| 2月9日 深夜の来訪者。
午前四時。外はまだ暗闇に包まれ、冷たく張りつめた空気が僕の眠る寝室の中に漂っていた。夢の中で僕は恐ろしい体験をしていた。詳しい内容までは憶えていない。ただ、悪夢を見た後の恐怖感だけがしっかりと僕の心に刻まれ、心臓はそれを証拠付けるかの様に高速で胸を叩いていた。
悪夢で目覚めたのだ。僕は布団の中で心拍数が普通に戻るのを待っていた。
疲れているのかもしれない。僕は最近の自分を振り返っていた。
思えば最近掴みかけた幸せは、蜥蜴の様に僕の手にその尻尾だけを残し、どこかへ去ってしまった。僕の中に残った幸せの残骸は不気味にぐねぐねとその身をくねらせていたかと思うと、跡形もなく消えてしまった。
また僕は間違えてしまったのだろうか。いや、ただ疲れ過ぎているだけだろう。
布団を頭まで被り、再び眠りが訪れるのを待っているとそれは来た。
ピンポーン……!
それは短めに響いた。布団の中で確かに僕は聞いた、玄関のチャイムが鳴らされたのだ!
午前四時。果たしてこんな時間にいきなり人の家を訪れる者などいるのだろうか。まさか、泥棒が在宅を確かめているのか?心臓が再びバクバクと音を立て始める。いや、泥棒なんかじゃないぞ。冗談じゃない。これは人じゃない、絶対人なんかじゃない!
最初は恐怖のあまり布団から出る事をためらったが、しかしここは僕の家だ。僕の家のルール第五条、略してボイール五条によると、「何人たりとも心霊体験を許さず」とある。
なるほど、こりゃ人だ。きっとピッキングで侵入しようとしている誰かだろう、と僕は考えた。得体の知れない何かよりは、ピッキングで家に入ろうとしている誰かの方がまだ撃退できる可能性がある、武器さえあれば僕は平気だ。だとすれば急がねば、この部屋に武器になりそうな物はないのだから。
僕は布団から出るとすぐに武器を探すため冷蔵庫を開けた。冷蔵庫の中は殺伐としていたが、武器になりそうな物はすぐに見つけることが出来た。茶色い玉の様な物だ。僕は普段この茶色い玉の皮を剥き、スライスしてしょうが焼きなどにして食すが、この玉を野茂が投げる事により相当な破壊力を持つ凶器へと変貌するだろう。
次に僕は野茂を探す為、家の外へ出ることにした。とびきりおしゃれな服に着替え、深夜のコンビニへと向かう。
深夜のコンビニに人影はまばらだ。「微熱」というレディースコミックを立ち読みしてから、肉まんを購入し、それを頬張りながら家路についた。
部屋に入り服を着替え、そして布団に入る。布団はまだ暖かく、その温もりに包まれた僕はすぐに眠くなる。さあ、明日も、頑張るゾぉー!
2月17日 素敵な隣の住人。
隣の家の住人が引っ越してから一ヶ月ちょっと経った。
業者が出入りしている所を見ると、そろそろ誰かが引っ越してきそうな雰囲気だ。次は一体、どんな人が入るのだろう。
前の住人は非常に律儀な方で、引っ越して行く際に我が家に挨拶に来て、クッキーをくれた。僕にクッキーをくれる人は皆、良い人だと思っている。いや、クッキーに限らず僕に何かお菓子類をくれる人は皆、素敵な人ばかりだと僕は思う。むしろ素敵な人は皆、僕に何かをくれるのだ。それは僕にとって素敵な人だから、そして何かとは別に物に限らない。例えばそれは思いやりであったり愛であったり、時としてゲンコツだったりする。
果たして、次、隣に越してくる人は僕に何かをくれるのだろうか。最近僕はそればかり気になり、仕事も手に付かなくなってしまった。寝ても覚めてもその事ばかり考えてしまうのだ。次隣に来る人も僕に何かあげることばかり考えているのだろうか。僕が思っているように、隣に来る人も僕の事を思ってくれているのだろうか。
僕がこういう事をしたら、次隣に来る人はどう思うのだろうか。隣の人の目から僕を見たら、僕はどんな風に映るのだろう。七三分けだろうか、それとも八二分けだろうか。世界が僕に何もくれなくなっても、次隣に来る人にだけ、僕は何かをもらっていたい。例えばそれは、その華奢な手に握り込まれた何か異臭を放つ気体だとしても構わない。鼻の前でダイレクトにその手を開かれても構わない。例えその仕打ちで鼻がもげたとしても構わない。ハナがモゲても構わない。ハナモゲわない、one
night.
