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小泉政権 (2001年5月15日)
小泉政権が誕生し、初めての予算委員会も始まった。小泉首相の
言動は非常に小気味よく、今までの国会とは一味もふた味も違うも
のになっている。このような中で、政府が国民に受け入れられ、国
全体が一致協力すれば、現在のわが国の困難な状況を打破すること
もできるだろう。そうすれば、多くの人にとって喜ばしい結果が生
まれてくるに相違ない。
小泉政権の中で、気になるのは、田中外相の動向だ。台湾の李前
総統の入国に関する否定的な発言や、米国のアーミテージ国務副長
官と会談しなかったことなど、「嫌米好中」の姿勢が見うけらなく
もない。これについて、「産経抄」で故田中元首相の影響が指摘さ
れていたが、事は国益に関わる問題だ。
日本外交の根幹は、日米関係にある。米国の新政権も、中国より
日本を重視すると明言している。田中外相が、このような状況に鈍
感で、外交の舵取りを誤るようなことがあるなら、小泉首相自ら、
外相をしっかり指導すべきである。
小泉首相は、是非とも、初心を忘れることなく、国民の多大なる
期待に応えられるよう、持ち味を十分発揮して前進していただきた
い。と同時に、われわれ国民も、改革の痛みを甘受することも含め、
最大限の協力をなしていくべきだと考える。
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成人式 (2001年1月12日)
高松市の成人式で、挨拶中の市長に向けてクラッカーを鳴らすな
どして、式を妨害した若者たちが逮捕された。
威力業務妨害という聞きなれない罪名だが、彼らにとっては、面
白半分に騒いだだけのことなのだ。彼らが、反省して自首してきた
ことには、救いを感じるべきだろう。
この事件から、ふたつのことが読み取れる。
ひとつは、公私を分けることができない常識のなさ、あとひとつ
は、面白ければそれでよい、という短絡的な考え方、である。
最初の、公私を分ける、というのは、言いかえれば、いわゆる
「ハレ」と「ケ」のけじめ、ということ。そして、それは、やはり
教育や家庭でのしつけが重要だ。
埼玉県所沢市の高校で、正式な卒業式がないがしろにされ、記念
パーティーのようなものが優先されていたことも、これと同根だ。
あとの、面白ければそれでよい、というのは、社会全体の風潮で
あり、大人の責任でもある。そして、テレビなどの影響も、はっき
りと指摘し認識しておかなければならないだろう。
視聴率優先で、ばか騒ぎばかりしているようなテレビ番組に対す
る批判は多いが、成人式の事件を報道するテレビは、それらの批判
をきちんと認識しているかどうか。その影響の大きさに対する自覚
を、改めて問いたい。
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新世紀に向けて(3) (2000年12月29日)
まず、今までのすべてを肯定するところから始めよう。
反省すべき点は反省するが、それもこれもすべてわれわれにとって必要な道であったのだ。
わたしの辿って来た道も、この国のなしてきたことも。
選択した結果として失敗したとしても、その選択が間違いであったといったところで、今更どうなるものでもない。そしてそれもわれわれにとって必要な選択であったのだ。
この世の中に必要でないものは何もない。
人も組織も生成し発展する。成長に必要なものがすべて与えられるようになっている。失敗も例外ではないし、自分にとって苦手な人も、競合相手も、そのうちのひとつにすぎない。
すべてを必要・必然と捉え、肯定しあい、成長の糧とする。
そこからすべてが始まり、すべてを変える。
そして、新しい世紀が、すばらしい時代であると確信し、自分のなすべきことをなす。
それによって、ほんとうに、すばらしい時代になる。
新しい時代を、希望を持って、喜びとともに迎えよう。
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新世紀に向けて(2) (2000年12月20日)
BSデジタル放送が始まった。地上放送も、やがてデジタルになると言う。
