしまった。
「くぅぅぅぅ、これも あいつらが悪いのですぅぅぅ・・・。」
それにしても、こんな僅かな事から事件の本質を見抜いてしまうとは
我ながら これほどの才能を持つ自分が怖い。
ひょっとして、私には情報屋の才能とともに探偵としての才能もあるの
かしらん。
いや、才能があるのだ。
これを埋もれさせておくのは、人類にとって最大の不幸でしかない。
私には未来に起こりえるイメージが明確に浮かんできた。
項垂れ縄に縛られる快盗とその一味、その縄の端を持ち足下に横たわる
黒豹に足をかけ優雅に微笑むのはこの私だ。
そんな写真が新聞の一面を飾り、マダム・レモンが私の名推理と大活躍を
賞賛する記事を書き、現代のシャーロックホームズとして名探偵はい の
名がフランス全土、いやいや全世界に轟くのだ。
毎日山ほどのファンレターが、世界中から事件解決の依頼が殺到し
難事件、怪事件を次々と解決する世界を叉に掛ける名探偵として活躍
するのだ。
そんな私の活躍は映画になり、そうだ本を出版するのもいいのですぅ。
そう題名は「名探偵 はい」。
これがシリーズとなって「名探偵 はい 時の狭間で」とか
「名探偵 はい 世界を統べる者」なぁんて言うのもいいですぅ。
キャ〜っ、キャ〜っ、もう大変なのですぅぅぅ。
そして私は決断したのだ。
「名探偵になるのですぅっ。
ふっふっふっふっ、世界中の悪人さん達よ、安息を貪っていられるのも
今しばらくなのですぅ。
とりあえずは、アデリーペンギンを捕まえ、私の名探偵としての輝かしき
第一歩とするのですぅ。」
決意も堅く地面を踏みしめた瞬間、私は再び靴先を押さえてしゃがみ込んで
しまったのだった。
浮き立つ心を胸に、軽い足取りで進む私の前に大きな門に閉ざされ
広大な敷地に建つ邸宅が見えてきた。
それまで浮き立っていた心が門の前に立った瞬間に灼熱の太陽が照りつける
砂漠に放り出されたカーネーションのようにみるみる萎れていくのが
自覚できたのである。
これからこの邸宅に忍び込まなければならないのだ。
敷地内はもちろん、屋敷内部の状況は完璧に調べ上げてある。
今の時間なら、家人はもちろん使用人の一部を除いては、深い眠りの中に
あるはず。
警報などのセキュリティーシステムは無効にするべく手も打ってある。
それでも、ここに侵入する事を考えると、アデリーペンギンのアジトから
脱出したことなどは、朝のカフェ・オーレを飲むより簡単なことにしか思えない。
が、いつまでも逡巡していてもしかたがない。
門から離れ、唯一壁と壁の間で、内外から視覚になる隙間に身体を
潜り込ませると、僅かなレンガの出っ張りに指を引っかけ塀をよじ登って
いくのだ。
さして時間をかけず上りきり、塀の上部に手をかけ一気に身体を引き上げた
勢いで飛び越え内側に着地する。
こんな事はまだ序ノ口なのではあるが、極度の緊張から深い溜息を
ついてしまった。
その僅かな音に反応したかのように、脇に生い茂る木々の中から低い
唸り声が聞こえてきたのだ。
この事は既に予想済みだったので、軽く手をふり落ち着いて声の主に
命令すればいい。
「鬱陶しいから、あっちに行っているですぅ。」
同時に唸り声が途切れ、ガサガサと草をかき分け現れたのは、鉄鋲を
打ち込んだ首輪を付けたドーベルマン。
それは一度振り向いたものの、何事もなかった様子で、小走りに庭を
横切って夜の暗闇に消えていったのだった。
グズグズしていて、別のドーベルマンが来たら面倒くさいので、姿勢を
低くしたまま庭を駆け抜ける。
当然のことだが、監視カメラ、赤外線警報装置、対人レーダーの死角を
通るのは言うまでもない。
恐ろしいことに、ここには対人レーザーまで装備されているのだ。
しかし、それらも感知してこそ効果を発揮するのであって、探知されなければ
単なる飾りでしかない。
噴水を回り込み、花壇や庭木を飛び越えてついに屋敷の壁に背を
預けるまでに到達した。