さあ今、このドアスコープを覗いて隣に越してきた人の顔をこっそり見てみよう!ほら、僕の想像したとおり素敵に気合いの入った金髪坊主に腰履きダボダボズボン、指二本に渡るブッとい指輪にくわえタバコ、これまたブッとい金のネックレスが素敵な彼は僕の家のドアの前にタンを吐いてタバコを捨ててから不機嫌そうに家に入った。その後、ヒップホップの重低音がズンドコ我が家に響いて来たかと思うと麻雀パイのジャラジャラ音が聞こえて来て、若者達の楽しそうな声に併せて僕の家側の壁をドンドン蹴るわ蹴るわで僕は泣きながら布団に潜り込み、そしてこの世を呪うのだった。めーでーたーしーめーでーたーし!
2月23日 クールに怒れ。
クールに怒る、これはなかなか矛盾した行動だと思うが今日の僕を言い表すと、やはりその言葉がしっくりくる。
最近僕は怒るという事をしていなった。数年前、怒りの感情をどこかに無くしてしまったのだ。それは僕の中からある日突然、まるで蝋燭の火が消えるようにふっと消えてしまった。それまでは怒らない日など無いぐらい怒りの日々を送っていたというのに。その怒りの日々たるや往年の名優、シルベスタ・スタローン演じるあのランボーの三作目、ランボー3/怒りのアフガンな日々程だったというのに。
多分、一生分の怒りをそれまでで怒り果たしてしまったのだろう。怒り果てた僕はそれから怒らなくなり、近所の子供や、鳥やリスなどの小動物達まで近寄ってくる様になった。僕の肩で鳥たちは歌い、子供達は笑顔で夢を語り合いリスは足下で戯れ、山下達郎は切り株に腰掛けギターをかき鳴らしてアトムの子を熱唱していた。その様子は近所でも有名となり、怒りを忘れた僕はいつしか聖人扱いされ、「仏のランボー」と呼ばれるまでになった。あれは僕の人生で最高に幸せな日々だった。
しかし幸せは長く続かない。「仏のランボー」では長いからと、やがて僕は近所の者達に「仏ンボー」と呼ばれるようになった。「仏ンボー」は「ほボー」となり「ホモー」を経て、終いには「モーホー」と呼ばれるようになっていた。
違うんだ!僕はモーホーなんかじゃない!モーホーなんかじゃない!と山下達郎に詰め寄ったが時既に遅し、彼は僕の元を去っていった。去って行った達郎の事を考えながら僕は考えた。断じて違う。僕はモーホーなんかではない。僕は、モーホーなんかでは、無い!
沸々と怒りの感情が蘇るのを感じた。身体中にアドレナリンが駆けめぐり、全力でモーホーである事を否定し始めた僕の脳。そうだ、怒れ僕よ!怒りは生きる力だ!怒れ、怒れ、俺は生きてる、今ここに己の存在を示せ!最早僕は「仏のランボー」の面影も無い、ただただ純粋な意味での「モーホー」だった。
って、誰がモーホーじゃい!
僕はヒステリカルに足を踏みならし、奇声を発しながら涎を垂らして達郎の後を追った。程なく宝くじ売り場でナンバーズを購入していた達郎を見つけたので彼のフォークギターを取り上げそれでヤツの頭をバシバシ叩きながら言った。
「俺はモーホーじゃない、モーホーじゃないわ、モーホーじゃないわん、あっはん、うっふん、あたしはモーホーじゃないわよ、失礼ぶっこき過ぎよこの……、あらいやだ、いい男!あたいを抱いて!」
私は血まみれの達郎を後に走った。
こうして私は、横田基地に駐屯しているという23歳の黒人に抱かれることとなった。来月、彼の故郷であるカリフォルニアに飛び、彼の両親に挨拶をしてくるつもりだ。緊張しないわけではないが、それ以上に初めての海外旅行に私は舞い上がっていた。しかし、パスポートの性別の欄に書かれたmaleという文字を彼にはまだ、見せることは出来ないのだった。
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