ENVIRONMENT
私の専攻『環境』について日々思うこと
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今回は私の重点テーマであるマテリアル・フローについて少しまじめに書いてみる。 人間が生活していく上で、「商品」は欠かせないものである。私たちが日々消費するものはほぼ商品(家庭菜園で取れた 野菜などは除く。しかし、これも種を購入した場合、やはり厳密に見ると商品になる)である。私たちは商品を作るため、 原材料を自然(Natur)から採取する。採取された原材料は、経済プロセスを経て加工され、商品となリ私たちの手元に 届く。消費された商品は最終的には廃棄物となり、また自然の循環システムに戻っていく。この人間界(経済)と自然界の 物質循環・交換はmaterial cycleと呼ばれる。廃棄物量は経済発展とともに増加し、埋立地不足・焼却施設からの有害物質 など、さまざまな問題を引き起こすようになる。 従来、政策として、廃棄物対策、有害物排出規制などは個々に 行われてきた。この政策視点を大きく変えるきっかけになったの、言うまでもなく1992年、ブラジル、リオ・デ・ジャネイロ で開催された国連環境会議である。これをきっかけに「持続可能な発展(Nachhaltige Entwicklung, Sustainable Development)」 は環境政策の分野において最も有名なスローガンとなる。廃棄物政策に関していえば、今まで、経済のアウトプットサイド しか視野に入れられていなかったのが、インプットサイドにも目が向けられるようになった。これは考えてみれば当然のことで、 経済にインプットされる物質量が減れば、アウトプットとして出てくる廃棄物量も減ることになる。(熱力学の考え方より、 エネルギー・質量保存則) 現在、先進諸国は世界の20%の人口を擁しているにすぎないが、物質消費量で見ると世界の80% を占める。発展途上国に対する倫理的責任からも、現在の先進国の物質消費レベルは下げられるべきである。 物質消費量を減らすためには2つの方法が考えられる。 1.経済への物質インプット量自体を減らす 2.物質が経済(人間界)に留まる時間を延ばす 1の実現のためには商品製造プロセス・技術の効率化、消費者の消費パターン の変換は必要である。2はリサイクリングや再利用を通して可能になる。 いずれにせよ、経済のDematerialisation -物質依存からの脱却-を実現するためにはこアれを記録し、管理することが必要となる。そこで出てきた考え方が Material Flow Accounting/Analysis(マテリアルフロー勘定/分析)を呼ばれる手法だ。このMFAはまだ歴史が浅いが、 World Resources Institutが中心となり、すでにいくつかの先進国について分析されたデータが出版されている。 日本では国立環境研究所がこの研究プロジェクトに参加している。 MFAでは、物質の流れがインプットからアウトプットまで一貫してとらえられている。また、GDPやGNPがよく知られている National Accountingは貨幣の動きを示すものであるが、Material Flow Accountingはこれと平行したシステムで、 物質の動きを重量単位(たいていトン,t)でとらえている。この手法を用いることによって、経済界における物質の動きを 経済的観点・環境的観点からとらえることができる。経済発展と環境保全を同時に成し遂げることは「持続可能な発展」につながる。 MFAはその目標に向かって動く手助けとなりうる。しかしながら、MFA自体で現在の環境問題が解決されるわけではない。 このMFAの結果をどのようにとらえるか?どのように環境政策に取り込んでいくのか?という点が次のステップとなる。 MFAはたんに「持続可能な発展」に向かう1つのステップにすぎない。 |
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常々書いていることだけれど、「環境」という言葉の裏に隠されているテーマは広範だ。わがリューネブルク大学
環境学部で扱うテーマも多彩。経済・経営・政治・生態・生物(動物・植物)・教育・物理・化学・地理・法律・
都市計画。すぐに思いついただけでも、これだけの多様な視点から「環境」というテーマはアプローチしていかなければいけない。