首を捻り二階にある部屋を確認する。
広いベランダを備えた一室が目的の部屋なのだ。
ここまでは順調にくる事ができたが、あそこに侵入するまでは気を
抜くことはできない。
最後の詰めを誤り、人生を終えた先達がどれほどいたかは思い出す必要も
ないであろう。
辺りの気配を探り、安全を確かめ壁を這う蔦を握り登っていく。
私一人の体重なら充分支えられることは既に判っている。
無難にベランダに手を掛けた私は、誰もいないのを確認し、そっと
床に足を下ろし、すかさず手摺りに身を寄せ周囲をチェックするが
警戒すべきものは何もない。
それでも数分息を殺し様子を伺ってから足音を立てず、大きなガラスの窓に
近づき中を伺ったが、そこにも人の気配は全くない。
それでも、今夜のように霧が出ていると、私の姿を隠してくれるので、
万が一誰かが居たとしても気付かれる恐れがなかっただろう。
一重に私の徳の成せる技である。
窓枠に手をかけ、一箇所だけ外せるようにしてあるガラスを動かし、
鍵を開ける。
カチャリと小さな音がして窓が開き、霧とともに室内に風邪が入り
白いレースのカーテンをふわりと揺るがせる
素早く室内に滑り込み、何事もなかったように窓を閉じると、やはり
緊張していたのだろう、身体のあちこちが強ばっていた。
緊張を解き、う〜んと大きく伸びをした無防備な状態の時そいつは
現れたのだ。
全く迂闊だった、まさか私が背後をとられるとは。
そいつは一言こう言ったのである。
「お嬢様・・・。」
あまりにも唐突な言葉に思いっきり舌を噛んでしまったではないか。
「あぅぅぅぅっ、じっじだをがんだのでじゅぅぅぅ。」
いやっそんな事よりこの場を取り繕わなければならない。
「あっ、こっこれはですね、いや、ちょっと外の空気を吸いに行こう
かなぁってベランダに出ていたのですぅ。
そしたら鍵がかかって、なんとかかんとかしていたら偶然窓のガラスが
動いたので、そこから鍵を開ける事ができたのでして、別に外出していて
今帰った訳では決してないので・・・。」
あたふたと弁明しながら振り返ると、そこには黒いスーツに身を包み、
白い口髭を蓄えた品の良い初老の紳士が立っていたのである。
その姿を見て、私は今日何度目かの安堵の息を吐いたのだ。
「・・・セバスチャンじゃないですかぁ。
驚いたじゃないですかぁっ。」
このセバスチャンはこの屋敷内にあって数多くの使用人の中で、唯一の
私の理解者なのである。
屋敷の先代の主人から使えている執事なのであるが、私を助けてくれる
仲間、戦友と言ってもいい。
見た目はどこにでもいるフランス紳士にしか見えないのだが、かつては
どこかの国の軍隊で勇名を轟かせ、素手でグリズリーを叩きのめしたと
言う話も聞いたことがあるが、今の彼からは想像することなどできないので
多分その先代の主人が面白可笑しく作り出した話しなのではないかと
思っている。
「お嬢様、このように遅くお帰りになられるとは、心配いたしました。
そろそろお迎えにいこうかと思っていたところでございます。」
セバスチャンの心配そうな顔を見ていると、心底申し訳なく思ってしまう。
「あっ、ごめんなさいですぅ・・・。
もっと早く帰ってくるつもりだったのですけどぉ、いろいろとあって・・・。
で、お父様やお母様には・・・。」
「はい、そちらは上手く。
ですが、あの方はひょっとしたら・・・・。」
私は、彼の言葉を遮り胸に秘めた決意を話したのである。
「セバスチャン、聞いてっ。
私 名探偵になることに決めましたのですぅ。」
その言葉に驚くかと思っていたのだが、彼は冷静に私の手を握るとこう
言ったのだ。
「さすがは私のお嬢様でございます。
やはり情報屋などと言うものより、お嬢様には探偵の方がお似合いで
ございましょうとも。
このセバスチャン、微力ではございますが、お嬢様が世界一の
探偵となられるため全力を尽くしましょうぞ。
必ずやシャーロックホームズはもちろん、ポアロ、コナンドイルさえも
