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■ 人、ひと、ヒト > 利用者の声

【テーマ1】(2003年1月)

  生活支援事業一般財源化問題緊急プロジェクト
  貴方にとって、生活支援センターとは?


【趣旨説明】

 現在、厚生労働省の補助事業である「市町村障害者生活支援事業」が、平成15年度政府予算案の中において地方交付税措置として一般財源化される事が示されました。

 本年度で終了する障害者プランの目標値(690ヶ所)の約43%(300ヶ所)という低い達成率の中で、今回の地方交付税措置は時期尚早であり、全国の市町村障害者生活支援事業実施団体並びに都道府県・市町村から事業の継続的な実施を危ぶむ声が寄せられています。

 背景と経過はこちらを参照 →→ 生活支援事業・緊急アピール・あいち

 当センターとしても、支援費制度導入を前にして、生活支援事業は、障害者の地域生活の総合的な相談窓口であり、障害者のエンパワメントを担っている最重要な福祉施策であるとの認識に立ち、「署名活動」や「抗議行動」等に、協力しています。

 ここで原点に立ち返り、「生活支援センター」が利用者にとって、どのような存在であったのか、どのような存在であるべきなのか、直接利用者の声を聞いてみたいと思い、2003年1月16日に、会員交流ML(メル友倶楽部)にて、

★貴方にとって、生活支援センターは、どんな存在ですか?

★生活支援センターがもしなかったとしたら、貴方の生活は、
 今、どのような状況になっているでしょうか?

★生活支援事業をなくさないで!>厚生労働大臣様

などなど、皆さんの生の声をおきかせ下さい。

と呼びかけたところ、当センターの利用者の方から、熱いメッセージをいただきました。

以下、ご本人から掲載許可を得たメールを公開しています。


(40代、男性、弱視、2003年1月17日)

 誰でも障害者手帳をもらい障害者になった時、これは初めての
経験です。障害者に関する各種制度・支援内容など、初めから知っている
人はいません。

 また、障障害者手帳を発行し説明を行う役所・福祉課の
担当者も専門家ではありません。膨大で多岐、複雑な諸制度の中から
障害者本人にマッチした支援内容の提示を、担当者に望むのも
無理があると思われます。

 そこで必要になるのは、そりぞれの障害者にフィットした内容を
用意出来る、ナビゲーター・コーディネイターの役割です。
 現在、その役割を果たしているのが、生活支援センターだと思います。
 
 設立以来、現在もまた将来も、生活支援センターは多くの障害者にとり、
絶対に必要な存在であることは変わりありません。


(30代、女性、四肢痙性まひ、2003年1月17日)