わたしたちの身の回りに、デジタル機器があふれている。パソコン、CD、携帯電話、などなど。家電や自動車も、もはやデジタル機器なしには動かない。
デジタルは、機械を制御するのに適する。0と1の、二進法の世界だ。
わたしたちとは、異質の世界と言っていい。人間を含む生物やこの宇宙は、もともと
アナログ的な存在だ。
その違いによる影響が、間違いなく存在する。
ひとつには、電磁波の、人体に対する影響がある。電磁波そのものは、アナログ波だ。
しかし、アナログ機器の発する電磁波よりも、デジタル機器のそれのほうが、はるかに影響が大きい。
その顕著な例が、携帯電話だ。
今は、アナログの携帯電話は殆ど存在しない。デジタルの携帯電話になって、盗聴される心配はなくなったが、ペースメーカーなどの医療機器に対する影響は、深刻なものになった。
また、パソコンのディスプレイを長時間見つめていると、確実に視力が低下する。
長時間の読書を毎日続けていても、視力に対する影響はあるが、パソコンのディスプレイによる影響ほど、大きくはない。
AV機器においては、アナログよりもデジタルの方が、音質や画質がよい、とされる。
しかし、音楽のマニアは、CDよりもアナログ(レコード)の方がよい、と言う。
わたしも、そう思う。CDの音は、クリアだが、アナログほど、深みや広がりがない。
これだけデジタル機器が増えると、それらなしでは生きてゆけなくなる。
しかし、逆に、それらから逃げ出したくなるときもある。
わたしは、家では、なるべくパソコンを使いたくない。仕事では、使わざるを得ない
が、家では、最小限のネット接続のみだ。
また、できるだけ自然に触れたい、と思う。
寒いときは、外に出るのが億劫になるが、暖かくなると、またぞろ郊外に出たくなる。
機械も、これからはアナログ的になる(戻る)だろう。もちろん中身はデジタルだ。
人間は、自然に回帰し、より創造的な仕事を目指すようになる。
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新世紀に向けて (2000年12月18日)
今年も、あと二週間だ。年があけたら、二十一世紀だ。
わたしが子どもの頃、同年代の子どもたちが二十一世紀のことを想像した絵などが、
よく漫画本などに載っていた。
宇宙や、海中で生活できるようにする技術など、すでに現実のものになりつつあること
を考えると、何が重要なのかがわかってくる。
それは、人間の意思だ。
人間が考えつかないことは、決して実現しない。
あたりまえのことだが、これが最も単純で、非常に重要なことだと思う。
観点を変えれば、あなたが考えることは、基本的にはすべて実現する。
良いことを考えれば、そのとおりになり、悪いことを考えれば、悪くなる。
なにかすばらしいことを実現しようと思えば、それを考えつづけ、その実現のために
努力しつづけること。
偉大な発明・発見をした人たちは、それを実行した人たちだ。
さて、話は変わるが、アメリカの新しい大統領が、やっと決まった。
新政権は、中国やロシアとは一定の距離を置き、対日関係重視の姿勢だと聞く。
日本にとっては喜ばしいことだが、今後は、日本も、真剣に変革を遂げて行く必要が
ある。規制緩和などの構造改革は、かなり進んでは来たが、欧米の基準からすると、
まだまだである。
わたしは何も欧米の基準がすべてとは言わない。万全なものでもない。
しかし、世界の大きな流れは、世界第二の経済大国に、応分の責務遂行を求めている。
また、日本の伝統文化は、世界に誇れるものであるが、日本人は、それを忘れつつ
ある。これは、戦後教育の大きな誤謬のひとつだが、もちろん、それだけとは言わない。
戦後の日本は、極論すれば、ほとんど経済発展だけを追及してきた。これらによって
失ったものは大きい。
わたしは、日本人は、もともと経済感覚の豊かな民族だと考えて
いるが、それでも、昔の日本人と今の日本人は、はっきりとした違いを持っている。
それは、自然との共生を重視するかどうか、だ。
現在の世界で、自然との共生を最も重視している文明社会は、ドイツを中心とする
欧州だと考えられるが、江戸時代あたりまでの日本人は、明らかに彼らよりも上を行く
循環(リサイクル)型社会を築いていたようだ。
