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東京物語(1999年4月8日)
この間、久しぶりに上野と浅草に行ってきました。
ちょうど桜が満開で、上野公園は人でいっぱいです。
また、不忍池では縁日のようで、出店がたくさん並んでいました。
アツアツのたこ焼きを食べていると、どこかのオジサンがやってきて、連れの
友達のカメラを見ながら、何かブツブツ言っています。
なんや、このオッサン、と思って聞いてたら、どうやら、誰か知り合いの
持っているカメラと同じだ、ということのようです。アブナイおじさん。
それにしても、たこが大きくて嬉しかった。(^_^)
浅草寺も人でいっぱいです。
御籤をひくと、ふたりとも吉でした。ラッキー!!
ところで、御籤って、「みくじ」ですよね。「くじ」に「御」がついてるわけ
です。「おみくじ」というと、「御神籤」か。どう違うんだろう。
たぶん、おんなじだろうな。
友達は、焼き餅を買って食べました。
わたしも食べたかったけれど、お腹がいっぱいで、諦めて、ヨダレを流しながら
見てました。
ずいぶん歩いたので、とても疲れたけれど、下町ってやっぱりいいよなあ。
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上海から (1999年3月15日)
昨年載せたものですが、ゆえあって(ないない、そんなもん)ふたたび
2年前、中国本土に出張で行きました。
訪れたのは深センと上海ですが、深センについては省略し、上海についてのみ触れます。
最初に上海に行ったのは13年前です。今回上海に着いてみると、やはりまるで覚
えていませんでした。空港がどうであったか、それすら覚えていないのです。あた
りまえの話かもしれませんが。
ところが、翌日の夜、繁華街に出かけたとき、突如として記憶がよみがえってきたのです。
そして、13年前に泊まった、「和平飯店」というホテルまで来たとき、あまりの
なつかしさに、嬉しくて嬉しくて飛び上がるほどでした。連れが何人かいたのです
が、私ひとりではしゃいでいました。それはそうでしょう、11年という時を越え
たのですから。
和平飯店というのは、黄浦江という、上海市内を流れる大きな河のほとりにありま
す。
河には遊覧船も出ていて、夜9時くらいでも人が多いところです。上海市内で一番
にぎやかな界隈でしょう。詳しくは知りませんが、戦時中は「租界」のあったあた
りだと思います。
また、和平飯店は、大通りをはさんでふたつ建物があります。わたしが13年前に
泊まったのは、20世紀初頭の古い建物ですが、新館(それでもかなり古い)の方
では、毎晩ジャズバンドの生演奏をやっています。そのバンドのメンバーというの
が初老以上のオジサンばかりなのも味わいのあるところです。おそらく13年前と
同じメンバーであったでしょう。
黄浦江の向こうは、「浦東区」という経済開発区で、新しいビルがどんどん建って
います。上海で最も進んだ地域と言えます。
今回の訪問で、上海がわたしの中で、深く思い出に残る地となりました。
そして、河の向こうの、今も建設が進む新しいビル群を眺めながら、古さと新しさ
がみごとに同居する中国の、不思議な活力を見せてもらったように感じました。
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ソニーの創業者・井深大氏のこと(1999年3月7日)
本日、ソニーの創業者である故・井深大氏のことを、テレビでやっていました。
とても感動しました。
以前、井深氏の「語録」のような本を読んだことがあります。
そのときは、井深氏の子どものような好奇心と率先垂範によって、自由闊達な開発
が行われている様子がよくわかりました。
今でもソニーは自由闊達な雰囲気があるようです。
番組では、前半はそういうビジネスに関する部分で、改めて感銘を受け
ましたが、後半は、わたしも全く知らなかった、氏の家庭でのことでした。
2番めの娘さんが、知的障害者であった、というのです。
わたしは、身近な人が養護学校の先生をしていたこともあって、その親御さん
のことなども含めて、いろいろと聞かされていました。
自分の子どもが、知的障害を持っている、あるいは、身体障害の場合もそうだ
と思いますが、それを知った時の親の気持ちというものは、測り知れないもの
があります。
そのとき、自分のことを反省する親も多いそうです。
井深氏も、そのような状況を恨みに思うのでなく、その後、
施設を作ったり、障害者が働く会社を作ったりして、単に自分の家庭の問題
だけでなく、社会的な問題として解決の道を探っていきました。
番組は、最後に、氏の「モノよりも、ココロのほうが大切なんだ、という
