Nの手紙




 『拝啓  たつや様
  突然のお便りで大変驚かれていることでしょう。早春の候、いかがお過ごしでしょうか。
  そちらは大変寒い気候だと聞いています。風邪など引いていませんか。
  こちらは、あいかわらずの季節がまた巡ってくるようです。でも……私の心の中では、あなたといっしょに迎えるはずだった季節が、まだ、ここで止まっています―――』





  あのころのNはとても無邪気で天真爛漫なヤツだったと思う。自分の好きなものを見つけるとすぐに走って飛んでいったし、ちょっとやさしくされるとまるで猫のように甘えて寄りかかっていった。何か気に入らないことがあると、そのかわいい顔をむっつりさせて子供のようにスネてみせたし、でも気が変わるのが早くて、嫌なことがあってもあっという間に笑顔で立ち直っていた。その性格は恋愛にたいしてもまったく変わらなくて、だからNとたっちゃんの関係は、端から見ているとまるで子供のおままごとをしているみたいな、それは幼くて頭でっかちな恋人ごっこのようだった。
  だいたい、ふたりが恋仲になったのだって、お酒の席でずいぶんと酔っ払った上での冗談のような告白がきっかけだった。その時はべろんべろんのたっちゃんがいきなりNに抱きついて、妙にとぼけた声で「俺とケッコンしようよお」なんて言ったあと、感極まってNの胸元に思いの丈だけでなく、胃の内容物まで全部吐き出してしまったという有り様で、それなのにあっさりOKしてしまったNは、単に恋愛に憧れていただけなのか、それとも本気でたっちゃんが好きだったのか。
  ともかくきっかけはどうあれ、なりゆきだけでくっついたふたりは、周囲の心配をよそに、案外ウマが合ったように仲良く街を歩いたりして、あのころはほんとにうまくいってたように見えた。
 「でもあのころってさ。オレ、ほんとにガキだったから。たっちゃんに甘えてばっかで、自分の気持ちしか見てなかったんだよな」
  理想と憧れのイメージだけでたっちゃんに甘えていたN。それに引き換え、たっちゃんは。酒の勢いだけで恋愛を始めてしまったことを……実はものすごく気に病んでいた。





 『あのころは、本当に楽しい毎日でした。何に対してもやさしかったあなたに、心から甘えることができた日々は、私にとって遠く懐かしい思い出になりました。でもあの時、少しでもあなたの心に近づけていたなら―――』





  最初のうちは些細なけんかもしたらしい。わがまま放題のNをたっちゃんが引き止めることもあったらしい。でも、ストレートに感情をぶつけるNとは裏腹に、たっちゃんの心にはどこか遠慮があった。
  ふたりの間を行き交うはずの気持ちは、少しずつ一方通行になっていった。
 「ある時から、たっちゃんが何も文句を言わなくなって。何も言い返してこないようになって。でも、オレ、何も気づいてなかったから……」
  ふたりの関係は歪んだ方向に進み始めた。感情をぶつける方と受け止める方、言いたいことを言う方と黙って聞く方……それはやさしさという見せ掛けだけで、上辺にはうまくいっているように思えたが、知らない間に、傷つける方と傷つけられる方、という図式になってしまっていたことに、少なくともNは気づいていなかった。
  長かった冬が終わりを告げ、まもなく新しい春がやって来ようという季節……あたりに少しずつ春の訪れを感じられるようになったもののまだ少し風が肌寒い、そんな季節がふたりの最後になった。





 『あなたが急に旅に出ると言い出したあの時、私は何も知らないままにあなたを責めました。どうしてひとりだけで、どうして私を置いていこうとするのか。何より、どうしてもっと早く言ってくれなかったのか。私はさも裏切られたかのように、あなたを責めました。私は、本気で、あなたに恋をしていたんです―――』





  好きだからこそ言いたいことを言う。思っていることを言葉ではっきり伝えてこそ、初めてお互いが分かり合えるものだ……いつのまにかそう信じこんでしまったNは、形ある愛を求めすぎて、言葉だけでは決して分かりえない心というものがあることを見失っていたのかもしれない。
  春めいてきた景色を少し強い風が揺らしていたあの日。
  たっちゃんがひとりで旅支度を終えてしまっていたことを知ったNは、堪らなくなって、いつものように厳しい言葉を浴びせた。言葉で、自分の気持ちとたっちゃんの気持ちをなんとか諮ろうとした。
 「もう、あの時はショックで。なんで急に旅に出ようなんて言い出すのか、理由が分かんなくて。だから何度も何度も理由を訊いたのに、結局、たっちゃんは何にも答えてくれなかった」
  Nにとって、この時ほど言葉の虚しさを知ったことはなかっただろうと思う。どんなに言葉を投げつけても、どんなに悪言をぶつけても、たっちゃんはついに顔色ひとつ変わらなくて……最後の最後に返ってきた言葉は、「オレ、もうアパート引き払ったから」という、ただそれだけだった。
  たっちゃんの目の焦点が自分に合っていないことに、その時になって初めて気づいたNは、今まで衣着せず使いつづけた言葉を一気に失ってしまった。





  ふたりの季節は、本当の春を迎えないまま、止まっている。





 『―――あの時どうしていれば、なんていまさら思っても仕方がないけど。今でも、何度も何度も後ろを振り返りながら歩く私は、実はあれからそんなに変わっていないのかもしれません。
  あなたは旅をして変わりましたか。どこかでいい人と巡り合えましたか。恋をしていますか。』





  季節を運ぶさわやかな風が、今日も、街をひとり歩くNを追い越していく。
 「別に。いまさらよりを戻そうなんて思ってないけど。でもこれからは、人の心にちゃんと耳を傾けられると思うから……」





 『窓辺のナスタチウムのつぼみがふくらみ始めました。もうすぐ春が訪れます。
  止まってしまったあなたとの季節をまた取り戻せるときが来たなら、私はきっと新しい気持ちであいさつします。

                 もう一度、はじめまして。  』





 『―――追伸 返事は、いつかどこかで巡り合えるその時まで、いりません』