もちろんこの中でも、特に自分の専門を決めなくてはいけない。これだけの広範なテーマを全てカバーするのは
不可能。 私は今、「環境経済」の基礎を学んでいる。何を今さら…?と驚かれるかもしれないけれど、 「一定条件の下で、基本的に、環境汚染は時間経過とともに増加する。」当然でしょ?と思われる方が多い かもしれない。私にとっては当然ではなかった。このAussageに出くわした時は、ちょっと「目からウロコ」状態だった。 基本的に経済は、時間経過とともに成長するものだと考えられている。経済成長とともに、ミクロ経済的に言うと、 企業の製品生産量は増加する。例え、いわゆる環境税(ここでは、企業活動に伴う排出による環境汚染に課される税全般を指す) が課されているとしても、排出基準値が設定されているとしても。企業は基本的に「利益の最大化(Nutzenmaximierung)」 をモットーに、行動様式を決定するものと考えられるので、純粋に経済理論に従うとすると、「時間経過とともに 環境汚染は増加する。」これを食い止めるには、環境政策上、課税税率を上げるか、絶対的排出基準を設定する しかない。排出基準は、多くの場合、濃度規制なので、これでは環境汚染の増加は止められない。 ただ個々人、またその集合体である企業は、実社会において、経済性だけを追うものではない。多くの場合、 環境保護・保全は「倫理観(Ethik)」のよって支えられている。倫理観は、目に見えず、測定不可能なもの なので、それによって成立している「環境保護・保全」も脆弱だ。けっきょく、人間にとって、将来の地球に対するに 心配より、毎日の食事に対する心配の方が切実だし、緊急性を要する。両天秤にかけて、どちらかを選べと 言われれば、それは迷いなく「食事・生活」の方を選ぶに違いない。 「20世紀は経済の時代、21世紀は 環境の時代である。」とは、たしかワイツゼッカーの言葉。しかし、私はこの言葉を疑問視する。社会において、 「環境」が「経済」より重要な意味を持ちえることが可能だとは思えない。たしかに、社会において「環境」 という言葉・テーマはある一定の地位を築いた。企業活動を行う上でも「環境」は避けて通れないテーマだ。 ここドイツでも一時期盛り上がりを見せた「環境保護」の波は、十の昔に過ぎ去ってしまった。経済が芳しくない 現在、「環境」はあまり重要視されていない。あれだけ優秀と取り上げられ、日本のマスメディアを賑わした ドイツのゴミ収集システムも行き詰まっている。環境の行く末は…? |
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私たちの現代生活は、大量生産・消費・廃棄のもとに成り立っている。日本のマーケットにおける商品回転率
は異常な速さだ。特にコンピュータ・携帯電話関係はたった2・3年で、「今」持っているモデルは古くなってしまう。
研究によって次々に新製品が開発され、市場に出回る。それ自体は悪いことではないけれど、ものを容易に捨てすぎ
ではないだろうか?考えてみると、「使い捨て」商品が日本ではいまだに流布している。日本は、まだまだ社会構造
自体が「循環型(Kreislauf)」にはなっていない。 日常的な行動である「スーパーでの買い物」1つを とってもドイツと日本ではずいぶん違う。飲み物関係は、ドイツでは必ずリターナブル瓶かガラス瓶で売られている。 これらの瓶は、リサイクルがしやすいように、会社によらず同じ形。日本では缶が多く使われ、瓶も各社マチマチ。 ちなみに缶からは微量ではあるけれど、「環境ホルモン」が溶け出しているので(特に缶コーヒー)、缶飲料ばかり 飲むこと=ある種のリスクを背負うこととなる。野菜・肉類のプラスチックパック。これはドイツでないことは ないけれど、あまり見かけない。最後にレジでもらう買い物袋。ドイツでは基本的に有料。大した額ではないけれど、 レジ袋はドイツでは買うもの。ということで、たいていの人は、袋あるいはカゴ持参で買い物に行く。たった数例 あげてみただけでも、これが積み重なっていくとゴミ量にして相当の差になる。 かと言って、ドイツの システムが完璧かと言えば、けっしてそうも言えない。ドイツのゴミ処理システムを語る上で、必ず出てくる デュアルシステム。デュアルシステムによって行われる「分別回収」の本来の目的は、「ゴミ減量」にあった。 