聖書4 (1999年7月30日)

続けて書く。
なにせ、聖書なんて、ネタはいくらでもあるのだ。
わたしのやる気があるかどうかが問題・・・

今日は、「ソロモンの知恵」のお話。
イスラエルの王ソロモンをご存知だろうか。
前回書いた、ウリヤの妻によるダビデの子、だ。
ダビデが、自分の家来であるウリヤの妻、バテシバを王宮に招じ入れて関係を持った時に妊娠した子ど もは、その後死んでしまったのだが、最終的にバテシバを王妃とした後に生まれたのがソロモンだ。
ソロモンは、イスラエル王国で初めて神殿を築いた王である。

そのソロモンが、神に祈って願ったのが「知恵」なのだ。
その「ソロモンの知恵」を象徴する話がある。
ある時、子どもの所有権を巡ってふたりの女性がソロモン王に訴えてきた。
子どもの母親はわたしだ、と主張して二人とも譲らない。
そこでソロモンは一計を案じる。
「それほど愛しい子どもなら、ふたりで引っ張り合って奪うがよい」
それで二人の女性がその子どもの手を取って引っ張り始める。
ところが、一方の女性が、すぐに泣き出して引っ張るのをやめてしまう。
可哀想でとても引っ張れない、というのだ。
それで、当然子どもはもう一方の女性の手の中に収まる。
それを見たソロモンの裁きはこうである。
「手の離した方がほんとうの母親である。ほんとうの子どもであるなら、可哀想で引っ張り続けられる はずがない。」

これって、日本なら、「大岡裁き」だよね。



聖書3 (1999年7月27日)

約1ヶ月ぶりに書く。
聖書は、「聖なる書」であると同時に、「性の書」とも言われる話。
こんなことを書くと不謹慎だと言われそうだ。
逆に、「へえ、そうなの」と色めきたつ御仁もおられそうだが、まあまあ、落ち着いて。

新約聖書の最初にあるのは、「マタイによる福音書」である。
「福音書」というのは、イエス・キリストの語った話やなした業などが記されている、新約聖書の中心 部分で、全部で四つある。
その「マタイによる福音書」の冒頭部分は、イエス・キリストの系図だ。
これが結構長くて、新約聖書を読み始めた人の、読む意欲を決定的に殺ぐシロモノだ。
この中に、四人の女性が出てくる。
順に、タマル、ルツ、ウリヤの妻、そして、イエスの母マリアである。
この四人は、すべて尋常な人生を送っていないか、異邦人(ユダヤ教徒あるいはユダヤ民族でないもの) である。
ちなみに、聖書では、特別な場合を除いて女性は無視されている。

まず、タマル。
ユダヤ民族の祖とされるアブラハムの孫であるヤコブ(イスラエル)に十二名の男子があり、その中に ユダというのがいた。(ああ、ややこしい!)
このユダの長男に嫁いできたのがタマルだった。
ところが、長男が早く死に、次男(名前がオナン。「オナニー」の語源とされる)も死んで、三男には 嫁げそうにないことを知ったタマルは、あろうことか遊女に変装し、舅であるユダを誘って関係を持ち、 双子を産んだのである。
当時は、姦淫(婚外交渉)の罪は重く、石で打ち殺されることになっていた。
ただ、相手がユダであることがわかるに及んで、族長という立場にあったユダは、タマルを許さざるを 得なかった。

ウリヤの妻(バテシバ)も、イスラエルの王ダビデが召し入れて最終的には王妃としたのだが、バテシバ から誘ったフシがある。
ウリヤはダビデの家来で将軍だったのだが、ダビデの指示で戦の最前線に孤立し、戦死させられている。
つまり、ダビデは、家来の妻を奪い、姦計によってその家来を殺したとされたのだ。

ちょっと刺激が強すぎただろうか。
このような事情が、聖書に鏤々綴られているのである。読んでいて恥ずかしくなってくるほどだ。
しかも、このような女性たちが、イエス・キリストの先祖なのだ。
これは一体何なのだろう。
一般の人たちには到底理解できないが、キリスト教徒にとっても理解不可能なことなのだ。
この謎を解けるのは、実は、イエス・キリストだけだったのかもしれない。



聖書2 (1999年6月30日)

どうやら2回目が書ける。
けど、なに書こ?

聖書は、旧約聖書と新約聖書がある。
旧約聖書はもともとユダヤ教の教典で、現在は39巻ある。
ユダヤ教では「旧約」はなく、単に「聖書」だ。
もうひとつの新約聖書は、イエス・キリストを中心とした書物で、ユダヤ教はイエスをメシア(キリスト) とは認めていないので、ユダヤ教が新約聖書を使わないのはあたりまえのことなのだ。
「旧約」と「新約」に分けたのはキリスト教である。
「旧約」とは、「古い契約」ということで、神がモーゼを中心として与えられた救いに関する契約である。
モーゼは当時のユダヤ民族の指導者で、エジプトで奴隷としてコキ使われていたユダヤ民族を解放し、 神が用意された「カナンの地」(今のパレスチナ)に導いた。
「新約」とは、それに対して「新しい契約」ということで、神がイエスを中心としてなされた救いに 関する契約である。
新約聖書は、現在27巻ある。
旧約は39巻あるので、3x9=27と覚えるとよい。
以上の66巻がキリスト教の正典(正式な教典)として採用されている聖書だが、これ以外にも、旧約・ 新約それぞれに、外典あるいは偽典と言われる書物がある。
これは、正典としては採用されなかったが、神学研究などで参考資料とされたりしているものだ。
正典の中には、外典あるいは偽典から引用している箇所もある。
ちなみにメシアとは、「油注がれた者」という意味のヘブル語「メシアハ」から来ており、「救い主」 という意味で使われている。キリストはそのギリシャ語「クリストス」から来ている。