私は中途障害者。自分の障害を容認することよりも、周りに障害を理解してもらうことが難しかった。自分では立つことが不可能で、手も思うようには動かないことが実感としてわかる。
だが、原因不明の時期が長かったこともあって、周囲は、「そのうちに治るかも」
「回復しないのはリハビリが充分でないからだ」など、突然の障害を受け入れ切れない反応だった。
その為、身近にいる人には障害を持って生きていく為の具体案を相談することが、非常に難しい状況だった。障害者としての生活は今日の問題で今すぐにも前向きな解決策が必要な状況であるのに、周りに相談すると「治ると信じて頑張るのが前向きな考え方」だという返事しか返ってこない。何より、行政関係者に3階の住居では生活出来ないことを理解してもらうのに、3年の月日を費やした。生活保護を受けていたので、費用や転居の必要性について理解を得る必要があった。その間、階段を這って上り下りするしか外出の手段がなく、外出がままならないストレスと、通院不可能な生活で、更に健康を損ない、障害を悪化させてしまった。
その時の私は名古屋市民ではない。当時住んでいた江南市には生活支援センターが存在していなかった。病院のケースワーカーに相談しても、病院を離れた段階でつながりは薄くなる。結局根本的な解決法は見つからないまま月日が過ぎた。
この時に、もし生活支援センターが存在したら、私は迷わず相談しただろう。そして、何らかの問題解決の糸口をもっと早期に見つけることが出来ただろうと思う。たとえ、具体的な解決法が見つからなかったとしても、障害を理解してもらえること、話しを聞いてもらえるだけであっても、その時の私には大きな救いだったと思う。病院から離れた障害者の相談窓口は少ない。障害を持つ以前からボランティアとして顔を出していたデイサービスにも通ってみたが、個々の生活の相談までは出来る場所ではなかった。社協にもボランティアとしてのつながりがあったので行ってみたが、福祉の窓口とは言えない障害に対する無理解を認識しただけだった。障害が悪化して車椅子生活を余儀なくされても、周囲は本当は歩けるのに車椅子に乗っているという認識しかない。「甘えている」「車椅子に頼るから歩けなくなる」という言葉に傷ついたこともあった。この状況で何が辛いかったか、生活の困難。経済的な破綻。それはもちろん辛かったけど「誰もわかってくれない」と思うことほど辛いものはない。
私にとって光明となったのは、持病の喘息を悪化させて入院した際に、通院困難な状況に疑問を持ちその改善策をケースワーカーに求めた医師の存在(それまでは、私自身に解決策を求められてきたが不可能なものは不可能だった)と、人事異動で新しく担当になったケースワーカーが生活状況の改善に目を向けて具体策を一緒に考えてくれた事だった。健康を損なってやっと得ることの出来た光明だが、その時の私はすぐに医師やケースワーカーの前向きな姿勢に応えられないほど、頑なになっていて、「全て、何をやっても上手くいかないから、諦めるしかない」という考えになっていた。ケースワーカーが根気良く、一つづつ解決の糸口を提示してくれなかったら、今の私は存在しないはずである。今の私を知っている人には、私にこんな状態の時があったとは信じられないだろうと思う。今の私は積極的に色々なことにチャレンジして生活を楽しんでいる。前向きに物事を考える。それは、けっして最初からそうだった訳ではないのである。というより、元々、勝気で前向きな性格だったはずなのに、その性格が変わってしまうほど、障害を持って自立生活を営むことが困難を極めたのである。
初めて障害が発現して7年。一昨年の7月に名古屋市の総合リハビリテーションセンター附属病院を受診したのは、気軽な気持ちからだった。その頃には、ひとまず、一階の住居に転居が叶い、通院も可能になって生活が落ち着いたことで、健康状態も改善された。この機に一度、しっかりリハビリを受けたいという気持ちになり、リハビリ目的の入院を受け入れているところを求めた。ケースワーカーと相談の上、一緒にリハビリセンター附属病院の外来を受診。思いがけない展開とはこのことだろう。担当の医師は混み合う外来で40分かけて私の話しを聞いた結果、精密検査のため入院が必要という結論を出した。「原因不明な状態でリハビリは不可能」と思えば当然なことなのだが、それまで、「原因を云々するよりリハビリが大事」というのが、周囲の意見として一致していたので、それが当たり前のように思ってきた。また、自分の障害の原因究明は医療機関で原因不明と言い渡された段階で不可能だと思い込んでいた。これまでの検査では不足であるということも、このとき初めて知った。驚きはしたが、きちんと検査してもらうことに異存はない。慌しくその3日後には入院となった。入院は慣れていたので準備も出来ていて、それ程の不安はなかったが、困ったのは病院が自宅から遠いこと。母と弟は自宅の近くに住んでいるが、弟が重度の知的障害者。母は狭心症。検査入院なので私自身は許可さえとれば外出も出来る。私が外に出て行くことで、週に1回程度、母と弟が訪ねてくれるだけで入院生活は成り立っていた。検査の結果、障害原因を完全に特定するには至らなかったが、麻痺の原因となる異常の所見が認められた。少なくとも甘えや精神的なものではないということがはっきりしただけでも大きな前進である。だが、これまでの生活で完全に変形してしまった足の状態を改善するにはリハビリでは無理であり、手術するしかないという診断を受ける事にもなった。私は手術を希望した。手術しても歩けるようにはならないということは告げられたが、そのままでは更に二次障害を招くことになりかねない。既に背骨に側湾が認められている。手術を受ける決断は揺るがなかった。唯一の不安は手術となれば私は動けない。母だけで私が動けない間のフォローをするのは無理である。完全看護と言っても看護婦の出来ることには限界がある。動けない状態が長くなればかなり辛い状況になりそうだ。私はリハビリセンター内にある生活支援相談室を訪ねた。状況を話し不安を打ち明けた。「誰か入院中の洗濯や買い物のフォローをしてくれる人が欲しい。話し相手になってくれるだけでも気分的に楽になる。」そのようなことを思いつくまま相談できる場所が生活支援室だった。手術日までは一旦、地元の病院で待機入院することになり、少し間があった。ケースワーカーも含めて手術に向けての話し合いを持ち、ボランティアの確保をお願いすることが出来た。待機入院中は自宅が近い。母もいつでも来ることが出来る。そう思っていたが、実際に地元の病院に移ってみて、母のフットワークの悪さにイライラがつのり、手術の際に母だけでフォローは無理であることを再認識する結果となった。
手術は成功した。持病やアレルギー体質、障害の状況等、手術によるトラブルは色々と予期されていたが、命にかかわるような大きな問題はなかった。ちょっとした内科的トラブルがあったものの回復は順調だった。手術後はあらかじめ顔合わせしてお願いしたボランティアが入院中を通じて、支えになってくれた。精神状態が良かったことが回復を早めてくれたと思う。不安を抱えて話し相手もいない状態で同様に回復したかどうか?心と身体はつながっていてお互いに影響しあう。落ち着いて治療に専念出来たのは相談できる場所があってこそのことだった。色々な体験をして2ヶ月の後、退院の日を迎えることが出来た。その後も地元の病院で別の手術(耳鼻科分野)を受けることになったので、自宅に戻ったのが昨年の2月末だった。
名古屋市での入院生活を体験して、地元との大きな違いを実感。地元の福祉は遅れている。交通機関も皆無に等しい。入院中の外出は快適だったが、地元に戻れば壁が多い。その中でも、生活支援センターの存在は大きかった。地元では相談の窓口が充分に機能していない。障害者の立場で物事を考えようという姿勢がない。質が違う。前々から名古屋市に転居したいという希望はあったが、退院して間もなく具体的に物件を探し始めた。月に一度のリハビリセンターへの通院のたびに生活支援相談室を訪ねた。そこで転居の話しをすることで、自分の希望を実行に移すための気持ちの整理が出来た。昨年の9月。退院後半年ほどで名古屋市への転居が実現した。生活支援は心の拠り所になり受診の再に必ず足を運ぶ場になっていた。昨年も終わりが近付いた頃には、転居後の生活も軌道に乗ってきた。そんな時「(障害)当事者職員募集」の張り紙を生活支援の掲示板に見つけた。その時までその張り紙に気付かなかったのは自分には無関係な状況だったからだろう。自分に出来ることを見つけたいと思った時にそれは目の前にあった。利用者から一員へ。生活支援が自分にとって必要であり、自分にとって拠り所であったことが、即座にその募集に飛びつかせる力になった。私は障害を持って、何が辛いことであるか体験で知っている。何が嬉しいことかも体験でわかっている。週一回程度の出勤で可能。多科の受診が必要で通院が長期かつ頻繁な私が就労できる機会は皆無に等しい。迷う理由はなかった。