家庭ゴミは、大まかに言って「生ゴミ」「紙類」「ガラス類(色付き、透明)」「缶類」「プラスチック容器類」 「その他」に分けて回収される。慣れるまでは、たしかに面倒くさい。この市民側+デュアルシステム側の双方の努力 によって、ドイツ人の生活にすっかり溶け込んだこの「分別回収」システムも、「ゴミ減量」には結びつかなかった。 多くの専門家が寄り集まって、「ゴミ減量」のために打ち出したこの方策も、結局は本来の目的は達成できなかった。 結局のところ、突き詰めると、「ゴミ減量」を成し遂げるのは、私たち1人1人の「意識」にかかっている。 そのためには「ぜいたくさ」とは何か考え直す必要があるように思える。ぜいたく=消費と考える時代も 過去にはあったけれど、「ぜいたく」とはそんな物質的なものではなく、もっと精神的なものなのではないだろうか? 日本人は物質的な「もの」に固執する傾向があるように思う。「もの」を所有したり、消費したりすることのみに価値を 置くのではなく、もっと「精神的豊かさ」を深めるべきだと思う。 ドイツで生活し始めて、何度となく 感じたことは、「ここでは時間がゆっくり流れている」「考える時間がある」ということ。たしかに「金銭的」に 考えれば、ドイツ人は平均して「貧しい」生活を送っているかもしれないけれど、「精神的」にはずっと豊か な感じがする。家族と過ごす、休息する、日曜大工をする、庭仕事をする。そんな時間、日本では?日本に帰る度に、 時間に常に追われている感じが、少なくとも私はする。いくらお金があっても、豊かな暮らしとは言えない。精神的余裕 のもてる暮らしこそ豊かな暮らしなのだと思う。もちろんそれには、日本社会全体の転換が必要なわけで、 これは…長期的な視野で見ていかなければならないことなのだけれど、1人1人が求めるものが変っていけば、 社会もゆっくりながら、着実に変っていくもの。日本の場合には、「ゴミ減量」には、この「物」にとらわれた考え方を 転換することが不可欠のように思う。 |
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最近、日本でも「環境」は注目されているテーマ、いわゆる流行の分野だと言えるでしょう。
私が「環境」のテーマと取り組み出した当時(私の大学時代)は、日本にもドンドン「環境」と名の付く
学部が出始める矢先でした。私は比較的早い段階で、一応は「環境先進国」と言われるドイツに留学し、
そこで「環境」についての勉強を始めたわけです。特にここ最近、「ドイツで環境の勉強をしたい。」という方
から問い合わせが増えています。「環境を専攻する」ことについての心得えと言っては大袈裟ですが、
少し私の考えを交えてこのことについて書いてみたいと思います。 日本では、「環境」はまだ歴史 の浅い分野なので、「学ぶ」側の需要と比較すると、「教える」側の供給が決定的に不足しています。 環境について教えられる人材が、数的に足りないのは否めませんが、それ以外にも原因はあるのです。 それは「環境」がとてつもなく広大な分野であり、その中の個々の要素が複雑に絡み合っているため、 これを統合的に理解することが難しいという点にあります。「環境」という1つの言葉の裏には、様々な 分野が隠れているのです。 下にも少し書いた通り、「環境」を専攻していると、扱うテーマは非常に広範です。 私は、「環境」を専攻したいのなら、理系・文系の観念は捨てるべきだと思います。理系分野を避けて 「環境」は理解できません。同じように文系分野も捨てることはできません。「環境」というテーマに 取り組むためには、従来のアプローチでは不十分なのです。「環境」を理解するには、理系も文系も こなせることが必要です。(少なくとも、どちらかを毛嫌いしないこと。) もちろん、だから、「環境」という1つの言葉に含まれる個々の分野全てに通じることは不可能です。 個々の分野で「専門家」である必要はありません。「環境家」(ドイツ語ではUmweltwissenschaftler)に求められて いるのは、その個々の分野を横に繋げる、いうなれば「仲介者」の役目です。つまり全体を見つめる視野です。 「環境」を専攻するということは、けっして楽なことではありません。私も、あまりにも広範なテーマのため、 いつも自分の知識不足を嘆いています。それに、「将来の職業」という観点もけっして明るいとは言えません。 私が言いたいのは、安易な気持ちで、「環境」を選ぶのはやめた方がいいということ。実際に、ものにならずに、 中途半端に終わってしまうケースが多いのです。 覚悟を決めて、始めたのなら、最後までやり通して ください!厳しいことを書きましたが、私もまだ中途半端・未熟者です。これから「環境」が社会の中で さらに重要性を増し、「環境」の分野でより多くの同士(!)が活躍できる場が増えることを祈っています。 |