ことをわかってほしい」というような内容の言葉を伝えます。
これは、ソニーの社員に対するメッセージです。
けれど、それは、多くの人の心に、特に日本人の心に届いてほしい、あるいは
届くであろう言葉です。
番組では紹介されなかったように思いますが、氏は、実はクリスチャンでした。
ソニーのテレビの方式を「トリニトロン・カラー」と言いますが、それには、
トリニティ(神とキリストと聖霊の三位一体)という言葉が込められている
そうです。
クリスチャンだから、どうこう言うわけではありません。
氏のごとく、社会に貢献し、普遍的な思いを具体的にあらわす、という行為は
本当に感動を呼ぶものであり、わたしも、少しでもそういうところをめざした
い、と思うのです。
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脳死のこと (1999年2月28日)
いわゆる脳死移植法が制定されて以来、初めての脳死判定・摘出・移植が行われました。
ドナー(臓器提供者)の思いと、そのご家族の決断には、ほんとうに頭が下がります。
わたしも、ドナー・カードを持ちたいと思っているのですが、どこでどういう手続きをしたらよいのか知りません。
これは関係者からの情報発信不足かもしれませんね。
ところで、私はもともと脳死については明確な意識を持っていません。
脳死を人の死とすることが、よいのか悪いのか、今のところ判断できないでいるのです。
ただ、移植治療については、実は否定的なんです。
これは、免疫学的な観点と、西洋医学に対する疑問との、ふたつの理由からです。
と言っても、わたしが専門家の訳はなく(^^)、本を読んだり聞いたりした範囲のものです。
まず、体外からの侵入者に対する免疫機能については、よく知られていると思います。
臓器移植でよく聞かれる、「拒絶反応」というのも、その一種です。
同じ臓器といえども、たとえ家族のものでも、他人のものは他人のもの、なのです。
これは非常にはっきりしています。
それだけ、ヒトのからだというのは、よくできています。ほんと、スゴイ。
この点でも、ひとりひとりの人間は、唯一無二の存在、なんですね。
次に、西洋医学についてですが、今回の移植では、それぞれの臓器が別々の病院に運ばれ、別々の患者さんに移植されました。
あたりまえと言えば、そうなんですが、実はこれが西洋医学の特徴を端的に示しています。
つまり、臓器をバラバラに管理する。
全人的に見ることは少ない。
それで、大腸癌の手術をしたら、肝臓に転移した、などということが起こって、どうしても後手後手の対症療法になりがちです。
人間というものは、単なる臓器の集まりではありません。すべてが有機的に結合しています。
さらに、人間は、外界とも有機的につながっており、簡単に言えば、この宇宙全体がひとつの有機体になっています。
たとえば、ほとんどの病気に関係していると言われる活性酸素ですが、これが大気汚染や食品添加物などの影響で体内に増えてきている、という研究報告があります。
小児喘息やアトピー性皮膚炎など、アレルギー性と言われる病気は、以前は、成長すればよくなるケースが多かったそうですが、今はなかなかよくなりません。
特に、アトピー性皮膚炎は、「治る」ということがありません。「よくなる」だけで、治療を怠るとすぐ再発します。
原因は、空気の汚れ、です。空気がほんとうにきれいなところへ行けば、ほとんど再発しない、と言われます。
このように、人間の営みによって汚された空気によって、人間の体が蝕まれている、といったようなことは、多く見られます。
こうして見ると、臓器をバラバラに管理することが、いかに間違ったやりかたか、おわかりになると思われます。
ということで、わたしは臓器移植については否定的なんですが、最初に書いたように、ドナーになりたい、と思っています。
それは、移植を待つ患者さんや、そのご家族のことを思えば、やはり何か貢献したい、と思うからです。
脳死について、はっきり結論を出せないでいるのも、そのことと無関係ではありません。
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詩の世界 (1999年2月15日)
死の世界、ではありませんよ。
初め題名のところで、しのせかい、と入力して変換したら、死の世界、と出て来ました。
そのままでリターン・キーを押してしまって、自分で苦笑しました。
詩人って、夭折した人が結構いますね。
もちろん長生きした詩人も多いわけですけれど、イメージとして、詩人は、いのち短し、です。
放蕩三昧だったり、愛の修羅場をくぐったり、といった人も多い。
ポエムのコーナーにも書きましたが、アルチュル・ランボオの詩を読んでいます。
学生のころ少しだけ読んで以来だから、もう何年ぶりだろう。
