廣松哲学要約その1 廣松 渉著 『世界の共同主観的存在構造』勁草書房1972年刊 序章 哲学の逼塞情況と認識論の課題 (初出:『思想』1969年2月号 著者36歳) 要約 1989年4月14日(金) 井原二郎 ●20世紀の中葉は理論的創造力の低下した“諸学の停滞期”であった. 今世紀の最初の1/3世紀は理論の世紀 相対性理論,量子力学 精神分析学,ゲシュタルト心理学 条件反射理論,構造言語学,デュルケーム学派の集団表象理論 ウェーバの業績,ケインズの経済学 次の1/3世紀は理論の技術化・実用化の世紀 原子力の開発,“生命物資”の合成,[アポロ月旅行] ●諸科学の停滞と哲学の混迷とは,問題論的構制からいって同一の根から生じ  ている. 哲学は,各時代における人間の知的営為の根本的“構図と発想”を直セツに表 白するものとして,好むと好まざるとにかかわらず,人類の思想史的転換局面 を鋭敏に投影する. ●世界観 古代ギリシャ的世界観 存在観: 認識観: 中世ヨーロッパ的世界観 スコラ神学的・生物態的世界了解 存在観: 認識観:「形相−質料」図式 近代的世界観 存在観:実体主義 認識観:「主観−客観」図式 第1節 近代的世界観の破綻と「主観−客観」図式 ●近代的世界観の破綻 我々は,今日,過去における古代ギリシャ的世界観の終息期,中世ヨーロッパ 的世界観の崩壊期と類比的な思想史的局面,すなわち,近代的世界観の全面的 な解体期に逢着してる. ● “近代的”世界観の根本図式そのものを止揚し,その地平から超脱しなけ    ればならない. ●認識論的場面では,近代的「主観−客観」図式そのものの超克が必要. 「主観」「客観」なる概念は,近代をまって初めて成立したものである. 古代や中世には,そもそも「主観−客観」などという発想そのものが存在 しなかった. 原理的には「主観−客観」図式は「認識」を論考するために必要不可欠では ない.    ●近代認識論の「主観−客観」図式における三つの既定的・含意的了解事項. (1) 主観の「各私性」:認識主観の本源的同型性      『意識の各私性の命題』 Jemeinigkeit 主観は,いわゆる近代的“自我の自覚”と相即的に,究極的には意識作用   として,つねに各個人の人称的な意識,各自的な私の意識だと了解される. 一般には,近代的“個我の人格的平等性”と照応的に,この人格的意識主   体として,認識主観は本源的に「同型的」isomorph であると見做される. (2)認識の「三項性」:「意識作用−意識内容−客体自体」という三項図式    認識主観に対して直接的に与えられる「意識内容」が客体そのものから    区別され,対象認識は「意識作用−意識内容−客体自体」という三項図    式で了解される(“客体自体”は「存在と意味」では“意識対象”と書    かれている).    「意識内容」=知覚心像,観念,表象,等々. 「意識内容」の少なくとも一部に関しては,認識主観の能動的作用が及    び,加工・変様がおこなわれるものと想定されるのが常套である. (3)与件の「内在性」:認識主観に直接的に現前する与件は「意識内容」に    限られる.−−『意識の命題』,『内在の命題』Satz der Immanenz(ニ コライ・ハルトマン)    三項図式においては,いわゆる近代的な“物心の分離”と相即的に,認   識主観に直接的に現前する与件は「意識に内在」する知覚心像,観念,表   象,等々,つまり「意識内容」に限られるとされ,客体自体は意識内容を   介してたかだか間接的にしか知ることができないものと了解される. 第2節  既往の認識論のあい路と遺棄された案件 近代認識論を適応不全に陥れた三つの与件 (1)未開人の精神構造や精神病患者の意識構造の研究によってもたらされた    知見は「意識の各私性の命題」を否定した. ●認識主観の本源的同型性の否定: 文化人類学や精神病理学は,未開人や精神病者の意識構造が正常な“文明人  ”のそれとはおよそ「異型的」であることを明らかにした.脳髄や感覚器官  の生理的機構,基礎的な心理過程は“同一”であるにもかかわらず,文明人  と未開人とは−−丁度,諸民族が,大差のない生理機構をもちながらも,お  よそ相異なる言語体系をもつのと類比的に−−いわゆる高等な意識はもとよ  り,知覚の体系にいたるまで,およそ相異なった精神構造をもっている. この知見は,それ自体すでに,認識主観は本源的に「同型的」であるという前 提のもとに(対象が同一であれば同一[同型]の認識が成立する筈だ,という 了解のうえにたって)構築されてきた旧来の認識論をつまずかせるにたるもの だ. ●「意識の各私性の命題」の否定 そのうえ,当の「異型性」が「機能的」なものであることが明らかにされた  ことで,蹉跌が決定的になった.つまり,“知性的能力”はおろか“感性的  能力”にいたるまで,歴史的・社会的に共同主観化されていることが明らか  にされたため,意識の人称性,各自性というかの大命題そのものがもはや維  持できなくなった. (2)ゲシュタルト心理学が打出した発想,ならびに,その知覚研究がもたら    した知見は「認識の三項図式」を否定. ●三項図式の認識論的有効性の疑義 ゲシュタルト心理学は,「恒常仮説」(刺激が同一ならばそれに対応する感覚 も同一である)をくつがえした. 