私は牧師ではありません。神学校で学んだこともありません。以下は、一人のクリスチャンの体験談としてお読みください。
1.私が直面した問題
私は高校2年のときに洗礼を受け、大学に入学しましたが、入学後、自由主義神学といわれる思想等の影響で聖書についての考え方がぐらつくようになりました。聖書についての考え方は、キリスト教にとって根本的なものです。私の信仰そのものがちょっとした危機的状態になりました。聖書は神の言葉なのか。神の言葉は「本当に」人に伝わるのか。神が無限の存在だとすれば、有限な人間が神を「本当に」知ることができるのか。神は存在するのか。私が直面した問題は以上のようなことでした。
2.なぜ問題に直面したのか
ひとことで言うと知らず知らずのうちに現代思想の影響を受けていたということだと思います。きっかけは自由主義神学等でしたが、文学や美術、音楽に接するうちに、現代思想に親しんでいたのです。私は特にシュールレアリスムの絵画が好きでした。現代の思想や芸術に接することは避けられないし、悪いことでもないと思いますが、私の場合、それら自体が抱えている問題点につかまってしまったようなのです。
3.危機的状態の深まり
私は自分の中にキリスト教の反対論者がいることに気づきました。そして、キリスト教信仰者として、この反対論者を納得させる必要に迫られました。反対論者は自分自身なので簡単にはごまかせません。知的な意味で正直にならなければなりませんでした。このことは、現代思想とがっぷり四つを組むようなものでした。私は怪物を捕らえようとして怪物の深淵をのぞき込んでいました。形而上学と認識論の領域で、私は反対論者に勝つことができず、とうとう不可知論者になってしまいました。
4.シニシズム(冷笑的懐疑主義)
「AはAであり、非Aではない」という命題は、私にとって意味がなくなりました。この命題については、後述するシェーファーの著作に出てきます。全ての情報が私の中で統一的な位置を占めることはなくなりました。全てがありうるというような無秩序の中で、私は出口をさがしてうめいていました。
5.シェーファーの著作を読む
シニシズムを克服するきっかけはフランシス・A・シェーファーの著作を読んだことでした。「そこに存在する神」「理性からの逃走」「神の沈黙?」「それでは如何に生きるべきか」などです。そして幸運だったのはT君と語り合う機会があったことです。T君はスイスのウエモにあるラブリ(避難所の意味)という所でシェーファーから直接学んだ後、日本に帰ってきたのでした。私はシェーファーの著作を読み、T君に質問をぶつけて自分なりに思索を続けました。
6.非キリスト教的前提から出てくる論理的結論
非キリスト教的前提から出発したときの結論は、端的にいうと「理性からの逃走」です。理性によって神を疑うことにしたはずが、非合理、無秩序、神秘主義へと向かってしまうのです。善悪を判断する方法もなくなります。このことは現代の哲学、文学、美術、音楽にもあらわれています。シニシズムに陥っていたとき、私は非合理と無秩序の中にいましたから、すぐに納得がいきました。ただし、そうした論理的結論はやむを得ないのではないかと悲観的になっていました。
7.首尾一貫
シェーファーは「そこに存在する神」で次のように述べます。「自分自身の前提に対して論理的な態度をとればとるほど、彼は実在の世界からますます疎遠になってゆく。また、実在の世界に近づけば近づくほど、彼は自分の前提に対して論理的に一貫した立場をとれなくなってくる。」と。つまり、非合理や無秩序、善悪の区別がないという立場をとることは人間にとって不可能だというのです。私は自分なりに考えてみました。世界は非合理・無秩序で、善悪の区別がなかったとしても、仮に両親が意味もなく誰かに殺されたなら、私は復讐を誓うでしょう。私は首尾一貫できません。世界は不条理だと主張していたサルトルが道徳的な態度決定をしてアルジェリア宣言に署名したように、非キリスト教的前提から出発して首尾一貫することはできないのです。
8.キリスト教の思想構造の統一性
シニシズムの立場では首尾一貫できないと悟ったときが、私の中の反対論者敗退の始まりでした。非キリスト教的前提からの結論に比べて、キリスト教の思想構造のもつ統一性は目をみはるものがありました。無限で人格的な神が存在し、沈黙していないならば、神がその意思を伝えるために言葉を用いたときに、真実に人に伝達されるように配慮するはずです。人は無限な存在である神をあますところなく知ることはできなくても、真実に知りえるのです。そしてキリスト教的前提から出発するならば、先に述べたジレンマにおちいることなく首尾一貫することが可能なのです。キリスト教は非キリスト教的思想に十分対抗できます。シェーファーの著作を読むことによって、私のぐらついた信仰は軌道修正されたのです。
9.シェーファーの著作を読んでみたい方へ
あまり詳しくは書けませんでしたが、以上が私の体験談です。キリスト教を信じることは知的ではないと考えている方、現代思想の抱える問題に苦しんでいる方、あるいは、クリスチャンには神学や哲学は必要ないと考えている方には、フランシス・A・シェーファーの著作を読んでみることをお勧めします。