ランボオのことを知ったのは、小林秀雄の本を読んでからです。
そのとき、エドガー・アラン・ポーのことかと思いました。(^_^)
今読んでいるのも小林秀雄の本(考えるヒント4)です。
ランボオは37で死にました。
放蕩の限りを尽くし、19歳で詩を捨て、世界中歩き回って足を痛め、片足を切って死んだんです。最後は商人として。
この本の中には中原中也のことも出てきます。
「汚れちまった悲しみに」で有名な人ですね。
わたしはこの詩に曲をつけたことまで、あった。それほどこの詩が好きでした。
中也も、やや若くして死にました。
彼は、心の病で死んだんです。
残念ながら私はふたりの詩を全部読んだわけでないし、熱心に読んだわけでもありません。
「考えるヒント4」を貸してくれた人は、ランボオに夢中だったそうです。
それを「等身大の病」と表現しました。言い得て妙、とはこのような表現のことを言うのでしょう。
わたしは、そこまでにはなれそうもありません。
けれど、久しぶりに、死の世界、でなくて、詩の世界に半分足を浸しているところです。
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愛について(3) (1999年1月26日)
2ヶ月ぶりに続きを書きます。
「出会いを大切に」ということはよく言いますね。
わたしは、「1回会った人は決して忘れない」ということを心がけています。
実行するのは、やはり至難のワザで、1年間ほど一緒に仕事をした人の名前を、
2ー3ヶ月経って度忘れするようなことはしょっちゅうです(これは、単に
健忘症のケがあるだけかもしれません)が。
つい最近も、会社のメンバーが退職するので歓送会があったり、以前お世話になって、
地方の営業所に転勤になっていた同僚が退職することになり、久しぶりにメールで
やりとりしたりしました。
こういう場合いつも感じるのは、何もしてあげられなかったなあ、ということです。
「愛情が足りない」とは、自分でも思いますし、人から言われることもあります。
このテーマの最初の稿で、親のことを書きましたが、あの後、父親も、何も孝行できないまま、
逝ってしまいました。
「1回会った人は決して忘れない」
もう一度この言葉を肝に銘じて、歩んで行こう、と思っています。
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ノストラダムスの予言 (1999年1月6日)
いよいよ「1999年」 がやってきました。
さっそくいろいろな雑誌で特集が組まれています。
これについて、わたしの意見を述べます。
結論から言うと、「7月」に人類が滅亡するようなことはない、ということです。
まず、ノストラダムスの予言は、抽象的な詩で表現されていますので、そこ
に予言されていることがらが実際に起こったかどうかは、明確にはわかりま
せん。それらしい事件が起こって初めて、ああ、これがそうかな、というだ
けの話です。
「1999年7月」についても、誤訳だ、という人もいますし、「人類滅亡」とは
一言も書かれていない、というのも事実です。
それに、ほかに予言書は数多ありますが、彼の予言よりも明確なもの、そして、
的中率の高いものはあるようです。
ただし、いろいろな状況を客観的に考えて、実際に彼の予言が当たったこと
があることは確かだろう、とは思っています。
また、彼の予言は3000年代まで続いています。
それからすれば、1999年に人類が滅亡する、という予言をするわけがない、と
考えられます。
さらには、「1999年7月」の後に、救世主が来る、というような内容の予言も
あります。
これらを総合して考えると、環境問題などですでに人類は滅亡の「危機」に
瀕していることは現実となっていますので、そのような中でイエス・キリスト
のような救世主が再び来る、ということが、彼の最も言いたかったことである、
と思われます。
考えてみれば、このような、キリストが再び来る、いわゆる「再臨」の予言は、
彼のオリジナルではありません。
イエス・キリスト自身が「再び来る」と言われたのであり、聖書も一種の
予言書(聖書の場合は、神から預ったことば、「預言」)ですし、世界中に
同様の予言が存在します。
したがって、わたしたちのなすべきことは、いたずらに不安を持つのでなく、
現在の困難な状況を打破して、誰もが喜びを感じるような世界を築く、という
ものではないでしょうか。
最近、「ギブ・アンド・テイク」でなく、「ギブ・アンド・ギブ」の精神が
重要だ、とか、将来、競争原理中心の資本主義は限界が来る、と言う人が増
えています。
また、日本古来の、自然とともに生きた知恵を見直そう、という動きも出て
きています。
これらの状況を考えると、21世紀はほんとうに希望の時代であり、今の