「恒常仮説」の否定によって,三項図式と「意識の各私性の命題」を立てる限 り,旧来の実在論的認識論は,認識の客観妥当性,認識と客観そのもの(の性 質)との対応性の権利づけを原理上は奪われている. ●知覚が本源的にゲシュタルト的に分節化していることを明らかにし,統覚  心理学的発想が破綻した. 近代認識論は,認識の事実過程に関しては,一般に,要素的意識内容が主観の 働きによって結合され現与の形象となるという統覚心理学的な発想に立脚して いた.[表象主義,計算主義の破綻] (3)フランス社会学派,なかんずくその「集団表象」の理説がもたらした    発想と知見は「内在の命題」を否定した. ●人々のもつ“意識内容”“表象”がいうなれば物象化することを究明し,社  会的事実を,この意味での物として処理する. 道徳的事象や「言語」を考えてみれば瞭然たる通り,「集団表象」は決して 諸個人がもつ表象の代数和でなく,特種的総合であり,新しい存在性格を獲得 する. それは,個々の意識主体と客体との直接的な関係によって生ずるごとき「意識 内容」ではない.言語や道徳形象の例からも分かるように,それは諸個人の意 識に対して「外在的」であり「拘束的に作用」する. この物象化された意識,集団表象は,意識の直接的な与件でありながら「意識 内容」ではないことにおいて,「内在の命題」を否定した. 第三節 認識論新生の当面する課題と視座 ●ロックやカントの認識論は,前近代的な形而上学的ドグマチズムの覆滅を  断行し,併せて“近代的”発想の姿勢を権利づけるという歴史的使命に応え  た. ●新カント主義は総じて,近代的地平の夜警・門番としての使命を演じた. ●マッハ主義,末期のカント学派,広義のブレンターノ学派,等々,は“  近代的”発想の古典的な図式を問い直し,自己批判と修正を遂行したが,  “近代的”発想法の基礎構造そのものには手をふれなかった. ●われわれが,今日,新生を期すべき認識論は,今日の時代的要求に応えて  “近代的”発想法の地平そのものを端的に自己批判し,その基礎的構造を  粉砕して,新しい世界観の権利づけを図るものでなければならない.   近代認識論を適応不全に陥れた三つの与件に対応する課題設定 (1)人間の意識が本源的に社会化され共同主観化されているという与件. これは,人びとの思考方式や知覚の仕方そのものが社会的に共同主観化されて いるという実状を示している.“同一の刺激”が与えられた場合ですら,人び との意識実態(知覚的に現前する世界)は当人がどのような社会的交通の場の なかで自己形成をとげてきたかによって規定される[例:外国語の聞こえ方, ハンソンの観察の理論負荷性Theory-ladeness].従って,「認識」は個々の 主観と客観との直接的な関係として扱うことはできない. 伝統的な認識論は,「認識(エルケンネン)」を主観−客観関係として扱う にあたり,他人の存在ということは原理上は無視して処理できるという想定 のうえに立っていた.[AIも同断]  ●いまや,しかし,他人の存在ということを認識の本質的な一契機として扱わ ねばならない.しかも,この他人たるや,これまた,単なる個々の他人として 扱ったのでは不可であり,一定の社会的歴史的な関わり合いにある者として, そのような共同現存在(ミットダーザイン)としてのみ,介在する.かかる他 人たちの介在が,discursive な思考の方式はおろか,ものの感じかた,知覚の 仕方まで規制し,いうなれば意識作用のはたらきかたを規制するのであるから, 「私が考える」cogito ということは「我々が考える」cogitamus という性格を 本源的にそなえていると云うことができよう. 意識主体は,生まれつき同型的なのではなく,社会的交通(フェアケール), 社会的協働(ツーザンメンヴィルクング)を通じて共同主観的に[同型に]な るのであり,かかる共同主観的なコギタームスの主体 I as We, We as I とし て自己形成をとげることにおいてはじめて,人は認識の主体となる. ●意識の社会的歴史的被制約性,その本源的な共同主観性はいかにして可能的  であるか,これの論定が課題となる. (2)意識のゲシュタルト的体制化(統覚心理学の破綻)という与件と恒常仮    説の破綻という与件. ●ゲシュタルト的分節化の具体的構造が共同主観的に規制されるのはいかにし てであるか,これを可能ならしめる意識の構造を究明することが課題である. (3)集団表象の物象化という与件. 認識の過程は,本源的に,共同主観的な物象化の過程であり,しかもこの共同 主観性(間主体性=共同主体性)が歴史的社会的に歴史的社会的な協働におい て存立する以上,認識は共同主観的な対象的活動,歴史的プラクシスとして存 立する. ●共同主観的な対象的活動はいかにして自己を物象化するか,これの構造を究 明しつつ,しかも同時に,いわゆる「物象化の秘密」(『資本論』)を認識論 的に解明することが課題である. 1989年4月14日(金) 井原二郎