今の医学や科学をもってしても、治すことの出来ない障害は厳然としてある。生活は便利になり食生活は豊かになったけど、それがあだとなって生活習慣病を招き、障害を持つことになるケースは多い。事故も一向に減る気配がない。ある日突然障害者になる。それまでの自宅での生活が一瞬にして困難になる。普段はそんなことを思いもしないが、けっして珍しいことではないのである。
入院中は設備が整っている。食事は出てくるし、看護婦さんの介助もある。施設も同様である。規則は鬱陶しいしプライバシーに不満はあっても生活の困難はなく、仲間もいる。自宅がある程度整えば退院する。または施設をあとにして自宅に戻る日が来る。そこまでは制度が整ってきている。相談もしやすい。ところがいざ自宅に戻れば社会との接点を無くしてしまうケースが多い。自宅内は問題なくても障害を持って仕事に復帰できるケースは少ないのが現状。苦労して外出しても自分の能力を活かせる場を見つけるのは難しい。自宅は整えたつもりでも、いざ生活してみると不都合なことが多々ある。中途障害者だけではなく先天性の障害者にとっても、いつかは親が年老いて介護が困難になる時は来る。その時がまだ来なくても、将来を見据えて自立を目指す障害者は多い。ヘルパー制度が整ったことで重度障害者の自立が可能になった。親が介護できなくなったら施設という図式を維持できるほど施設が充分に整っているわけでもない。第一、施設での一生を望まない障害者が自立を希望するのはごく自然なことである。家族と生活していても、介護の手が確保されていても、それだけで満足出来るものでもない。障害者の雇用はますます厳しい状態だし、健康上就労が難しい場合も多い。社会人であるはずが、社会参加しているとは言えない状況におかれている。生活支援センターはその時に必要な場所となる。単に困ったことを相談出来るだけではない。同様に障害を持つ人との出会い。ボランティアとのつながり。新しいことへのチャレンジ、自分の能力を再発見するきっかけ。障害者が社会生活を営む為には必要となることばかりである。学校や施設、病院から自立生活へ。社会との接点を作り、社会参加の糸口としての第一歩を踏み出すに当たって、それを支援する存在があることは大きな力となる。各自の個性を活かし、集団行動ばかりでも孤独な作業ばかりでもなく、自分なりのかかわり方で利用出来る。そういう場所が必要なのである。