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2001年夏学期に無事、Vordiplomを終え、2001年冬学期からHauptstudium(本科)に入りました。
2001年9月20日より、リューネブルク大学環境学部は「新Pruefungsordnung(試験規定)」を採用したため、
以前、私がここに書いたシステムとは大幅に違ってきます。しかしながら、まだ採用されたばかりのシステム
のため、完全なものとは言えず、教授・学生サイドとも手探り状態の部分があります。
それを踏まえた上で、環境学部本科でのシステムについて書いてみます。 本科は規定では、5学期。必須2分野と選択2分野から成り立つ。必須2分野のうち、P1は地理学/物理/化学/エコロジー/ 応用・専門エコロジー/環境計画・自然保護/環境情報学から成り、P2は環境経済/環境マネージメント/環境コミュニケーション /環境政治/環境倫理学から成る。このうちP1およびP2から、原則として各3分野でSchein/Leistungsnachweis を取らなくてはいけない。Schein/Leistungsnachweisは教授によるが、プレゼンテーション、レポート、口頭テスト によって与えられることが多い。 さらに、選択専攻は7分野からなり、このうち2分野、自分で選んだ重点 テーマを決め、その2分野でSchein/Leistungsnachweisを6つ取ることになる。選択7分野は、環境化学/エコロジー/ 環境情報学/環境計画・自然保護/環境経済・環境マネージメント・観光マネージメント/環境法・環境政治/ 環境コミュニケーションの7分野から成る。ちなみに私の選択専攻は、環境計画・自然保護と環境経済・環境マネージメント ・観光マネージメント。いまいち、タイトルだけではイメージがわかないと思うので、私の興味があるテーマを 具体的に言うと、都市計画・交通計画・自然保護・観光および環境の関連といったところになる。 Diplomを取得にするには、さらに外部での研修3ヶ月、口頭テスト3つ(各45分)、Diplomarbeit(論文)を こなさなくてはいけない。今回の試験規定の改訂では、学生の自由裁量範囲を広げること、環境に関するより広範で 包括的な知識が得られるようにすることが主眼でした。たしかに環境の分野は、非常に幅広いテーマを扱い、 個々の分野が複雑に関連しているので、全体のシステムを理解するのはとても難しいことなのです。 さて、このPO(Pruefungsordnung)改訂の成果は…?それは、これからの卒業生が証明していかなくては ならないこと。このシステムに対する個人的意見を、また、ここで報告したいと思います! |
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日本の動向が世界的に注目されている。昨年のCOP会議が失敗に終わったため、先週からそのフォロー会議がボンで開かれている。
ニ酸化炭素排出削減を具体的に、文書の形で、世界的規模で取り決めた京都議定書が発効するかいなかは、いまや日本の動きに
かかっている。ドイツのニュースでも、ふだん、ほとんど聞くことのないJapan(ヤーパン)という単語が連呼されている。 日本は環境技術に関しては優れていて、ニ酸化炭素排出量に関しても、優秀な設備を投入して、すでに今の時点でかなり 絞られていることは事実。したがって、EUやアメリカと並べて比較されるのは、不公平と言えなくもない。しかし、日本政府の 京都会議(COP3)終了後の、この二酸化炭素排出目標達成に対する対応は緩慢で、当初から本気で取り組むつもりのないこと は見て取れた。始めから、日本政府には「排出目標達成は無理」という考えがあったのだろう。日本政府の打ち出す方針 は手先の細かな数値調整にすぎなかった。 