状況は、「産みの苦しみ」であると、わたしは確信しています。
そういう中で、彼の予言をどう捉え、どう行動するか、それが最も彼の警告
したかったことではないか、と思うのです。
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宮沢賢治 (1998年12月13日)
ここ2ヶ月ほど、宮沢賢治の虜になりつつあります。
その童話や詩を多く読みましたし、「銀河鉄道の夜」のアニメ映画も
ビデオで見ました。
また、きのう賢治の映画を見ました。
一昨年の、生誕100年のときにやっていたものです。
以前テレビでやっていたのをビデオにとっておいたものですが、最初
のあたりを見たままになっていたのです。
残りを見て、とても感動しました。
特に、妹のとし子の死の場面と、自分が病気になって両親に電話する
場面があるのですが、強い衝撃を受けて、ポロポロと涙が流れました。
わたしには妹がいるわけでなく、兄弟が亡くなった経験もありません
が、愛する妹をなくした賢治の気持ちが、よくわかりました。
両親に電話する場面では、逆に、自分の父のことが思い起こされました。
いずれにしても肉親の情というものの深さを、改めて思い知らされた
映画です。
感動する映画って、ほんっとにいいですね。
では、さいなら、さいなら、さいなら。
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愛について(2)(1998年11月23日)
「与える」ことについて続けます。
その基本は、祈ることだと考えます。
祈りは、思うことから始まります。
思うことがなければ、何も生まれません。
前回記した、人間の親のような存在は、創造主、宇宙の大生命、あるいは
サムシング・グレートなどと呼ばれますが、ここでは一番わかりやすく、
神、と呼んでおきます。
神が創造主であり、人間の親であるならば、人間が思いもせず、考えも
しないことには、たぶん、何もおこらないようになっているのではないかと
思います。
逆に、一旦、あることを考え、誰かのことを思えば、いつか必ず何かが起きる
のです。
これは、わたしの体験だけ考えてみても言えることですし、多くの人がそう
言っていますので、間違いないでしょう。
それほどわたしたちの「思い」というものは、パワーがあります。
思うことから始め、深く祈るようにすれば、それが相手に対して与えること
につながる。
心からそう思うのです。
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モスクワ(1998年11月17日)
1990年にモスクワに行きました。
ソ連時代の最後の年です。
わたしが行ったのが10月で、12月にソ連はなくなりました。
当時感じたことは、車がとても汚いことと、ホテルに何だかアブナイ女性がたくさん
いたこと、そして、食事に野菜が少ないことが印象的でした。
アブナイ女性からは、わたしの部屋にも電話がありました。
そういう女性が、モスクワで超一流といわれるホテルにいるのですから、かなり驚いた
ことは確かです。ところで、ロシアの女性はほんとうに美人です。
当時の印象は、このようにあまりいいものではありませんでした。(何のこっちゃ)
けれど、今思えば、共産主義の亡霊が消えかかり、変革に向かうロシアの姿は、一種
かなしくも魅力的な、そういうものであったように思います。
共産主義国家という幻想を求めた壮大な実験は、一瞬にして崩れ去り、その後の経済的
大混乱も、その後遺症と言えると思います。
これからのロシアの必死なる改革に、大いに期待したいところです。
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愛について(1998年11月12日)
愛について一言であらわすのは難しいことですが、あえて一言で言うならば、「与えたくて与えたくてたまらない思い」ということになる、というのが私の考えです。
もう少し詳しく言うと、与えて、しかもそれをすぐ忘れ、また与えたくなる、そんな感じでしょうか。
よい例がやはり親でしょう。
親にとって、子どもはいつになっても子どもです。
わたしもたまに帰省しますが、最後には何か持って帰らせようとします。
それが親であり、子どもであるわたしは、かなわないなあ、といつも思います。
そういう親の愛情は、いったいどこから来るのだろう、と考えたことはありますか。
いつの時代でも親の愛情というものはそういうものでした。
動物にも、人間以上に強い親子の絆を見ることもありますね。
もちろん、中にはひどい親もいますが、基本的にはやはり変りません。
いつからこのような親子関係になったのでしょう。
最初からですね、きっと。(あたりまえか?)