(30代、女性、頸髄損傷、2003年1月17日)

わたしにとって、生活支援センターとは、自分自身を元気にさせてくれる場所です。
役割をもって仕事をするということの充実感を感じています。

自分のことを社会に訴えようとすると小心者になってしまいますが、
“誰かのため”となった途端にパワーがでる。
そんな不思議な体験をここ2年半体験しています。

そして仕事が楽しくて仕方がない。
みんなが元気になる姿を目の当たりにできる。
そして自分も元気になる。
生活支援は、みんなの元気が生まれてくる場所だと感じています。
地道ではあるが大切な空間です。

そして、同じ経験者だからこそちょっとした相談?話ができる。
そのちょっとした相談?話の紐がとけることが元気の源になるのだと思います。
大変なことは、誰にでも相談できるが、
こんなこと・・・と思っていることが実は前に進めない原因だったりする。
聴いてもらうことで気が済んだり、楽になったり、安心できたり、心の整理ができた
りする。
たまには、弱音や愚痴の言える人がいることが大事だと・・・
頑張っている自分のガス抜きが大事なのだと
それがピア・カンなのかなぁと感じています。


(30代、女性、変形性関節症、2003年1月17日)

 私にとっては、「情報&交流の図書館」と言う感じの、心強い存在であります 

 私自身の生活リズムの都合で、頻繁に利用する事はないのですが、いつも快く対応してくれるので、安心&気軽に利用できる所です また「自分自身と向き合う」を勉強させてもらえる所でもあります  「何を、どうしたらよいのか?」と1人で迷うより、まず支援センターへ自分の迷いなる事を話せば、情報&アドバイスをもらえます そうすると、(今いち、自分の考えがアヤフヤだな…)と、自分を反省&向上へのキッカケ作りになっ
ています 
 「図書館」と名付け?たのは、「こんな企画あります、参加しませんか?」「ボランティア募集や、やってみません?」など、情報発信や交流情報を提供してくれるからです  通院中心の外出が多い私には、たとえ参加できなくても、(へ〜知らなかった!)と思う物が多く、有り難い「情報図書館」です 