そんな中で、昨年のCOP会議では、二酸化炭素排出量をどうやって算出するか ということ、技術的な問題が主要テーマになった。二酸化炭素排出量の算出方式には、さまざまな方法があり、実際、目に 見えるものではないため、不明な点も多い。日本・アメリカ・カナダなどが主張したのは、森林による二酸化炭素吸収量を 視野に入れた方式であった。たしかに、日本は質のいい森林に恵まれている。森林による吸収量を加味すれば、京都議定書に より日本に課されることになる二酸化炭素排出目標を達成できる可能性が高まる。EUは当初から、「この算出方式には不明な点が多い」 として大反対であった。二酸化炭素排出権取引き方式はすでに認められることになっているので、これにさらに森林による二酸化炭素 吸収量まで加味することになったら、京都議定書は抜け穴だらけの甘いものになる。 アメリカは、いつものように 自国のエゴで京都議定書には参加しない態度を表明している。日本はいつまでも、アメリカの後追いでいいのか? 自分で考える頭をもって、国際交渉の舞台でも、はっきり自国の態度、その根拠を示せるようになってほしい。 日本はなぜいつも、曖昧な態度で、自国の主張がきちんとできないのか?それは、言ってみれば、日本人の国民性から出ている のだろうけれど、これからの国際社会で、それでは生き残っていけないだろう。 |
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少し前になるが、日本で生活した経験を持つドイツ人女性と日本とドイツについて話す機会があった。他国の人と日本について話すと、
往々にして、日本人では気づかないこと、当たり前になっていることなど指摘されるので、おもしろい。 さて、その中で、彼女が繰り返し言っていたのは、日本では「使い捨ての速度が速い」ということ。もちろん、マーケットの動きも 早い。どんどん新しいものがマーケットに出回り、新しいものを買うと、古いものは捨てられる。「市場の動きについて行くだけで、 大変だった。ドイツでこれだけ商品の入れ替わりが早いと、まず消費者がついて行けないし、消費者から反発が起こるはず。」 これは消費財のみに当てはまるのではなく、「日本で家などの建築物の取り壊し・建て替えが激しいのに、とても驚いた。」とも 彼女は言っていた。たしかに。ドイツでは建築物を部分的によく修復しているが、取り壊し、建て替えたりすることはそれほど 多く見かけないし、市場の商品の移り変わりが激しいということもない。昔からの商品が信頼され、永く愛用されている気がする。 この話を彼女とした直後から、しばらくこの日本人の「消費志向」はどこから来たのだろうと考えていた。日本人はもともとから 「新もの好き」「大量消費志向」だったのだろうか? もちろんこの「大量消費」は、循環型社会を理想として考える環境的 視点から見た場合、「悪」である。日本社会がもともと「大量消費志向」だったとは考えづらい。ということはどこで転換が起こった のか?と考えた場合、やはり第2次世界大戦後までさかのぼるのではないかと思う。第2次世界大戦後、日本はアメリカによって 民主主義化され、目標とする国として「アメリカ」を設定した。アメリカに憧れを抱き、アメリカ人的生活を送ることを夢見た。 この時に、アメリカの大量消費的価値観が流入して、日本人の頭に豊かさの象徴=大量消費としてインプットされたことが、日本人 の「消費志向」の原因ではないか?という結論にいたった。ただわからないのは(危険な言い方だが)、なぜ敵国、つまり「憎むべき 対象」として見られていたアメリカが、急に「憧れの対象」に転じられたのかということ。その時代を生きたわけではないので、 ここが私にはわからない。 日本人の「消費志向」について考えていた時に、関連事項として気になったのは、日本人の 「見た目」を大切にする志向がどこから来たのかということ。日本人は「見た目」を大切にする。それはスーパーをとっても はっきりと見ることができる。日本のスーパーに並ぶ野菜・果物は型押しで作られたように形が整っているし、傷がついただけで、 極端に価値が落ちる。加えて、きれいにパックされている。ドイツのスーパーの野菜・果物は、見てくれも悪いし、傷だらけ。時には 腐りかけもある。まずパックされていることは珍しく、必要な分だけとって量り売りというスタイルである。贈り物を見ても、状況 は同じ。日本では最近は、ましになったとは言っても、大切な贈り物には「過剰包装」が施される。この過剰なまでの「見た目志向」 は一体どこから来たのだろう?最近、このテーマについてよく考えてみるのだが結論が出ない。ということで、結論の出ない テーマで文章を書くなどと言うのは、無責任ではあるのだけれど、これを読んだ方には、ぜひ意見をいただきたい。自分なりに 考えがまとまって、結論が出たら、もう一度、このテーマについて書きます。 |