解き明かすことのできない事件を解決されることでございましょう。」
あぁ、セバスチャン、お前だけが私を判っていてくれるのですね。
ついつい目が潤み、彼の手を強く強く握り返し、しばしお互いに見つめ
合ってしまった。
その目は、何を語らずとも伝えてくるのだ。
「あぁ、お嬢様、そうです私だけがお嬢様の本当の才能を見抜くことが
できるのです。
世界中の誰もがお嬢様を愛し慈しむのは当然でしょうが、それらの誰よりも
私が一番理解しているのでございます。
お嬢様がいつまでも私を必要とし、お側において頂けるものと確信いたして
ございます。」
私も彼の目を見て伝えるのだ。
「ありがとうセバスチャン。
そう、私は貴方を踏み台にして世界にその名を轟かせて見せるわ。
それまではどうぞ私を助けて下さいね。」
互いの心に僅かなズレがある事など、知る術を持たない二人なのであった。
二人が厚い信頼を交わしている最中、いきなり部屋のドアが開かれ、
一人の婦人が滑るような足取りで入ってきたではないか。
ハッとそちらを振り向いた二人の表情がとたんに引きつり声にならない
悲鳴が流れ出てきたのである。
「ロっロッテンマイヤー先生!」
同時にその名を叫んでいた。
ロッテンマイヤーと呼ばれた女性は、しずしずと室内に入り、緊張して不動の
姿勢をとる二人の前に立ち、眉間にシワを寄せ目元の眼鏡を指でクィッと
持ち上げ、はい に向かって口を開いたのである。
「お嬢様、このような時間までいったいどちらにおいででございましたの
ですか。」
それは落ち着いた静かな声であったが、他人に反論を許さない聞く者全てを
竦ませ(すくませ)恐れおののかせるに充分な迫力を持ったものであったのだ。
「よろしいですか、このHI家は遡ればかのフランス王家に代々お仕えした
由緒正しき名門の家柄。
お嬢様はその家を受け継ぐべき唯一のお方でございましょう。
それがどうです、そのような汚い男性の衣服を身に纏い、聞くところに
よりますと情報屋などと言う【下賤の輩とお付き合いされているとか。
よろしいでございますか、HI家はフランスにあっても名門中の名門、
政財界を始め、各界にも絶大な力を持ち、一族の皆様はそれぞれに
名声を馳せられ、貴方は将来その本家の後を継がれるお方なのでござい
ます。
セバスチャン、貴方も貴方でございましょう。
本来ならお嬢様のこのような行動に意見される立場にありながら
止められるどころか一緒になって・・・・。」
ロッテンマイヤーは眉間を揉みながらゆっくりと頭を振っている。
私は例えお父様の前であっても物怖じしないのだが、この先生だけは
苦手なのである。
まぁ、この屋敷にいる者の中で、対等に話しができるのは先代の主人である
私のお爺様だけなのであるが。
つい引っ込みそうになる言葉を必死に勇気を掻き集めて口にするのだ。
「ロッロッテンマイヤー先生、私情報屋はもうやめたのですぅ。
その変わり今度は・・・。」
その先は、ロッテンマイヤーが手で制した。
「それは部屋の前で聞かせてもらいました。
探偵を志さされるそうですね。
判っておられるのですか、探偵などと言うもの簡単に誰でもできるものでは
ないのでございます。
あらゆる事柄に精通した知識を持ち、どんな些細な事も見逃さない洞察力と
それらを組立考証する頭脳。
いえ、知力だけではなく強靭な体力と高い運動能力、自己を律する
理性。
時には自らの命を狙われ、近しい者の裏切りにあう事もあるのです。
そして正義を貫くためには最愛の人とも別れなければいけない事にもなるやも
知れません。
それでも探偵になられると言われるのですか。」
私は胸を張って答えた。
その程度のこと、今の私なら簡単に乗り越えられるのですぅ。」
私のその力強い返答に先生は、眼鏡を外し、射抜くように目を細めると
今度はセバスチャンに向かって言ったのである。
「セバスチャン、事務所はすぐに用意ができますか。」