でも、いつになっても愛するって、なかなか難しい。
自分自身を振り返り、また世の中を見てみれば痛いほどよくわかります。
こう考えると、たぶん親の愛情だって、人類が(あるいは動物が)誕生して自然に出てきたものではないんじゃないでしょか。
そうしたときに、われわれ人間を、親として愛してやまない、そういう存在があるのだろう、と思わざるを得ない、というのがわたしの実感です。
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沼田(1998年10月27日)
先日、群馬県の沼田に行ってきました。
いわゆる「日本ロマンチック街道」のあるところです。
関越自動車道の沼田ICを降りて、国道120号線を尾瀬方向に走る、その道です。
本家がドイツにあるロマンチック街道です。
ドイツのロマンチック街道の南の起点はアウグスブルクという、ローマ時代から
ある町ですが、ここは中世を思わせる街並みが残っています。
ライン川沿いに続くロマンチック街道は、ドイツというひとつの国を貫いています。
本家とは比べ物になりませんし、沼田ICを降りたあたりは、ほんまにここがロマ
ンチック街道かいな、と思うほどですが、日本のロマンチック街道にもいくつかお
勧めのスポットがあります。
今回沼田は3度目ですが、雨が降っておりました。なにせ西日本には台風がやって
きておりましたので。
でも、そういう雨の日でも、団体さんが来るのです、観光バスで。
その定番のコースが「オルゴール館」と「吹割の滝」です。
まずは「オルゴール館」ですが、文字どおりオルゴールが所狭しと並んでおります。
年代もののドイツ製の大きな物もあります。
オルゴールのCDなどもひところ静かなブームになりましたが、お好きな方は一見
の価値アリ、です。
「オルゴール館」というのは、ここだけでなく、いろんな観光地にあるようです。
このあたりは霧が出やすいらしく、わたしが行った頃は10m先も見えないくらい
濃い霧が出てしまい、昼食をとりながら、帰れるかなあ、と本気で心配してしまい
ました。
大体関越自動車道もよく霧で通行止めになるのです。
つぎは「吹割の滝」ですが、前回行った時は、水が少なくてさびしい限りでしたが、
今回はさすがに雨で増水しており、壮観でした。
一緒に行った人が、「この日に来てよかった」とのたまっておりました。
「吹割の滝」というのは、普通の高いところから落ちる滝ではなくて、渓流の中に
大きな段差があって、そこに3方向くらいから同時に水が落ちてゆく、といった形
になっています。
向かいの絶壁に真っ赤に紅葉した木がぽつんとあり、それを背景として見る滝は、
絶景と呼べるものでせう。
そのあと尾瀬方面にドライブがてら車を走らせましたが(パワステでないので大変
だった)、上のほうは結構紅葉してました。
ひとしきり降る雨の中でその色づいた木々を見ながら、その美しさにしばし立ちつ
くしていました。
雨の日がずいぶん好きになりました。