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ミネラルオイルの高騰に伴うガソリン価格の高騰が、昨年あたりからドイツの各メディアに大きく取り上げられ始めた。
今やドイツでは、車による移動は、他の交通機関を使った移動よりも高くつく。日本のように、狭い国土の決まった地域に人口が集中
している場合、大都市周辺では車はそれほど必要ではない。それどころか混雑などを考えた場合、車ではかえって時間がかかり、不便
である。しかし、ドイツの場合、連邦制・地方分権が確立されており、自動車交通の基盤となる道路が整備されているので、移動には
車が便利である。それに輪をかけて、最近、ドイツ鉄道(DB)はことに遅れることが多い。よって交通手段として「車」を選ぶ人は
必然的に多くなるが、そこへこの「ガソリン価格」の上昇である。 フォルクスワーゲン、ダイムラーベンツ、アウディなど名立たる自動車メーカーの生まれた国。もともと車に対する思い入れは強い。 「車は乗りたいが、ガソリン代は高い。」そんなドイツ人が何をするかと言えば、ガソリンを買うための国境越え。むろん、これが できる人は国境沿い、あるいは国境周辺に住む人に限られるが、すでにこの傾向は顕著であり、そのために渋滞も発生する有様だ。 ドイツ人がガソリンの買い付けに行くのは、旧東の国々、ポーランド、チェコなどだ。ドイツでは1リットルあたり約2.12マルク (日本円で約125円)なのに対して、ポーランドでは約1.67マルク(98.5円)、チェコでは約1.54マルク(90.8円)である。 ちなみにEU内でもっともガソリンが割高となるのはオランダで、1リットルあたり2.41マルク(142円)となっている。 ガソリン価格1リットルあたり2.15マルクと考えた場合の内訳は、ミネラルオイル税0.98、付加価値税0.30、エコ税0.18、 仕入れ値0.55、その他の利潤、輸送費など0.14マルクとなる。さらに2001年11月からはこれに硫黄税0.03マルクが加算される。 (参考:Focus4月30日号) 車は、飛行機・電車・バスなどのようにダイヤに縛られないし、乗換えがなく、door-to-doorなので快適である。しかし、ここに 来て、ドイツ人は決断に迫られている。「それでも自動車か?それとも別の公共交通手段を利用するか?」ミネラルオイルの高騰 に加え、エコ税、硫黄税の導入も、ドイツにおけるガソリン価格を考えた場合、見逃すことはできない大きな要因である。少々 手荒いと言えるかもしれないが、私の印象では、ドイツにおいて確実に「自動車離れ」は起こっている。現に私の友人でも ガソリン価格だけのために、“車”での通勤を“電車”あるいは“自転車”での通勤に切り替えた人が数名いる。環境的視点から 見れば、もちろん、車は他の公共交通機関よりも環境負荷が高いけれども、廃絶するわけにはいかない。持続可能な発展のために は、パーク&ライドシステムのように、車(個人交通)・公共交通機関の上手なコンビネーションを進めていくことが大切である。 |
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環境技術が進んでいるのは日本。環境研究はアメリカ。環境意識・教育・政治はヨーロッパと言われる。ヨーロッパの場合、
大陸に多くの国が接し存在しているので、被害が一国に留まらず、隣国に及ぶため、特に環境政治には敏感にならざるをえない
状況があった。日本はその点、太平洋にポツンと浮かぶ島国である。それに加え、歴史的背景の中から生まれた「お上のやること
には口出ししない」的な考え方が、環境政治・意識の発展を遅れさせたと思われる。突き詰めて考えていけば、結局はメンタリティー