これらのことを考えれば、日本の目指すところは自ずと明らかになってくる。
まずは、国の負債を少しずつでも減らしていくことだ。
日本は、民間には1200兆円以上の預貯金がありながら、政府は、間もなく世界一の
債務を抱えるようになる。
これは、明らかに、政府と民間企業が「甘えの構造」によって凭れあい、日本という
国を食い尽くして、沈没させてしまったからである。日本は、すでに沈没している。
従って、日本人は、「甘えの構造」を少しずつでも断ち切っていく覚悟をしなければ
ならない。そのためには、それぞれが自己責任を追及し、自立した大人になってゆく
必要がある。それは、何事に対しても、自分が最後の防波堤になる、という決意を持つ
ことだ。
次に、日本の伝統分化に目を向け、再生型の社会を取り戻すことだ。それには、
現実社会だけでなく、自然や、目に見えないものに対する畏敬の念を持つことができる
よう、教育を根本的に見直す必要がある。
これには、家庭だけでなく、マスコミや企業の協力も、絶対に必要である。
なぜなら、マスコミの影響や、一部企業の利益追及の姿勢が齎す影響は、甚大と考える
からである。
自然との共生は、自然や、目に見えないものに対する畏敬の念と、切り離して考える
ことはできない。もともと、日本は、台風や地震など、自然災害が多く、その影響を
最小限に抑えるために、多くの努力を費やしてきた。そこから、自然に宿る神を畏れ、
日本古来の宗教が誕生してきたと考えられる。江戸時代くらいまであったとされる、
循環型・再生型の社会も、その流れで成立してきた。
戦後の潮流の中で、日本人の、目に見えないものに対する感性も、流されてしまった。
そこにおいて、教育の責任、マスコミや企業の影響は、はかりしれない。
結果的に、日本人は、エコノミック・アニマルとなってしまった。援助交際に走る
少女に、罪悪感のかけらもない。
さて、話を戻そう。
このような変革を成し遂げるのは、わたしであり、あなたなのだ。
ほかに、誰もいない。
今日、この瞬間の決意が、二十一世紀を、豊かな、すばらしい時代にするのである。
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日本の行く末 (2000年10月6日)
四月あたりからずっと、推理小説ばかり読んでいる。西村京太郎を四十冊ばかり、
コナン・ドイルを数冊、最近は、内田康夫を、そう、十冊ばかり読んだろうか。
内田康夫の小説に、日本の神話とか、先の戦争に関する話が出てくる。
最近は、国旗・国歌といった問題も、それほど話題にならなくなったが、一時は、
産経新聞でよく報道されていた。
国旗や国歌が、何か特別のもののように報道されること自体、異常と言えば異常だが、
それも、国民性のなせる業と言えなくもない。
先日の、シドニー五輪のソフトボールで、日本は銀メダルを取ったが、その表彰式で、
優勝したアメリカの選手たち全員が、右手を胸のあたりに置き、国歌を誇らしげに歌っ
ている姿が、非常に印象的であった。わたしは、あれが自然な姿だと、素直に思った
ものだ。
今年は、十七歳の少年たちによる凶行が、いくつか発生した。また、ヤマンバ娘たち
も、相変わらず元気そうだ。
景気は、まだまだ回復しきってはいないが、業界によっては活況を呈しているところ
も増えてきている。
日本の行く末について、案ずる声も多いが、案外、それほど心配しなくてもよいので
はないか。
二十一世紀も、すぐそこまでやって来ている。
新しい時代は、希望の世紀であり、地球全体がよくなっていくことは間違いないと思
われる。
まず、そう信じること、それが重要なのだろう。心配ばかりしていても、ロクなこと
にはならない。わたしは司馬遼太郎が好きだが、彼のように、警鐘乱打していても、
残念だけれど、よくならないものは、よくならないのだ。
未来を信じること、その信念のパワーこそが、豊かな未来を齎してくれるのだ、と
思う。
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わが国の姿 (2000年1月11日)
前回、「国民の歴史」という本について書いた時、
要は、日本人は「とるにたりない」民族である、ということを繰り返し
