・ソフィー的アクティブスリム力学における視野狭窄についての考察
今日、社会や文化の基軸や価値観がはっきりしなくなってきて、黒と白、現実とイメージ、保守と革新、正気と狂気などといった境界線(ボーダーライン)が引けなくなり、ボーダーレス化していることが現代社会の特徴として挙げられる。そんな中で唯一絶対の存在として、おそらく「愛」だけが誰も文句をつけることのできない至上の価値となってきているのではないかと私は考える。
一概に「愛」と言っても、人類愛、祖国愛、郷土愛、家族愛など、様々な範疇があるわけだが、比較的世界情勢が落ち着きを取り戻してきた1980年代以降は、とりわけ性愛が至上の価値となり、家族愛や親子愛まで押しのけようとしているように見える。そこで今日たった1つ残った価値となってきている愛、それも性愛をめぐって、とりわけ男女関係を取り上げ、その中でも男女関係における「恋愛の視野狭窄」に的を絞って考察してみる。
人間は恋をすると視野狭窄になりやすく、手に入れにくい相手ほど追いかけたくなる、というのが私の持論である。
人間以外の動物にについてはわからないが、少なくとも人間に限って言えば、恋愛は決して合理的なものではものではない。これは要するに、恋は大脳皮質がするものではないからであり、そもそも人間というものは大脳皮質に刷り込まれた文化による抑制なしには合理的に行動することができないそうだ。そして、大脳皮質には性ホルモンの分泌を感知する細胞がなく、好き・
嫌いといった感情をつかさどるのは、大脳辺縁系に属する間脳や脳下垂体である。ゆえに理性だけで恋愛を云々することはできなくなり、その結果視野狭窄に陥る、ということである。また、どういった相手に対してどのように視野狭窄に陥るかということを次に考えてみる。
ユングは、人間の心の奥底にはすべての人間に共通した集合無意識というのがあり、その集合無意識の部分に男性なら"アニマ(女性的な部分)"という共通のイメージ=元型があり、女性なら"アニムス(男性的な部分)"という元型があるという。そして、自分の中にある"アニマ"に近い女性を男性は求め、女性は自分の中の"アニムス"に近い男性を求めるのだという。
恋愛感情は我々人間の心の中の無意識の部分にあるもっとも強い本能である。人間の本能や無意識に根ざしていて、非常に強い感情的な負荷が加わる。そして人間の心の奥底から沸き上がってくる欲動であるがゆえに、理性的に考えられるものではないのである。そして、恋愛する時ターゲットにする対象は、必ず一定の特徴を備えている。そうした特徴がどのようなものかを知るための参考になるのが、その人が生まれつき持っていると思われる"潜在意識"である。
たとえばフロイトは、エディプス・コンプレックスやエレクトラ・コンプレックスは、その人の生活史の中で作り上げられた個人的な意識であると考えた。あるいはアドラーのいう劣等コンプレックスもやはりそうだろう。それに対して、人間には生来の無意識に基づくコンプレックスがあるというのがユングの考え方だ。ユングの分析心理によると、人間の心の奥底には、人類が発生したときからインプットされている"集団無意識"と呼ばれるものがあるという。それが人類全体に共通する遺伝子によって決定されているものかとなるとはっきりしないのだが、人類には夢の中や神話や民話、幻覚の中に出現する共通のイメージの型があるとして、それを"アーキタイプ(元型)"とユングは名づけている。そうしたものの一つとしてユングが挙げているのが、"シャドー(影)"である。これは前にも触れた"アニマ"や"アニムス"とともに非常に重要なものの一つで、自分の心の中にある、自分で認めたくない、悪の部分のことである。具体的には、夢の中に黒い男や黒い影、あるいは黒い悪魔や黒衣の男として出てきたりする。
男性の場合、この"シャドー"の部分と"アニマ"が合体すると、とんでもないことになる。つまり、心の奥底にある"黒い悪の部分"が本人の中にある女性像と合体して"黒いアニマ"となり、その"黒いアニマ"のような、つまりは人を破滅させるような女性像に知らず知らずひかれてゆくということもありうる、というわけである。
おとぎ話の世界で言えば、代表的な例は「竹取物語」である。私は常々疑問に思ってきたのであるが、かぐや姫は自分は月に帰るべき女だから、求婚に応じることはできないというのだが、それならそうと最初から言えばいいのではないか?
ところが、彼女はそのことは最後まで明かさない。それどころか、次々と男性に難題をふっかける。男性は彼女の繰り出す難問をなんとか果たそうと努力するのだが、結局最後は皆、身を滅ぼしてしまう。考えてみるとこのかぐや姫は"手に入れにくい相手"の女性の典型かもしれないが、それだけに男性たちは皆必死になるわけである。
そうした、いくら努力しても手に入らないというイメージの女性としてかぐや姫を差し置いて形象化されているのは、日本では小野小町である。ところが、小野小町は性器を持たない女性だったという伝説がある。つまり、たとえ口説き落としたとしてもSEXすることはできなかったわけである。それでもなんとか手に入れようと、世の男性は必死になるという話である。
男性の場合、ある特定の女性を見ると勃起するということがあるのだが、この場合も、ひとたびその女性とSEXしてしまえば、あとはどうということはないのだが、そのとき、その男性は彼女とでなければ勃起しないという状況判断をしているわけである。
そうした男性の特質を意識してか、世の中には二人の男性を争わせてそれを楽しむ悪女もいるようだ。もちろん女性がそういうことをするのは、哺乳動物のメスの行動としてはわかりうる。つまりは、自分の"配偶行動"の相手は、よりつよいほうがのぞましいからである。これには二つ理由があり、一つは、自分を守ってくれる、もう一つは自分の遺伝子をできるだけ強く継承した固体を残したいからである。そうした意味で、女性が男性を試験するという話というのは、民話や地方の伝説の中にも多くでてくる。
恋愛の視野狭窄とはそれが起こりうる相手に対し無意識的に起こり、ひいては身を破滅させる危険をも含む。何だかとても恐ろしい気がするが、こうした恋愛の視野狭窄とは、当人自身の無意識、潜在的なところに端を発するものであり、また、歴史的見地からも避けようのない人間の精神行動であると推測できる。ゆえに視野狭窄に陥らないように何かしようとしたところで、今となってはもう打つ手の無い諦めの境地といったところであろうか。足掻いたところでどうにもならないのであるならば、世の男性達はただ相手の女性が自分自身の"黒いアニマ"でないことを祈るのみではないか。
結局のところ、恋愛の視野狭窄について考察してみても、そのたしかな処方箋は見当たらないのである。ならば、その流れに身を任せ、あとは自分自身の運命に従うしかないのではないか。私はそれが自分自身の運命であるならば、視野狭窄、大いに結構である、と考えることにしよう。
| ※ソフィー的アクティブスリム力学 | ・・・ | 「どんなに動いても安心」、つまりフィットが素晴らしいということを男女関係に応用したもの。ソフィーが秘密の花園を包み込むように、男性も女性を包み込みたくなる、または一度包んだら離したくないと思い込んでしまう心理現象を、男女ベクトルの相互関係に基づいて体系化したもの。 |