というところに行き着いてしまうのだけれど…。 元来日本人は「争い」を避ける、あるいは嫌う傾向にある。一方、ヨーロッパ人は、とりあえず意見を出し合い、議論を戦わせる ことを良しとする。ヨーロッパ大陸はさまざま人種・文化・宗教が共存する場所だから、意見が違うのは当然であって、話し合い (=口での争い)は不可欠である。しかし、日本は島国で、ヨーロッパほど多様な人種・文化・宗教が入り乱れているわけではなかった。 加えて、農耕民族である日本人は集落単位で生活する必要があったので、「ゴタゴタ」をなるべく起こさず、平穏に生活することを 良しとしたのだと思われる。 「お上は絶対」という意識がいったん植え付けられると、それに反抗することは不可能、あるいは無意味のことのように思われた。 戦後、アメリカから民主主義が持ち込まれたが、それはフランスのように“民衆自らで勝ち取った民主主義”ではなかったので、 民主主義の実感はなく、そのため日本人には政治・社会問題を自分の問題として捉える意識が薄いのではないか。そのため市民運動 の発展は遅れ、盛り上がらない。そして結果的にそれが「環境意識」の低さにもつながっていると考えられる。 その他にも、さまざまな要素が重なって、日本人の環境意識の無さにつながっている。日本から年々自然は失われているとは言う ものの、温暖な気候のため、日本は未だに豊かな自然に恵まれている。限られた国土の中にさまざま地形、さまざまな自然を見ることが できる貴重な国である。保護するまでもなく、植物は放っておいても、自然に育っていく。一方、ドイツは気候にそれほど恵まれて おらず、放っておいては森は荒廃していく。人間が手助けをして、豊かな自然を支えている。ドイツ人は、森の中を散歩するのが この上なく好きである。その森が荒廃し、安らぎの場を奪われることは、ドイツ人にとっては絶えられない苦痛に違いない。その ようなことが環境に対する決定的「意識」の違いにつながっているのだろう。 ドイツでは環境政策が進んでいるとよく言われる。有名なことろでは、ゴミ問題およびリサイクリング。これらがすべてドイツ人の 確固たる「環境意識」に支えられているのか、と言えばそうではない。「ゴミを多く出せばそれは家計に響く。リサイクリング すればお金が戻ってくる。だからゴミだって分別するし、リサイクリングにも協力するんだ。」とドイツ人に言われた。なんだかんだ 言っても、結局、一番有効なのは経済的手法なのかもしれない… |
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多くの方がこの学部に興味を持っているというのを目にしてたので、それでは「環境学部」について少し詳しく
書いてみよう、という気になりました。興味のない方には、全くおもしろくない話ですが…。 リューネブルク大学は、もともとは教育大学で、「環境学部」はそこから波及したいわば新しい学部です。 正式に学部として独立したのは、4年ほど前からだと聞いています。それ以前は、教職課程の一環として「環境」を 取り扱っていました。この大学の環境学部の特徴は、理系にも、文系にも属しないこと。環境というテーマに対する アプローチは、従来、技術的なアプローチが主でした。しかし、環境問題の性質上、技術的アプローチだけでは解決 できない問題が多くあります。例えば、教育・政治分野と環境は切っても切れない密接な関係にあります。そのような ことを念頭にリューネブルク大学環境学部は作られました。 環境学部の規定では、最短で9学期、つまり4.5年で全課程を修了できることになっています。(9学期で卒業する学生はまずいない…) 受入れは常に10月、冬学期からということになります。(ドイツの大学は2学期制。夏学期と冬学期。)課程はGrundstudium(基礎科) とHauptstudium(本科)に分かれていて、それぞれ4学期、5学期で終了できることなっています。私は今(2001年4月現在)、 4学期目なので、Hauptstudiumのことは正直なところまだわからないことが多いのですが、わかる範囲で書きたいと思います。 ドイツの単位履修制度は、大学、また学部によってもマチマチであるので、このシステムはおそらく、リューネブルク大学の 環境学部にのみ当てはまります。単位履修には2種類、ScheinとKlasurがあります。Scheinは「授業を確かに受けました」 という証明書、Klasurは主に筆記テストを指します。それ以外にPraktikumと呼ばれる実習をこなさなければなりません。 