えっと最初は何を言っているのか判らない様子だったが、そこはHI家で
執事を勤め上げている者である、間をおかずに答えを返したのであった。
「私の昔の知り合いに頼めば探偵事務所に適した物件はすぐに見つかる
でしょう。
必要な装備、情報なども手に入れる事も可能ですな。」
その答えに満足そうに頷くと、改めて はい に向き直ったのである。
「お嬢様、よく判りました。
よろしいでしょう、探偵になられる事、私もお認めいたします。
ただし、その探偵事務所には私の席も用意して頂きます。
よろしいですわね。」
聞きようによっては承認を求めているようにも聞こえたが、一体どこの
誰がそれを断れると言うのだろうか。
まるで激しく振られるシェーカーのように、コクコクと頭の上下運動を
繰り返すしかない二人の姿があった事は言うまでもないであろう。
それはロッテンマイヤーが室内から出て暫く経ってからも続いていたので
あった。
「それにしても、あの彼女がよく了承してくれたものでございますね。」
「うふふ、きっと私の説得に心を動かされたのに違いがないの・・・。」
そこで はい は不意に以前の出来事を思い出したのである。
勉強中は絶対と言っていいほどの厳格さで無駄話はおろか話しの脱線など
しなかった彼女が、一度だけ話しが反れたことがあったのだ。
それももう夢中で話し続けたようで、その時間丸ごと勉強の話しが
無かったほどだったのである。
そして、これも一度だけ彼女の部屋に招かれた事があった。
さすがに落ち着いた埃一つ落ちてはいない、彼女の厳格さを具現化した
部屋であったが、そこの大きな本棚を占拠していたのは、世界各地の
推理小説、正格には探偵小説の群れだったのである。
中でもお気に入りは、東洋で描かれたコミックの「シティーハンター」とか
言う本とか言っていた記憶がある。
そう思うと、部屋を出ていく際の彼女の後ろ姿が、やけに嬉しそう
だったのは、あながち見間違いではないのかも知れない。
なにはともあれ、こうして「はい名探偵事務所」は帆を上げたのである。
後日談になるが、パリの市内を歩いていた私の目が、一人の女性の姿を
捉えた。
どんなに変装をしていようが、あの顔、姿を見間違うはずがない。
私は、小走りに駆け寄り声をかけたのだ。
「エッヘヘ… いつぞやは、どうもですぅ。
実は、とっておきの耳寄り情報がね…」
彼女も私の顔を覚えていたようだ。
満面に笑みを浮かべてこう言ってきたのである。
「ごめんなさぁーいね。 私、今とても忙しいの。 また今度ね、
アデュー♪」
なんと言う事か、彼女の最大のライバルとなる私が名探偵事務所を
開いたことを教えて上げようと言うのに、そんな態度は許せないのです。
「あっ… 待ってくださいですーぅ!」
だが、私の言葉を無視して彼女の背中は人混みに紛れてしまおうと
していた。
その背中に向けて指を突きつけ、声に出して宣言するのだ。
「そうやっていられるのも今の内だけなのですぅっ。
貴方なんか簡単にやっつけてやるのですぅっ!」
そう言いながらグイッッと指を突きだした瞬間、私の前を横切った
人を突き刺してしまった。
私の指は薄汚れたジーパンに触れているのだ。
恐る恐るそこから続く胴体、肩、そしてほとんど真上を向くような角度に
顔を上げてやっとそのジーパンの持ち主の顔を見ることができた。
その顔は優しさに溢れ、今まで出会ったこともないような美男子だったら
よかったのだが、あいにくとその正反対に位置する方の顔が付いていた。
「おう、兄ちゃん、威勢がいいじゃねえか。
んじゃ、ちょっくらそっちで話しをつけようじゃねえか。」
私の目下の標的はアデリーペンギンなのだ。
こんなちんけな悪党にかまけている閑はないのである。
今日の所は見逃してやるから、ありがたく思うのですぅ。
伸びてきた手をかいくぐり、素早く人混みの中に紛れて行ったのであった。
「あ〜、ビックリしたのですぅぅぅぅ・・・・。」