教える結果となっている。
と記した。
わたし自身は、日本人が「とるにたりない」民族だなどと考えたことがない。
学生の頃、「反省教育」を受けた覚えがないせいかもしれない。
却って、日本人の優秀さに一種の優越感を覚えたことすらある。
今はあまり元気のない日本だが、これまで成長を続けてきたことを考えれば、
そういう感覚は自然なものだと言えなくもない。
わたしは、「反省教育」を受けた若い人たちが、日本のことをどう考えているのか
知りたい気がする。
いずれにしても、現在、日本の将来に不安を感じている人たちは多い。
時節柄、「騒々しい成人式」に代表される、礼節をわきまえない若者たちや、
いわゆる「神戸事件」などの異常犯罪の増加、といったことが、そのような
不安を増幅させている。
さらに、高齢化・少子化による年金制度などの崩壊、といったこともあり、
これから日本はどうなっていくのか、と考えてしまう。
しかしながら、一方では、しっかりとした考え方を持つ健全な若者はやはりたくさんいるし、
年功序列など、戦後の日本社会を特徴づける体系を、軽々と乗り越えてしまうのは、
悪いことではない、と捉えている。
これらのことを見聞きしながら、「わが国の姿」を改めて考えることが重要ではないか、
と思う。
司馬遼太郎は「この国のかたち」と言った。
それに対して、昨年自殺した江藤淳は、それは自分の国を突き放したような言い方だ、として、
「わが国の姿」と言い換えた。
わたしは、どちらでもよいのだが、自分の国のこととして身近に捉えようとすれば、
やはり「わが国」のほうがしっくり来るのではないか。
兎も角、新しい世紀をすばらしい時代にすべく、ひとりひとりが「わが国の姿」を
しっかりと見つめ、自分の生まれた祖国に対して何ができるのか、今一度
考えてみるのも、よいのではないかと思う。
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国民の歴史 (2000年1月4日)
「国民の歴史」という本がベストセラーになっている。
700ページを越える大著だ。
この本は、簡単に言えば、自分の国と自分の民族に対する自信と誇りを
失った日本人に、もう一度その自信と誇りを回復させてくれる本だ。
どういうことかと言えば、戦後の日本人は、戦争アレルギーを背景とした
「反省教育」(これは著者のことばではなく私のことば)によって、「戦前の
日本がいかに間違っていたか」、ということを徹底的に教えられてきた。
そして、それが古代史を含むすべての日本の歴史を見る際に影響している。
そのため、日本人の築いてきた文化や技術といったものを、徒に矮小化する
傾向がある。
要は、日本人は「とるにたりない」民族である、ということを繰り返し
教える結果となっている。
このような、事実に立脚しない歴史学および歴史教育を否定し、できるだけ
冷静に事実を捉え、日本人がいかに優れた文化と技術を持ち、西洋文明に
匹敵する一文明圏を築いてきた歴史を、あからさまに述べているのが、
この本なのである。
そして、最終的には、「日本から見た世界史」の構築を目指している。
世界の歴史教科書を見た時に、自国の歴史を極端に礼賛するものはあったと
しても、自虐的に記述するようなものは皆無である。
これは当然のことと言える。
誰がすき好んでそのようなことをするだろうか。
また、そのような自虐的な歴史を子供たちに教えて、自分の国に誇りを持て、
と言えるだろうか。
日本は確かに、他国を侵略した事実がある。
また、戦争は悲惨なものだ。しかし、それとても、一面的に悪と捉えることが
できるだろうか。
戦争には相手があるものであり、また、「戦争は政治の延長」である。
極論すれば、あくまでも「政治」の手段にすぎない。
さらに、日本が他国を実質的に支配したことの是非についても、当時の状況を
よく検討する必要がある。
戦勝国が一方的に敗戦国を断罪することほど愚かしいことはない。
「国民の歴史」は、こういったことを含め、多くのことを教えてくれる。
少なくとも、自分の国のこと、日本の歴史のことを、もっと知るべきである
ことだけは、確かなようだ。
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