 もし生活支援センターがなかったら、「ひきこもり症候群」に陥っても、おかしくないと思います  情報や人と出会い、話したり、一緒に出かけたりして、心身ともに活性する事は、その人自身に思わぬ力を発揮し、より良き状態につながってると、私は思っています  現に私は、なかなか参加できなくても、「報告メール」を読んだだけで、参加した人達のパワーを感じ、(今度は参加したいな〜)と活力をもらっています! 


(50代、女性、リウマチ、2003年1月20日)

障害者、車椅子利用者の私には道しるべ・・・灯台です!

 3年前に瑞穂生活支援センター(当時、生活支援相談室)がスタートした時は、車を運転して車椅子(ヤマハJW−1)をリフトで積み込んで来ていました、初めての企画が車椅子利用者2名とスタッフでお出かけトレーニングでカラオケへ・・・忘れません! 名古屋リハビリセンター館内のバリアフリーチェックやセンターバスの巡回先のチェックなど、まだ公共交通も一人で利用出来ない時にウィルフェアーへ初めてリフトバス・ノンステップバスにスタッフと乗った事など車椅子になり恥ずかしかったり怖かったり泣いたり笑ったり、心に1段1段自分のものとして障害を受け入れたり、車椅子が自分のものとして受け入れるまでの数年間を共に悩んだり苦しんだ、瑞穂生活センターは私の実家です。
 今では電車・バス・飛行機など自由に一人で移動出来る様になり、お仕事もさせて頂けるようになりましたが全てのスタートが生活支援からです。
 真っ暗闇で行き場が見付からずさ迷っていた私が見た灯台の燈です。


(30代、女性、リウマチ、2003年1月21日)

私にとって生活支援センターとは、自分自身を取り戻せた場所です。
私は、中途障害者です。ずっと自分でなんでも出来ることがあたりまえに育ってき
て、突然の病気と交通事故で、だんだん自分ひとりで出来ることが少なくなりまし
た。
人に頼ること、助けてもらうこと、手伝ってもらうことはいけないことだと・・・。
自分で出来ないことは、諦めるのがあたりまえになっていました。
生活支援センターと出会い、少しずついろいろな講座に参加させていただき、何もで
きないと思っていた自分がいろいろな人に助けていただきいろいろなことができるよ
うになりました。
自分自身、何が出来るのか?何がしたいのか?わからなくなっていたので、とにかく
出られる講座に参加しました。
「ビデオ鑑賞会」、「お菓子づくり」、「外出講座」、「自助具講座」、「ボラン
ティア養成講座」、「PCスタッフ養成講座」などです。
特に「お菓子づくり」、「外出講座」、「自助具講座」では、ピアカウンセラーの小
寺さんが担当で、私と同じ車いすからの目線でいろいろなアドバイスをしていただけ
たことが大きいです。
「外出講座」では、一緒に行動してくださり、車いすでも公共交通機関を使って、外
出できることを知りました。車いすでの外出がとても怖かったのですが、ボランティ
アさんと楽しく外出することが出来るようになり、外に出ることにも慣れてきまし
た。
そして最近は、一人で市バス、地下鉄に乗られるようになりました。
「ボランティア養成講座」を受講して、ボランティアをしてもらう方だと思っていた
自分が、自分にも出来ることがあるかもしれないと思い、ボランティア活動にも参加
できるようになりました。
もし、生活支援センターと出会えていなかったら、何をしたらいいのか?何が出来る
のか?もわからず、家と病院の往復で人生終わっていたと思います。
突然、障害者になってしまった人、病院を退院した人、施設を退所した人、在宅で情
報が入らない障害者の人たちに、生活支援センター(当事者の声を聞いて、一緒に考
えてくれる場所)は、絶対必要だと思います。