Praktikumは基礎科で6週間、本科で3ヶ月と決められていて、企業・自治体・自然保護団体などで「机上の理論」を「実践」 に移し、実社会で大学での学問をいかに生かすか体験することを目的としています。さて、大学での講義、セミナーは おおまかに自然科学系、経済学系、法律系、教育・社会学系に分けられます。そのなかでもさらに細分化されていて、 自然科学系では地球科学、物理/化学、生態学/エコロジー、自然・環境保護、情報学/数学/統計を、経済学系では国民経済学/経営学を 法律系では公法/私法を、教育・社会学系では環境教育、環境・政治・倫理をやることになっています。物理・化学では 特に実験/実習があり、それぞれ2学期こなす必要があります。化学は個人、物理はグループ実習です。その他におもしろいのは Tagesexkursionと呼ばれるいわば課外学習。コースにもよりますが、日帰り自転車ツアー、テント泊まり、夜間課外学習など のコースもあります…。(ドイツらしい…) 本科の講義構成は基礎科とほとんど変わりないのですが、本科では個人の興味に合わせて、経済・社会地理学、環境化学、 エコロジー/エコロジー毒性学、自然・環境保護、環境情報学、環境経済、環境マネージメント、観光マネージメント、 環境法、環境教育の分野から2つの重点テーマを選択できます。本科のことは、また本科に入った時にでも、詳しく報告 しようと思います。 |
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私が暮らすのは、北ドイツの人口7万人の小さな町。しかもその町のさらに郊外に住んでいるので、家の周辺
には、緑があふれている。家の前は、ちょっとした森で、うさぎやリスをよく見かける。歩いて5分も行けば、
牛・馬は当たり前、時には野生の鹿を見かけたりもするようなのんびりした場所だ。野生のハリネズミもこちら
に来てはじめて目にした。 ドイツではどんな大都市でも、車で10分も走れば、そこには森が広がる。大都市と言っても日本のような大都市 のイメージはない。中央集権国家の日本と、連邦制をとっているドイツの差がそこには見える。1つの町に人間・ 交通・国家機関が集中するようなシステムになっていないので、日本のような渋滞・通勤ラッシュはないし、 住宅地周辺にも緑を確保することができる。どんなに寒くても、散歩に行くような散歩大好きなドイツ人だから、 住宅地周辺に緑があることはとても大切なことだ。アスファルト張りの町は、その町の風景だけでなく、人の心 さえも殺伐とさせてしまうような気がする。自然の中で動植物とたわむれ、工夫をして色々な遊びを作り出す ことによって、子供たちの中に豊な心が育っていくのだと思う。遠出をしなくても、このように手軽に自然を楽しむ ことができる環境というのは、ストレスの多い日本社会にこそ必要なもののような気がするけれど、今さら 「アスファルトを剥がして、緑を!」と言ってもしょうがないし、現実性がない。 過去において、自然は日本では神聖なものとしてとらえられ、手を入れるべきものではない(神道の基本)とされて 自然と共存してきたが、それに対して欧米には自然は人間が手をいれて管理するものという考えがある、と本で 読んだことがある。その自然に対する根本的考えの違いは、公園にも見ることができる。日本で公園と言えば、 すべり台、ブランコ、砂場があって…と言うイメージだと思うが、ドイツではそういった公園はあることはあるが、 公園(Park)と言えばイメージはむしろ森のような所だ。この公園(森)は人間の手が入っていて、暗すぎず、明るす ぎず、道も整備されていて(アスファルト張りではない)、散歩、サイクリング、乗馬に最適だ。この森を天気の いい、暖かい日に散歩するのは最高だ。多大な税金を使って、人工的なコンクリートの公園を量産するより、日本 にももっとこういった自然を生かした公園が増えればいいのに、と思う。 <追記> 日本で自宅周辺を散歩していたら、「湧き水」の看板。どんなところかと行ってみれば、宅地開発の真っ最中。見る も無残な湧き水だった。その隣には、市が建てた看板。「豊な自然を大切に!」それならば、なぜそんなところに 宅地の建築許可を出しちゃったのだろう…?しかも湧き水が湧くような場所の地盤がいいとは思えない。日本の お役所がやることには矛盾が多い。もっとこういう小さなことでも、敏感に反応してもらいたい。 |