「聖書入門 初歩の初歩」のようなことを書いたが、冒頭に書いたように、ユダヤ教はイエスをメシア とは認めていない。
ユダヤ教とキリスト教は長い間敵対関係にあったのである。
しかし、現在のイスラエルとアメリカの関係を見ると、コトはそう単純ではない。
もちろん、ただユダヤ教とキリスト教という関係を当てはめればいいというものではない。

ユダヤ民族は、イエスの死後数十年で(首都エルサレム陥落はAD70年)国を失い、流浪の民と なって全世界に散らばっていった。イスラエルという独立国家を取り戻したのは1900年も後の ことだ。
その間、ユダヤ民族は多くの苦難と迫害を経験し、辛酸をなめ尽くしてきた。
それは、ユダヤ民族がイエス・キリストを十字架につけて殺害した張本人だとされたからである。
しかしながら、ユダヤ人は非常に優秀な人が多いとされ(ノーベル賞受賞者も圧倒的に多い)、 全世界に散らばって各地で基盤を築いてきた。
特に人種の坩堝と言われる自由の国アメリカでは、多くのユダヤ人たちが活躍し、大きな影響力を 持つようになった。
「Once Upon A Time In America」(だったと思うが)という映画では、禁酒法時代のアメリカで 大儲けをし、のし上がったユダヤ人が描かれていたが、あれがひとつの象徴であろう。
こうしてアメリカは、ユダヤ人の影響を抜きには考えられない国となった。

このような歴史を紐解いて来ると、歴史の中で宗教は大きな影響力を持ってはいたけれど、 それだけで判断することはできない、ということだ。
しかしながら、やはり大枠では、何らかの形で歴史の動きに「神」が関与していたとしか思えない ようなことがあることも確かだ。
それは、また、別の機会に譲るとしよう。


聖書1 (1999年6月22日)

聖書について書こう。
題名を「聖書1」としたのは、今後もさらに書いていくつもりで、たまれば別のコーナーを設けるつもり だからだが、ほんとに書けるかどうかわかったものではない。
要はそのときの気分次第だ。だからあまり過剰な期待はしないでほしい。(誰も期待なんか、してまへん!)

聖書というと「キリスト教の教典」というイメージが強すぎてとっつきにくい、という人もいるかもしれない。
そういうことを気にせず、単に教養のために読む人もいれば、ユダヤに特に関心があって読む、という人も中にはいるだろう。
また、西洋史や西洋文学などを勉強している人が読む、というケースは多いようだ。
というのは、西洋では、やはり聖書の影響が大きく、ことわざや慣習などにも聖書から来ているものが多いので、 聖書を読まないとそれらが理解できないからだ。

そういうわけで(どういうわけか、ようわからん)、今回は、わたし自身の聖書との関わりについて書く。

わたしは、自分から聖書を読もう、と思ったのではなく、天から降ってきた、といった方が早い。
国際ギデオン協会という、聖書を病院やホテルなどに無償で配布している組織があるが、高校(公立)の時に全校生徒が集められて、 その協会の人から、和英対照の新約聖書をいただいたのだ。
いつだったか、ある人にこういう話をしたら、「公立の高校でよくそんなことしましたね」、と言われた。
そう言えばそうか、と思ったものだ。
近くの高校ではどうだったのかしらないが、もし私の母校だけだったのなら、まともな先生が多かったのかもしれない(?)。

その聖書をもらってどうしたかと言うと、実は貪るように読んだ。
細かいことは省略するが、当時、わたしは「愛」について悩んでいた。
思春期であれば、誰もが経験することだろう。
それで、イエスの言葉が、砂地に水が入るがごとく、入ってきて、涙さえ流した。
どういう言葉に感動したのか、覚えてはいないが、たぶん、次の言葉も読んだに違いない。

だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。

その後、しかし、わたしは聖書のことなど忘れ、宗教自体を疑うようになった。
実家の天理教とは、ある事情ですでに距離を置いていたのだが、今度は宗教全体に対して疑うようになったのだ。
それは、どうして神はこの世を一挙に救えないのか、という疑問にぶつかったからだった。
全知全能と言われる神であれば、どうして一遍に救えないのだろう。

これは、しかし、あまりにも大きなテーマで、簡単には解かれそうになかった。
こうして、わたしは、キリスト教に興味を持ちながらも、キリスト教に入信することもなく、聖書に対する興味も薄れていったのだ。

つづく

(めでたい。これで続編が書ける、いや、書かなくちゃ?)






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